史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 日乃出町

2013年10月20日 | 北海道
(土方啄木浪漫館)


土方啄木浪漫館

 土方啄木浪漫館は、平成十五年(2003)に開館したもので、二階にはやはり函館に所縁の深い詩人石川啄木関係の資料が展示されている。ここでは、土方歳三はまるで少女マンガの主人公のような扱いで、オジサンにはちょっとついていけない雰囲気であった。


土方啄木浪漫館の壁面写真

 六名の写真が壁面に掲示されている。誰だか分かりますか?

(答え)
左上から榎本武揚、大鳥圭介、中島三郎助。下段、左から甲賀源吾、ジュール・ブリュネ、高松凌雲


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函館 陣川町

2013年10月20日 | 北海道
(四稜郭)


四稜郭

 四稜郭は、五稜郭の背後を固めるため、旧幕軍によって急造された西洋式要塞である。五稜郭と同じように、周囲に土塁と空堀を巡らし、四隅に砲座を置いた。五稜郭と比べると規模はかなり小さいが、上空から見ると蝶が羽を広げたような形をしているらしい。
 地元の言い伝えによると、旧幕軍は士卒約二百名と付近の住民約百名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの稜堡を完成したという。
 明治二年(1869)五月十一日、新政府軍は四稜郭に総攻撃を仕掛けた。松岡四郎次郎率いる旧幕軍は必死に防御に努めたが、長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を攻め落としたため、孤立することを恐れた旧幕軍は五稜郭へ敗走した。
 四稜郭は長らく荒廃するに任されていたが、昭和九年(1920)に史跡に指定されて以降、地元の人や市民の手厚い保護を受けて、今日まで往事の原型を復元保存することに成功した。
 五稜郭には観光バスが横付けし、連日多くの観光客で賑わっているが、四稜郭の方はというと、訪問客は疎らである。


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函館 神山町

2013年10月20日 | 北海道
(大円寺)


大円寺

 大円寺も、土方歳三の遺体が最初に埋葬されたとされる寺院の一つである。箱館戦争における新政府軍戦死者の墓がある。


旧官修墓地


無縁塚

 大円寺の無縁塚は、五稜郭の築造工事のとき、病気や怪我で死亡した人たちを供養する塚で、碑の裏面には建立された年月日(文久四年甲子春)と「棟梁喜三郎一同」と刻まれている。喜三郎とは、備前の石工井上喜三郎のことで、五稜郭のほか弁天台場などの石造りを担当した。


箱館奉行役宅墓所 杉浦誠の娘の墓

 杉浦誠は、幕府が任命した最後の箱館奉行である。杉浦誠は、文政九年(1826)江戸の生まれ。誠は諱で、雅号を梅潭と称した。壮年時代は武を好み、剣道をよくした。大橋訥庵に文学を学び、横山湖山、大沼枕山に詩を学んだ。文久二年(1862)目付に任じられ、文久三年(1863)新番頭格に転じ、慶応二年(1865)二月、箱館奉行に補された。維新後は静岡藩公議人を経て、明治二年(1868)外務省出仕。ついで開拓権判事として再び函館に勤務することになった。資性温厚、人望もあり、函館支庁において交通商業等の発展に力を尽くした。明治十年(1877)に職を辞したあとは、東京に住んで詩作を楽しんだ。明治三十三年(1900)、七十五歳で死去。
 新潟などの遠国奉行の多くが、戊辰戦争勃発とともに業務を放棄して逃亡したが、杉浦は職務を全うした。幕末を代表する能吏の一人である。

(神山稲荷神社=旧東照宮)


神山稲荷神社


手水石

 五稜郭を占拠した旧幕軍幹部は、そろって東照宮を訪れ、参拝した。
 手水石には、箱館戦争当時の弾痕が残っているという。この手水石の写真を撮り忘れていたことに気付き、途中から引き返した。ところが、どういう事情かしれないが、手水石にはシートがかけられ、念の入ったことにロープで縛られていた。勿論、弾痕は確認できず。

(権現台場跡)


