史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 元町 Ⅱ

2013年10月05日 | 北海道
(旧相馬邸)


相馬邸

 旧相馬邸は、越後出身の豪商相馬哲平の住宅である。相馬哲平が箱館に渡ったのは、文久元年(1861)、二十八歳のときであった。箱館戦争のとき、米の騰貴を見越して買い占め、巨利を得た。その後はニシン漁の投資と海陸物産の商いによって北海道屈指の豪商となった。邸内には箱館戦争錦絵や勝海舟、榎本武揚の掛け軸などが展示されている。入館料六百円。

(元町カトリック教会)


元町カトリック教会

 元町カトリック教会は、安政六年(1859)、フランス人宣教師メルメ・デ・カシヨンが仮聖堂を建てたことに始まるもので、現在の建物は大正十三年(1924)に再建されたものである。
 メルメ・デ・カシヨンは、日本語が堪能でロッシュの通訳を務めていたこともある。箱館勤務時代に、竹内保徳や栗本鋤雲とも親交が深かった。慶応三年(1867)の德川昭武一行が渡仏した折には世話掛に任じられた。得意の日本語を活かし、幕府とフランスの関係強化には単なる通訳以上の働きをしたといわれる。勝海舟などは、カシヨンのことを「妖僧」と呼んで警戒していた。

(函館ハリストス正教会復活聖堂)


函館ハリストス正教会復活聖堂

 函館ハリストス正教会は、安政六年(1859)にロシア領事ゴシケヴィチが領事館内に聖堂を建てたのが起源で、その後御茶ノ水のニコライ聖堂で有名なニコライが来函して布教の拠点とした。慶応四年(1867)には、澤辺琢磨ら三名がここで洗礼を受けている。現在の建物は大正五年(1916)に再建されたものである。
 ゴシケヴィチは、初代駐箱館領事。プチャーチンとともにディアナ号で来日し、戸田で船を建造しているときに橘(増田)耕斎と知り合い、日本語を勉強した。文久元年(1861)のポサドニック号による対馬占拠事件のときには、箱館から現地に赴いて日本側代表と折衝し、露艦の平和的退去に尽した。慶應元年(1865)離任したが、その後も日本語の研究を続け、1899年には「日本語の語根について」という著書を出版した。1875年、ポーランドにて没。六十一歳。


聖ニコライ

 ニコライは文久元年(1861)に箱館ロシア領事館付司祭として来日。明治二年(1869)に一旦帰国したが、明治四年(1871)再来日。ニコライ堂の建設など、ロシア正教の布教に尽くした。日露戦争の際も日本に踏みとどまった。大正元年(1912)、七十六歳で没した。
 ゴシケヴィッチにしても、ニコライにしてもいずれも幕末から明治に来日して、日本フアンとなった。この時代に日本を訪れた外国人は、多かれ少かれ山師的で冒険家的であったが、ほとんど例外なく日本のフアンになった。この時代の日本には、外国の人を惹きつける何らかの魅力があったに違いない。

(日本聖公会函館聖ヨハネ教会)


日本聖公会函館聖ヨハネ教会

 明治七年(1874)、イギリスの聖公会海外伝道教会宣教師デニングが来函し布教を始めたのが起源で、当教会が道内布教の拠点となった。やはり度重なる火災で類焼、移転を繰り返し、現在の建物は大正十年(1921)の大火後のものである。

(東本願寺函館別院(旧浄玄寺))


東本願寺函館別院

維新後急速に発展した函館の街は、住宅が密集していたため、幾度も大火に襲われた。コンクリート製の本堂はその対策の一つであった。
安政四年(1857)、アメリカ人貿易事務官ライスは、ここを宿所としていた。ライスは箱館開港直後から明治四年(1871)まで箱館に在勤した米国官吏である。江戸の米公使館と連絡を取りつつ、箱館における日米間の貿易を主体とする諸問題の処理にあたった。ライスは極めて庶民的で、搾乳法、綿羊飼育、帆走法など、西欧の実用的な新知識を日本人に与えたことでも知られる。


明治天皇御遺蹟碑


叶同館

叶同館とは元町にあった外国人の居宅を買入れ、外人接待用の公館としたものである。その時には今の元町別院の場所であった。

(函館元町配水場)


函館水道発祥之地

 ロープウェイの発着する山麓駅の向かい側に函館配水場がある。ここは一般公開されており、水遊びができるようになっている。
 噴水の奥に函館水道発祥之地と記された石碑が建立されている。
 函館における上水道は、明治二十二年(1889)に完成した。これは日本で横浜に次いで二番目の歴史を持つものである。横浜の水道が外国人の設計監督によるものであったのに対し、函館の水道は日本人の工事監督によるものであったため、「我が国初の国産水道」と呼ばれる。函館はもともと水利の便が悪く、その上年間を通して風が強く、一旦火災が起きるとたちまち大火となり多くの犠牲者が出た。さらに明治十九年(1886)にはコレラが大流行して八百人を超える市民が命を落とした。こういったことが契機となり、水道工事が着工されるに至った。この水道は現役で稼働しており、現在も函館市民に清浄な水を供給している。