権現台場跡

 権現台場は、四稜郭とともに箱館の北方防御の拠点であった。

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函館 吉川町

2013年10月20日 | 北海道
(極楽寺)


極楽寺

 吉川町の極楽寺には、明治十年(1877)頃、地元吉川、亀田両村の寄進者十名により建立された諸国戦死供養塔がある。建立時期から、箱館戦争における新政府軍、旧幕軍の戦死者の菩提を弔った灯篭と推測されている。


諸国戦死供養塔


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函館 八幡町

2013年10月20日 | 北海道
(亀田八幡宮)


亀田八幡宮

 明治二年(1868)五月十七日、亀田八幡宮で降伏の誓約式が執り行われた。降伏の前夜、榎本は自刃しようとしたが、介錯を命じられた大塚靍之丞(彰義隊改役)に押しとどめられ、翻意して余兵の助命を乞うて総督府に嘆願することにした。このとき大塚は短刀に触れて指三本を失っている。
 東京に護送された榎本は在獄三年ののち明治五年(1872)、赦されて自由の身となった。明治二十年(1887)には子爵を授けられている。
 亀田八幡宮の神與殿の前には、「箱館戦争降伏之地碑」が建てられている。


旧拝殿の弾痕

 亀田八幡宮付近も激戦となった。拝殿の位置は、往時の場所から変わっているが、古い板材をそのまま使った拝殿には弾痕が残されている。

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函館 五稜郭 Ⅱ

2013年10月13日 | 北海道
(五稜郭タワー)


五稜郭タワー

 何故だか五稜郭に来ると中国人(多分、台湾人か)の観光客がやたらと多い。


箱館戦争供養塔

 五稜郭タワー内には箱館戦争供養塔が建てられている。


土方歳三像


土方歳三像

 函館では土方歳三はスーパーヒーロー扱いである。五稜郭タワーには二体の土方歳三の像がある。


榎本武揚像


武田斐三郎像


展望台における箱館戦争関係の展示
「五稜郭物語」

 展望台では箱館戦争関係の展示が見逃せない。箱館戦争における重要な局面を、人形を使って展示している。いずれもリアルに作ってあり、一見の価値がある。


函館駅の「箱館古地図」

 この地図を見れば一目瞭然であるが、幕末当時、函館山の麓、西部地区に集中しており、五稜郭周辺にはほとんど人家が無かった。現在の函館市からは想像できないような風景であった。



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函館 五稜郭 Ⅰ

2013年10月13日 | 北海道
(五稜郭)


五稜郭跡

 今回の道南旅行も五日目となった。満を持して五稜郭を訪ねる。五稜郭は箱館戦争の主戦場となった。今は観光都市函館を象徴する史跡となっている。


五稜郭

 高さ百メートル余りの五稜郭タワーから五稜郭の綺麗な星型を目にすると、誰もが感嘆の声を上げるだろう。
明治新政府が派遣した箱館府(清水谷公考知事)は早々に退去したため、既に箱館は無主となっていた。松前藩を蹴散らした榎本軍は、明治元年(1868)十二月には道南を鎮圧して、五稜郭に入城した。このとき彼らが選挙(当時の用語でいうと「入札」)によって幹部を選出したことから、榎本政権のことを「蝦夷共和国」と呼ぶ向きもあるが、果たして正確であろうか。少なくとも榎本自身あるいは旧幕軍の幹部自らこの政権を「蝦夷共和国」と呼んだことはない。選挙権のあったのは中級将校以上に限られるし、榎本武揚自身はいずれ徳川家の当主を箱館に迎えたいという意向を持っていたようである。榎本らがこの時点でどのような思想や理想を持っていたか判然としないが、我々がイメージするような共和国的な構想を持っていたとは考えにくい。
 入れ札の結果、選出されたのは以下の顔ぶれである。
 総裁 榎本武揚
 副総裁 松平太郎
 海軍奉行 荒井郁之助
 陸軍奉行 大鳥圭介
 陸軍奉行並 土方歳三
 箱館奉行 永井尚志
 箱館奉行並 中島三郎助
 江差奉行 松岡四郎次郎
 江差奉行並 小杉雅之進
 松前奉行 人見勝太郎
 開拓奉行 沢太郎左衛門
 会計奉行 榎本対馬、川村録四郎
 津軽陣屋総督 中島三郎助
 裁判局頭取 竹中重固
 歩兵頭並 伊庭八郎、星恂太郎