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函館 元町 Ⅰ

2013年10月05日 | 北海道
(諸術調所跡)


諸術調所跡

諸術調所とは、安政三年(1856)に箱館奉行所が西洋諸学術の研究および教授のために開いた機関で、武田斐三郎を教授とした。ここでは蘭学はもちろん、航海・測量・砲術・築城・造船・舎密・器械の諸学を教授し、幕吏、藩士を問わず入学を許し、公私貴賤の別なく人物本位の教育をしたので、本州各地からも生徒が集った。門下には山尾庸三、井上勝、前島密、蛭子末次郎、今井兼輔といった人材がいた。しかし、元治元年(1864)、武田斐三郎が開成所教授に転じると、自然消滅する形となった。

(箱館病院跡)


函館病院跡

 箱館病院の前身は、幕府が設立した箱館医学所で、場所も弥生町にあった。それを箱館府が引き継ぎ、さらに旧幕軍が箱館を手に入れると、野戦病院となった。病院長は、高松凌雲である。
箱館総攻撃の日、高龍寺に弘前藩兵、松前藩兵が乱入したときと前後して、箱館病院も薩摩藩兵に襲われた。高松凌雲は「ここは病院であり、あなた方に敵対するものではない」と説得し、他の新政府軍兵士が乱暴しないよう「薩州隊改め」という紙を残してもらい、難を逃れた。現在、病院跡地は何もない空間になっている。


薩摩藩士と談判する高松凌雲
(五稜郭タワー)

(ペリー提督来航記念碑)


ペリー提督来航記念碑

 安政元年(1854)、開港される箱館を検分するため、アメリカ海軍提督ペリーは五隻の軍艦を率いて箱館に来航した。来航中、箱館湾の海図を製作したほか、銀板写真術を公開し、西洋音楽を吹奏するなど、当時の箱館の住民にも強烈な印象を残した。
 ペリーの功績を顕彰するために、平成十四年(2002)にこの記念碑が建立された。

(旧英国領事館)


旧英国領事館

 安政六年(1859)の箱館開港直後、イギリスは称名寺に仮領事館を開設したが、四年後の文久三年(1863)、現在の元町ハリストス正教会のある辺りに領事館を建設した。初代領事は、C・P・ホジソンである。その後、焼失、再建を繰り返し、現在の建物が落成したのは大正二年(1913)のことである。この建物は一時市立函館病院の施設として使われたこともあったが、函館市に寄贈され、平成四年(1992)より開港記念館として公開されている。


開港記念館 領事の部屋

 歴代のイギリス領事の中でもっとも市民に親しまれ、大きな足跡を残したのが、リチャード・ユースデンであった。上の写真で、遠眼鏡で窓の外を眺めているのがユースデンである。彼は、身体が小さかったため「豆コンシロ(=Consule)」と呼ばれた。箱館戦争では「不干渉」を宣言するとともに、榎本武揚に対して「武装解除しない限り徳川の蝦夷地開拓は許可されないだろう」と助言したという。維新後は学校の創立に協力し、函館公園の開園にも積極的に関与した。離日の際には函館公園で別れの宴が開かれ、大勢の市民が参加したと伝えられる。

(旧函館区公会堂)


旧函館区公会堂


ホール

 旧函館区公会堂は、明治四十三年(1910)に建築された、ブルーグレーとイエローの配色が鮮やかな建物である。港町函館には、明治期の洋風建築が数多く残されているが、その中にあってこの建物の美しさは、一際目を引く。

(元町公園)

元町公園の敷地には、開港直後、箱館奉行所が置かれていた。元治元年(1864)、防衛上の理由から五稜郭内に移された。

元町公園を訪ねたとき、イベント開催中であった。当方はイベントには用事はなく、「箱館奉行所跡」を撮影したいだけだったのだが、中に進入しようとすると係の男に呼び止められ、入場料五百円を支払えという。事情を説明しても先方は譲る気配がなかったので、やむを得ずこの日は撤退することにし、後日出直すことにした。


箱館奉行所跡 奥は旧函館区公会堂

 旧北海道庁函館支庁庁舎内部は、函館市写真歴史館として公開されている。昔の写真機材とか、函館で撮影された古写真など、興味深い展示が多い。入館料二百円以上の値打ちはある。


旧北海道庁函館支庁庁舎


函館市写真歴史館


旧開拓使書籍庫

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函館 大町

2013年10月05日 | 北海道
(函館臨海研究所)


函館臨海研究所

  この場所が幕末当時海からの玄関口であった沖の口役所跡である。現在、函館市臨海研究所がある。建物の前に函館市の建てた「沖の口役所跡」の説明板がある。沖の口番所とは、船舶、積荷、旅人を検査して税金を徴収するための役所である。松前藩の重要な税収源であった。当初は松前城下のみであったが、その後江差、箱館にも置かれた。


箱館郵便役所跡

 その横には、箱館郵便役所跡の石碑がある。明治五年(1872)道内最初の郵便局としてこの地に郵便役所が設置された。箱館では郵便制度創始者前島密がこの地で学び、のちの初代逓信大臣榎本武揚が蝦夷政権で総裁を務めたこともある。函館は郵便先覚者ゆかりの地でもある。


(函館元町ホテル)


元町ホテル


「新選組屯所」跡地

 函館元町ホテルの場所は、箱館戦争当時、新選組の屯所が置かれた称名寺の跡地である。ホテルには蔵の形をした「屯所の庵」という部屋があって、幕末・新選組フアンに人気が高い宿である。

(中華会館)


中華会館

 中華会館は、純中華様式の建築として現存する唯一の建物なのだそうである。函館と中国の間の海産物貿易が盛んだった時代、中国から大工、彫刻師、漆工を呼び寄せて、約三年の工期と巨額の資金を投じて明治四十三年(1910)に竣工した。

(小林寫真店)


小林寫真店

 函館市内には、写真史に関わる史跡が多い。小林寫真館もその一つで、道内に残る最古の写真館建築物である。明治三十五年(1902)に神戸の写真師小林健蔵が来函し、開業したのが始まりで、現存する建物は明治四十年(1907)に再建されたもので、昭和三十七年(1962)まで営業していたという。

(海上自衛隊)


運上所跡

 箱館開港にともない、当地には税関の前身である運上所という機関が設けられた。このとき輸入はほとんどなく、輸出は中国向けの昆布が全体の四分の一にのぼり、そのほかイリコ、スルメ、干あわびなどの海産物が上位を占めた。
 榎本艦隊が箱館を占拠すると、運上所は外交の舞台となった。明治元年(1869)十二月二日、榎本武揚は英仏軍艦両艦長に対して、蝦夷島領有を宣言し、徳川家の血統者を選任して、組織の代表として迎えたいとする新政府宛ての嘆願書を託した。しかし、同年十二月二十三日、運上所で榎本が受け取った新政府からの回答は「拒絶」であった。

(高田屋本店跡)


高田屋本店跡

 高田屋嘉兵衛の本店があった場所である。かつてこの場所は、すぐ裏が岸壁であったという。

(丁サ跡)
 高田屋本店の向かい側辺りが、土方歳三が箱館市内における宿舎としていた商家丁サの跡と推定されている。丁サは、屋号を萬屋と称する佐野専佐衛門の店舗であった。


丁サ跡

(新島襄海外渡航乗船之處記念碑)


新島襄海外渡航乗船之處記念碑

 元治元年(1864)六月一十四日の夜半、新島襄は福士成豊の助けを得て、上海行きのアメリカ船ベルリン号に乗って密航した。石碑表面には、新島襄が密航の際に詠んだ次の漢詩が刻まれている。

男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家 
却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花



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函館 弁天町

2013年10月05日 | 北海道
(厳島神社)


厳島神社(旧弁天神社)

 弁天台場の名のもとになった弁財天神社である。弁天社がこの地に移転してきたのは、慶應二年(1866)のことであった。現存する建物は、大正四年(1915)に建てられたものである。
明治政府の神仏分離令を受けて厳島神社と名称を改めたが、当時の立地のまま現存している。度重なる埋め立てのため海岸から遠ざかってしまった。

(ペリー会見所跡)


ペリー会見所跡

 安政元年(1854)、ペリー一行と松前藩との会談は、山田屋寿兵衛宅で行われ、箱館での遊歩範囲の取り決めなどが話し合われた。
 下の写真は、ペリーの「日本遠征記」の挿絵の一つで、ペリー会見の様子を描いたもの。中央左手に腕組みして座るペリーの姿が描かれている。


ペリー会見の模様

(箱館丸)


箱館丸

 箱館丸は、蝦夷地の警備および外国船舶との交渉上、奉行所所属の船舶が必要となり、箱館奉行所が建造することを申請したものである。許可を受けた奉行所では、船大工續豊治に命じて造船させ、安政四年(1857)完成した。箱館丸と命名されたこの船は、日本人の設計による最初の洋式帆船であった。
 西埠頭に置かれている原寸大の箱館丸は、昭和六十三年(1988)に再建されたレプリカで、往時の姿を知る非常に意義のあるものである。元町周辺の観光スポットは、都心のラッシュ時並の人混みだというのに、箱館丸を見学しようという人はほとんど見当たらない。もったいないというほかない。

(太刀川家住宅)
 初代太刀川善吉は米穀店、漁業、回漕業を営み一代で財を成した。太刀川家住宅は明治三十四年(1901)に建てられた煉瓦積み土蔵造りで、国指定の重要文化財に指定されている。現在はカフェとして営業している。


太刀川家住宅


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函館 入船町

2013年10月05日 | 北海道
(函館ドック)