 決して今日的な意味でいう民主的選挙ではないものの、一方で箱館政権に加わっていた松平定敬(桑名藩主)や板倉勝静(備中松山藩主)、小笠原長行(唐津藩主)といった殿様は一人も選ばれなかったことを見れば、実力主義が徹底されていたということかもしれない。
 箱館政権に元京都所司代松平定敬や老中経験者である板倉勝静らが参加していたことは、あまり知られていない事実ながら注目して良い。彼らの存在は、箱館政権にとって軍事的にも政治的にもほとんど意味がなかったが、それぞれの旧領地には深刻な影響が及んでいた。桑名藩、備中松山藩とも国元では新しい藩主を立てて新政府に宥免を願い出たが、旧藩主が抵抗を続けていることを理由に認められなかったのである。


半月堡

 半月堡は、郭内への出入口を防御するために設置されたもので、当初の設計では各稜堡間に五カ所配置する予定であったが、予算の関係で一カ所のみに縮小されたという。


武田斐三郎先生顕彰碑

 武田斐三郎は、大洲藩の出身。秀才の誉れ高く、昔からこのレリーフをなでると頭が良くなるという伝説があり、そのため顔の部分は妙にピカピカである。
 安政四年(1857)、幕府から築城を命じられた蘭学者武田斐三郎がこの地を選んだのは、艦砲の届かない場所というのが最大の理由であった。しかし、築城から十年余りが経過した明治二年(1868)の戦争では、新政府軍の艦砲射撃の砲火に曝された。さすがの俊才武田斐三郎をもってしても、十年の技術の進歩まで予見できなかったのである。
築城に費やした資金は十万両。七年の歳月を要した。それまで箱館奉行所は、現在の元町公園にあったが、海から近かったため、移転が急がれた。
 西洋流の築城術を学んだ武田斐三郎が設計したのは、鉄砲を主体とした戦闘を想定した星形の城郭であった。五稜郭には奉行庁舎など二十二の建物が建築された。


箱館奉行所

 現存する資料や文献をもとに、できるだけ当時の工法や材料を採用して、平成二十二年(2010)復元されたものである。一部二階建ての構造であるが、中央の望楼は、恰好の標的となったため、箱館戦争終盤には撤去されたという。


入室但清風

 再現新築された箱館奉行所を入ると、いきなり榎本武揚の書「入室但清風」が出迎えてくれる。榎本武揚が土方歳三のことを偲んで書いたもので、「部屋に入ってくると清らかな風が流れる」という意味である。京都時代には「鬼の副長」として冷徹なイメージが強かったが、北へ転戦を重ねるにつれて温和になったと言われる。終始、土方の側に従った中島登によれば「厳しかった性格が温和になり、まるで赤ん坊が母親を慕うように慕われた」という。


堀利熙の書

 箱館奉行所内には、榎本武揚のほか、堀利熙や杉浦梅潭(誠)らの書が展示されている。堀利熙は二代目の箱館奉行。のちには外国奉行として条約締結に活躍した。プロシアとの交渉でも全権に任じられたが、条約草案がプロシア単独ではなく関税同盟諸国を相手としたものだったため時の老中安藤信正に難詰され、その夜自刃した。享年四十三。


杉浦梅潭の書

こうしてみると歴代の箱館奉行には、小出秀実、水野忠徳、栗本鋤雲ら幕末を代表する能吏が名を連ねている。幕府が蝦夷地の開拓と警備をいかに重視していたかの証左であろう。


兵糧庫

 兵糧庫は、五稜郭築造当時の建物で、唯一現存しているものである。昭和四十八年~四十九年(1973~74)の修復工事により土蔵造りに復元され、平成十三年~十四年(2001~02)には庇屋を再現復元した。
 なお旧幕軍が降伏したとき、榎本から黒田了介(清隆)に渡された目録には、米五百俵とあった。つまり、兵糧が尽きて降伏したのではないということを意味している。