弁天台場跡

 分かりにくい場所であるが、函館ドックの正門右に駐車場があり、そこを抜けると、右側に下りる小さな階段があり、降りた先が旧正門となっている。その隅に標柱が建てられている。
 弁天台場は、安政元年(1854)の箱館奉行竹内保徳の建議に基づき、武田斐三郎が設計し、安政三年(1856)に起工、文久三年(1863)に完成した西欧式の近代的要塞である。当時は石を積んで鉄の棒で内部を補強し、高さ三十七尺の垂直の外壁が不等辺六角形(将棋の駒形に近い)の人工島を囲んでいた。砲眼が十五カ所穿たれ、六十斤砲が二門、三十四斤砲が十三問配備されていた。その一部は、ロシアのディアナ号に搭載されていたものを転用したものである。五稜郭に劣らぬ近代要塞であった。明治二十九年(1896)、函館ドック建設にあたって取り壊されたが、あまりに頑丈だったため、撤去するだけで四年を要したという。

(入船児童公園)


新選組最後の地碑

 入船児童公園に弁天台場を解説した説明板が建てられている。ここも弁天岬台場の一部であった。
 弁天台場が実戦で使用されたのが、明治二年(1869)の箱館戦争のときであった。台場を占拠した旧幕軍は、激しい砲戦を展開したが、最後は新政府軍に圧倒され、同年五月十五日、台場に籠城していた箱館奉行永井尚志以下約二百四十人全員が降伏した。
 平成二十二年(2011)、この公園に「新選組最後の地」の石碑が建てられた。弁天台場降伏の四日前に、既に土方歳三は戦死している。新選組百名は、最後の隊長相馬主計に率いられて抵抗を続けていたが、永井らとともに降参した。
 最後の新選組隊長として知られる相馬主計は、戦後伊豆新島に流刑となったが、明治五年(1872)に赦免。明治十四年(1881)、謎の割腹自殺を遂げている。

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函館 弥生町

2013年10月05日 | 北海道
(弥生小学校)


弥生小学校

 弥生小学校の敷地周辺は、幕末当時、実行寺、称名寺、浄玄寺、能量寺が軒を並べる寺町であった。これらの寺院は、開港直後、外国領事館として利用されることが多かった。浄玄寺(現・東本願寺函館別院)には、明治五年(1872)、羅卒本営(警察)が置かれたり、明治九年(1876)には明治天皇行幸の際、行在所として使用されることになった。門前にはそれを記念した石碑が置かれている。


明治九年御巡幸行在之地碑


旧アメリカ領事館跡

 安政元年(1854)に締結された日米和親条約を機に、箱館は開港を迎えた。安政四年(1857)春、合衆国貿易事務官ライスが鯨猟船に乗って来港し、浄玄寺の別堂を借り受けて、ここに星条旗を掲げて貿易事務所を開設した。ライスは慶應元年(1865)には初代米国領事に任命されている。明治九年(1876)、函館領事館は横浜領事館に統合されて一時閉鎖されたが、のちに遺愛幼稚園(元町4)、さらに船見町3に移転した。アメリカ領事館が函館における役割を終えて正式に閉鎖されたのは、大正七年(1918)のことである。

(鯨族供養塔)
函館は鯨との関わりが深い。安政四年(1857)、幕府は中浜万次郎を捕鯨指導のために箱館に派遣した記録が残る。この供養塔は、昭和三十二年(1957)、遠洋捕鯨船長兼砲手であった天野太輔が、それまで捕獲したクジラを供養するために建てたものである。


鯨族供養塔

 昨今、鯨を喰う日本人は西欧人の目には野蛮人と映っているようであるが、少し時代を遡れば石油が発見される以前、十九世紀において、鯨を追って西欧列強の捕鯨船が日本近海まで出没していた。ペリーが砲艦によって日本を強制的に開国させたのも、極東に捕鯨船のための拠点が必要だったからである。西欧の反捕鯨主義の方々も、もう少し自分たちの歴史に向き合ってもらいたいものである。



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函館 船見町 Ⅲ

2013年10月05日 | 北海道
(東本願寺函館別院船見支院)


東本願寺函館別院船見支院

 東本願寺函館別院船見支院は、函館別院の墓地を管理するために建設されたもので、現在の建物は大正十五年(1926)に完成したものである。


武田斐三郎の妻(美那子)の墓

 武田斐三郎妻美那子の墓である。美那子は、箱館の町名主を勤め、内間町(現・末広町)に雑貨店を開いていた小島又次郎の妹で、斐三郎が来箱した翌年の安政二年(1855)に嫁いだが、その八年後の文久三年(1863)に二十七歳の若さで病没した。


贈従五位續豊治之墓

 續豊治は安政三年(1856)、我が国最初の洋式型船「箱館丸」を建造したことで知られる。明治十三年(1880)、八十一歳にて死去。

(旧ロシア領事館)


旧ロシア領事館

 安政元年(1854)の日露通好条約に基づき、安政五年(1855)、初代領事ゴシケヴィチが着任して、実行寺に領事館を開いた。万延元年(1860)には、元町の現・ハリストス正教会の場所に領事館を開いたが、英国領事館の火事で類焼した。明治三十六年(1903)、この地で領事館建設が始まったが、翌年の日露戦争勃発により中断し、完成は明治三十九年(1906)であった。しかし、その建物も明治四十年(1907)の大火で焼失し、明治四十一年(1908)に再建されたのが現存する建物である。

(山上大神宮)
 山上大神宮は、箱館戦争時、桑名藩主松平定敬が御座所としていた神社である。松平定敬は五稜郭には入らず、終始この神社内で過ごした。この様子から察するに積極的に戦争に参加しようとした気配は感じられない。桑名藩からは、藩の宥免活動の主導者である酒井孫八郎が定敬を訪ねて明治元年(1868)十二月に箱館まで来ている。来箱以降、頻繁に榎本武揚や土方歳三らと接触を繰り返した末、酒井が定敬との面会を果たすことができたのは明治二年(1869)正月のことであった。ここで主従の間にどのような会話が交わされたのかは不明であるが、最終的に同年四月に定敬は箱館を脱し、東京市ヶ谷の尾張藩邸に移り、そこで謹慎している。


山上大神宮

山本琢磨(坂本龍馬とは従兄弟関係)がこの神社の宮司を務めていたこともあった。宮司家澤辺家の養子となったため、澤辺琢磨と改姓した。慶応四年(1868)ハリストス正教に改宗したのを機に宮司を辞している。

(咬菜園跡)


咬菜園跡

 咬菜園は箱館港を一望でき、箱館随一といわれる美しい庭園をもった料亭であった。「咬菜(こうさい)」とは、武田斐三郎の命名によるもので、粗食のことを意味する。
明治二年(1868)三月四日、榎本武揚以下の旧幕軍幹部が咬菜園で最後の宴を張った。
咬菜園から海軍墓地に至る坂は、かなりきつい。振り返って海を臨むと、どっと汗が吹き出る。

(海軍墓地)


己巳海戦戦死碑

 「己巳(きし)」とは、干支の組み合わせで、戊辰の次に相当する。つまり、ここでは明治二年(1869)の海戦のことを指している。甲鉄、朝陽、飛龍などに乗り組んでいた戦死者七十三人の名前が刻まれている。


箱館府在住隊慰霊碑

 こちらは明治二年(1868)五月十一日、つまり箱館総攻撃の日、爆沈した朝陽に乗船していた九人の慰霊碑である。この日はまだ夜の明ける午前三時から海戦が始まった。旧幕軍の回天は、甲鉄の艦砲を受けて戦闘不能となり、海上に遺棄されることになった。もはや旧幕軍艦隊の軍艦で動けるのは蟠龍のみであった。その蟠龍から発せられた一弾が朝陽に命中し、火薬庫に引火したため朝陽は一瞬にして撃沈した。戊辰戦争を通じて唯一の撃沈である。これを見た旧幕軍の士気は高揚したが、これ以降の戦闘で旧幕軍が局地的でも勝利を挙げる場面はなかった。







己巳海戦戦死碑と並んで三基の墓標が置かれている。いずれも薩摩藩士のものである。上が和田彦兵衛もの。海戦戦死碑にも名前があるが、遺族がのちに個人の墓を建てたものらしい。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、和田彦兵衛は、文久年間より航海術を学び、「春日」測量方一等士官。明治二年(1869)五月七日、箱館海戦で負傷。八日朝、死。三十六歳。
 ほかの二名(黒阪、土屋)については「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。


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函館 船見町 Ⅱ

2013年10月05日 | 北海道
(高龍寺)
 高龍寺は、歴史ある函館市内でも最も古い寺院である。箱館開港当時の場所は現在地とは異なっているが、実行寺とともにロシア領事館関係者の仮宿舎として利用された。山門や本堂には見事な木彫が施されている。


高龍寺山門

 箱館戦争の傷病兵は、箱館病院に収容されたが、戦争激化とともに、高龍寺も野戦病院として利用されることになった。箱館戦争終結の直前となる明治二年(1869)、五月十一日、新政府軍が高龍寺を襲い、無抵抗の傷病兵を惨殺するという悲劇が起こった。新政府軍は寺に火を放って立ち去ったという。捕虜や傷病兵に危害を加えないという国際的常識が我が国に移入されたのは、ずっと後のことである。当時はこのような残虐行為が当たり前とはいえ、人間は戦争という限界的状況に置かれると、限りなく残酷になるという典型例である。


傷心惨目の碑

 この凄惨な事件の犠牲者を悼んで、会津藩有志により明治十三年(1880)、「傷心惨目の碑」が高龍寺境内に建てられた。


渋田利右衛門墓

 渋田利右衛門は箱館出身の商人である。苦学時代の若き勝海舟と出会い、支援したことで知られる。


中川家先祖代々之墓(中川五郎治墓)