ブラッケリー砲


クルップ砲

 箱館戦争で使われた二門の大砲が展示されている。クルップ砲は口径十四センチのドイツ製で、箱館沖で撃沈された朝陽に搭載されたいたものである。昭和七年(1932)、七飯浜の埋め立て工事中に発掘された。もう一つのブラッケリー砲は口径十四センチのイギリス製。旧幕軍により築島台場に設置されていたものという。


土饅頭

 ここに旧幕軍の戦死者の遺体が埋葬されたとされる。伊庭八郎や土方歳三もここに埋葬されたと推定されている。


大砲を引き上げるための坂

 土塁の上に大砲を引き上げるための坂で、箱館戦争当時に造られたと見られる。大砲を運んだ際についた轍の跡がかすかに残る。

 弾薬庫も箱館戦争時代に造られたもので、記録に拠れば城内に六ヶ所あったようである。


弾薬庫跡


五稜郭裏門

 明治元年(1868)十月二十六日、箱館府都の戦闘に勝利した旧幕軍は続々と五稜郭に入城した。まず大鳥圭介の率いる部隊が裏門より入った。湯の川で一夜を明かした土方隊も夕方以降、やはり裏門から五稜郭に入った。


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函館 千代台町

2013年10月13日 | 北海道
(千代台公園)


千代ヶ岡陣屋跡

 中島小学校から千代台運動公園にかけた一帯は、津軽藩が築いた千代ヶ岡陣屋があった場所である。千代台公園の西側に案内板が建てられている。中島父子の壮絶な戦死とともに、陣屋も陥落した。


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函館 東雲町

2013年10月13日 | 北海道
(水天宮)
 二日目の朝は、レンタカーの事務所が開く八時までの数時間、徒歩で函館市内(水天宮、土方歳三最後の地、中島三郎助父子最後の地、千代ヶ台陣屋跡)を探索することにした。ざっと二時間の散歩である。


水天宮

函館市役所に隣接する水天宮は、高田屋嘉兵衛が久留米の水天宮からの分祀を願い出て、東川町にあった屋敷内に開いたものである。当時は東川町の海沿いにあったという。その後、高田屋が没落して水天宮も荒廃していたが、明治二十年(1887)、東川町の有志と東雲町の町民が相図ってこの地に社殿を移したものである。


「朝陽」の備砲

 箱館戦争後、市内各所に無用となった大砲が寄贈されたらしいが、第二次大戦時の金属供出により大半が現存していない。水天宮に置かれている朝陽の大砲は貴重なものと言える。砲身にアルファベットが刻まれていたことから、外国製であることは分かっていたが、最近の調査でベルギー製であることが判明したという。



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函館 中島町

2013年10月13日 | 北海道
(中島三郎助最期之地碑)


中島三郎助父子最後之地碑

 明治二年(1868)五月十六日、千代ヶ岡陣屋を守る中島三郎助が、二人の息子とともに戦死した。中島三郎助は元浦賀奉行所与力で、ペリー艦隊が浦賀沖に出現したときに対応したことでも知られる。つまり幕末という時代の幕開けと終幕に立ち会ったという稀有な存在でもある。
 中島三郎助は、戦死に先立つ二か月も前の三月三日、妻子に向けて遺書と思しき手紙を書いている。千代ヶ岡陣屋陥落前夜には榎本武揚から五稜郭内への避難を勧められたが、断っている。中島三郎助にとって覚悟の上の戦死だったのだろう。中島三郎助父子が戦死した翌日、旧幕軍は降伏して、箱館戦争は終結した。
 この付近は中島三郎助父子に因んで中島町と命名されている。



 函館市内には、中島町のほか榎本武揚に因む榎本町や梁川町(梁川は榎本武揚の号)もあり、この地で蝦夷地開拓を夢みた旧幕軍への市民の思い入れを感じることができる。



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