 中川五郎治は、陸奥国川内村出身の人。ロシア艦船に拉致されたが、日本に送還されることになった。ロシアで種痘法を習得し、帰国後それを実践した。文化七年(1810)、田中正右衛門の娘に種痘を施したのが、我が国初と言われる。


横山松三郎の墓

 幕末に開港されると、西欧の文化が箱館にもたらされた。写真術もその一つで、横浜、長崎とともに我が国の写真文化の礎として、その発展に寄与してきた。木津幸吉、田本研造、横山松三郎といった写真家がこの街から輩出されている。
 横山松三郎は、天保九年(1838)、択捉島の生まれ。下岡蓮杖に写真術を学び、江戸に写真館を開いた。明治二年(1869)には日光東照宮などを撮影した。明治九年(1876)には陸軍士官学校の教授となり、写真術を教えた。気球から空中撮影をしたり、写真に彩色を施すなど、先駆的な取り組みで知られる。

(称名寺)


称名寺

 称名寺(しょうみょうじ)は、箱館開港当時、イギリスやフランスの領事館として利用された寺院である。当初は亀田町にあったらしいが、十八世紀初頭に現在の弥生小学校の場所に移転した。


土方歳三ほか新選組隊士供養塔

 土方歳三の戦死した場所は諸説あり特定できていないが、土方ゆかりの日野高幡不動尊金剛寺の過去帳によれば、称名寺に鴻池手代大和屋友次郎建立の供養塔があることが記されている。称名寺は明治期の大火で三回も焼失しているため碑は現存していないが、昭和四十八年(1973)有志により新選組供養塔が建てられた。中央に戒名とその左に土方歳三の名前が刻まれているほか、野村義時(利三郎)、栗原仙之助・糟谷十郎・小林幸次郎ら、いずれも箱館で戦死した隊士四名の名前が刻まれている。彼らの墓も称名寺にあったが、昭和二十九年(1954)の台風で流失したため、この供養塔に名前が刻まれることになった。

 高田屋嘉兵衛は、郷里の淡路で没したため、そこに墓もあるが、高田屋を継いだ金兵衛の系統が函館に住んでいたため、函館にも墓が建てられることになった。


高田屋嘉兵衛一族の墓


高田屋嘉兵衛顕彰碑

(実行寺)
 実行寺(じつぎょうじ)は、正徳四年(1714)富岡町(現・弥生町)に移転し、明治十二年(1879)の大火後、明治十四年(1881)この地に移った。その後も幾度か大火に見舞われ、現在の建物は大正七年(1918)に建てられたものである。
 安政元年(1854)ペリー来航時には、実行寺内にスタジオが設けられ、写真撮影が行われた。翌年にはフランス軍艦シヴィル号が緊急入港した際、当時の箱館奉行竹内保徳は、人道的見地から疾病水兵の上陸を認め、彼らは当寺で療養した。残念ながら六名は病没したが、大半の乗組員が祖国への帰還を果たした。境内にはそのことを記念した日仏親善函館発祥記念碑が建てられている。


実行寺

 実行寺は、ロシア領事ゴスケヴィチ着任時、領事館として利用されたこともある。また、実行寺住職日隆は、侠客柳川熊吉の要請に応じて、幕兵の遺体埋葬に協力したことでも知られる。


日仏親善函館発祥記念碑


戦死した会津藩士の墓


斗南旧藩 諏訪常吉墓

戦死した会津藩士の墓碑群の中に、諏訪常吉の墓がある。諏訪常吉は会津藩士であったが、矢不来で負傷し箱館病院に入院中だったところを、旧知の薩摩藩士池田次郎兵衛が訪ねたことがきっかけとなって和平交渉が始まった。このとき薩摩藩士村橋直衛(のちの久成。札幌麦酒醸造所の創立に関与)も池田に同伴している。降伏勧告を受けた諏訪常吉は重傷のため起き上がることすらできなかったため、和平交渉の役割を高松凌雲と小野権之丞(病院事務官・会津藩士)に委ねた。彼らの尽力によって、新政府軍軍監田島敬蔵(薩摩藩士)が、弁天台場の永井尚志、さらに五稜郭の榎本武揚に会うことになり、戦争終結へ向かった。
 諏訪常吉は、明治二年(1868)五月十六日の夜、ちょうど五稜郭で降伏の会議が開かれていた時分、箱館病院で息絶えた。


日向君招魂碑

 会津藩白虎隊士中二番隊長、日向内記の長男日向真寿見の招魂碑らしい。ほとんど判読できず。題字は榎本武揚。

 墓地最奥には日向真寿見の墓がある。


日向家之墓


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函館 船見町 Ⅰ

2013年10月05日 | 北海道
今年の夏は、函館である。
夏休みには決まって息子と旅に出るが、やつも高校二年になった。一応、受験勉強を始める年になったので、こうして二人で旅ができるのも、これが最後の機会かもしれない。二人の意見の一致した行き先が、函館である。
息子はこの夏、高校の鉄道研究会の合宿で、北海道に行くことになった。こちらも最終学年の特権で、ほとんど息子の意見で行先が決定したようなものらしい。当初は鉄道研究会の合宿と、我々二人旅の日程は別物であったが、私の異動により夏休みのカレンダーが変更となり、合宿と二人旅をくっつけることが可能となった。息子はそのまま北海道に残り、函館で合流するという算段である。
ということで、往路は一人で移動する。早朝、五時に八王子を出て、新幹線「はやぶさ」で新青森へ。そこから特急に乗り換えて函館に降り立つのは昼過ぎである。遠いといえば遠いが、四国への出張に半日を要することを想えば、案外近いようにも感じてしまうのである。ちょうど帰省ラッシュとも重なり、函館に向かう特急「スーパー白鳥」は予約席まで立った人があふれるくらいの大混雑であった。


はやぶさ
大宮‐新青森間を約三時間で結ぶ

函館を旅するのは今回が初めてではない。学生時代に卒業旅行と称して友人三人と北海道を回ったことがある。その時以来ということはほぼ三十年振りということになる。当時の記憶としては、朝市で食べたイカ刺丼が無茶苦茶美味しかったことと、夜景を見に行った函館山の山頂があまりに寒くて長時間滞在できなかったこと、これくらいしか覚えていない(貧しい記憶力である)。あの時は友人たちと一緒だったこともあって、史跡には足を運んでいない。少なくとも史跡だけを目的とした函館旅行は、今回が初めてである。

函館はいうまでもなく箱館戦争の舞台となった街である。旧幕軍が政庁を置いたのが箱館五稜郭だったため、箱館戦争と呼ばれることになったが、函館だけでなく、現在の行政区でいうと森町、松前町、北斗市、江差町などかなり広範な地域が戦場となっている。
なお、本稿において、地名については箱館戦争後、函館と改称された経緯があるので、できるだけ戦前は「箱館」、戦後は「函館」と区別するようにした。また、五稜郭政府軍については、「榎本軍」「徳川脱走軍」「徳川脱籍軍」など、書物によって呼び方が異なるが、「旧幕軍」で統一することとした。同じく明治政府軍についても、「官軍」「政府軍」などといった呼称があるが、ここでは「新政府軍」とした。

幕末という時代の「はじまり」と「おわり」を定義すると、嘉永六年(1853)のペリー来航に幕を開けたとして、終期は、その掉尾を飾った箱館戦争が終結した明治二年(1869)という説がある。とすれば、道南を今まで訪れていなかったのは遅きに失したというべきかもしれない。道南には、箱館戦争に関わる史跡が多く残されている。特に函館市内には史跡が集中している。

 初日、昼過ぎに函館駅に到着する。この日の午後はレンタサイクルで市内を回る予定である。事前にレンタサイクルを予約しておいた。あとは好天を祈るばかりであった。出発までの一週間、インターネットで週間天気予報をチェックして一喜一憂する毎日であった。出発の前日には、秋田県と北海道を集中豪雨が襲い(報道によれば「経験をしたことのない」レベル)、JRの一部は不通となるほどであった。先日の上野寛永寺徳川家霊廟の特別公開のときも大雨に見舞われた私は、最近すっかり雨男づいていて、いよいよ函館でも雨かとこのときは観念した。しかし、幸いにして今回の旅行では、天候には恵まれた。

 函館の駅に降り立ってみると意外と暑い。夏休みに北海道旅行というと羨ましがられるが、避暑というにはほど遠い暑さであった。テレビのニュースでは、関東では連日四十度を超す猛暑日が続いており、それと比べればマシだったのかもしれない。とにかく今回の旅では汗をかいた。

 函館は坂の街である。少しレンタル料は高めであるが(一日千五百円)、電動自転車が力強い味方となった。初日の半日だけであったが、電動自転車でかなりのスポットを回ることができた。函館の街を短時間に効率的に探索するには、電動自転車が絶対お勧めである。

(地蔵寺)


地蔵寺

安政五年(1858)、英米露仏蘭との通商修好条約が締結され、翌安政六年(1859)、横浜、長崎とともに箱館も開港されることになった。開港とともに多くの外国人が居住することになり、現在の船見町一帯は遊女屋街となった。往時には三百三十人もの遊女がいたと記録されている。地蔵寺境内にある遊女の名前を刻んだ有無両縁塔が、その名残である。台座には遊女屋の名前が刻まれている。


有無両縁塔


有無両縁塔の台座

(外人墓地)

地蔵寺から見ると海側の海を臨む丘の上に外人墓地が拡がっている。坂を上ってくるとまずギリシャ正教のロシア人墓地四十三基があり、その右手の煉瓦塀を巡らせた墓地が中国人墓地である。その隣にプロテスタント系の墓地。さらにその隣に南部陣屋箱館詰め藩士の墓がある。

外人墓地は施錠されており、外から見ることしかできないのは少々残念であった。安政元年(1854)ペリー艦隊の水兵(ジェームス・G・ウォル (五十歳)、G ・W・レミック(十九歳)の墓が一番古く、この二人のための弔歌碑も建てられている。


外人墓地


ハーバーの墓

 ドイツ代弁領事ルートヴィッヒ・ハーバーの墓である。同型の記念碑が、函館公園にも建てられているが、こちらが本墓で、函館公園の方はレプリカということだろう。
ハーバーは、明治七年(1874) 函館公園裏で攘夷派の秋田藩士田崎秀親によって斬殺された人物である。このとき彼は三十一歳の若き外交官で、半年前に箱館に着任したばかりであった。田崎は直後に自首し、翌月箱館にて処刑された。
 プロテスタント系墓地には、ほかにもイギリス人ジェームス・スコット(機械木材工場倉庫業)、デンマーク領事デュースの墓等、四十一基が並ぶ。


デンマーク領事デュースの墓


ロシア人墓地

 ロシア人墓地にはロシア軍艦乗組員や領事館関係者の墓など訳四十基が並ぶ。最も古いものは、安政六年(1859)アスコリド号航海士ゲオルギィ・ボウリケヴィチのものである。


函館中華山荘(中国人墓地)

 幕末には中国人も、主に海産物を商うために函館に住み着いていた。この墓地は、明治九年(1876)、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬したのが始まりで、現在確認されているところでは、九基の石碑と四基の木碑がある。


南部陣屋箱館詰藩士墓

 南部盛岡藩は、箱館から幌別までの警備を命じられ、各所に陣屋を築いた。病死した藩士十二名の墓を集めたものである。




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「司馬遼太郎が描かなかった幕末」 一坂太郎著 集英社新書

2013年09月27日 | 書評
司馬遼太郎の作品は、没後十五年を経た今日でも根強い人気を維持している。
本書は、「竜馬がゆく」「世に棲む日日」などに描かれた坂本龍馬や高杉晋作、吉田松陰が如何に史実と異なるか。さらにいえば、恐らく司馬遼太郎は史実を知りながら敢えてそこを無視して作品を描いているか、について、様々な角度から検証し、無知なる読者に警鐘を鳴らすものである。
私自身についていえば、司馬作品を通じて幕末を好きになった一人であり、日本中にそのような歴史好きはたくさんいるだろう。司馬遼太郎先生の作品は、決して自虐的ではなく、複雑怪奇な幕末史を分かり易く、時に面白く、時に劇的、痛快、感動的に描く。坂本龍馬も高杉晋作も吉田松陰も、見てきたかのようにリアルで、そしてかっこ良い。司馬作品を通じて自国の歴史に興味や誇りを持つ人が増えたとしたら、それが司馬作品の最大の功績であろう。一方で、実はそこには司馬遼太郎先生の巧みな創作が加えられていることに多くの読者は気付かない。ここがほかの作家との大きな違いでもある。司馬先生のウソを多くの読者が真実を思い込んでしまう。これが最大の罪といえるかもしれない。
著者一坂太郎氏は、司馬作品の虚構を次々と暴く。いずれも「なるほど、そうだろうな」という指摘ばかりである。
高杉晋作は上海に渡航して、列強に食い物にされる中国の姿を見て衝撃を受ける。同時に圧倒的な軍備を誇る西欧列強を相手に、単純に攘夷などできないことを痛感して帰国する。ところが、帰国して間もなく、高杉晋作は御殿山のイギリス領事館を焼き討ちする。この間、晋作がどう考えて、このような行動を取ったのか、晋作自身は何も書き残していないので、後世の我々は非常に理解に苦しむ。こうなると歴史家ではなく、小説家の領分であろう。司馬先生は一章を割いて、この間の晋作の思考を読者に提示した。ここでは高杉晋作は「どうしようもなく戦争好き」だったと説明されているが、恐らく史料を探してもそんなことはどこにも書かれていない。司馬先生なりの解釈である。しかし、小説としてはこの「解釈」がないといかにも流れが悪いのである。
一坂太郎氏が指摘するように、吉田松陰にはテロリスト的な側面があるし、高杉晋作が藩の役人として意外とまじめに仕事をしていたのも事実であろうし、坂本龍馬一人の力で薩長連合が成立したわけではない。しかし、あまり史実に捉われてしまうと、小説としての魅力は半減してしまうだろう。史実の羅列では小説としては成り立たないのである。要は読者としては、司馬作品を飽くまでフィクションとして楽しむという心構えが求められているということである。
これは何も司馬先生の作品に限ったことではない。TVや映画で放映される歴史だって、必ず監督や演出家の解釈が加わっているのである。我々は、作品を見るとき必ず誰かのフィルターを通ったものを見せられているということを自覚した方がよい。ついでにいえば、毎日放送されているNHKのニュースであっても、あれが客観的・中立なものだと思わない方がよい。そもそもニュースをどういう順番で取り上げるのか、各ニュースにどれくらいの時間を割くのか、誰のどういうコメントを付けるのか、そこには必ず誰かの判断を介しているのである。ニュースが虚構だとはいわないが、必ずそこにはマスコミの意図が反映されていると認識しておいた方がよい。

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