史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 谷地頭町

2013年10月13日 | 北海道
(碧血碑)


碧血碑

 碧血とは「義に殉じた武人の血は、三年経つと碧色になる」という中国の故事による。高さ約八メートルの堂々たる石碑で、七回忌に当たる明治八年(1875)五月、榎本武揚、大鳥圭介らによって建立された。祀られた戦死者は八百十五柱を数える。


柳川熊吉翁寿碑

 戦後、放置されていた旧幕軍兵士の遺体を侠客柳川熊吉と実行寺の十六世住職日隆が命がけで収容した。柳川熊吉は、子分など六百名を動員して遺体を運び、市内の実行寺、称名寺、浄玄寺(現・東本願寺船見支院)に葬った。
碧血碑の傍らには、柳川熊吉翁寿碑が建てられている。一説には、柳川鍋を商っていたことから、柳川姓を名乗ったともいわれる。



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函館 青柳町

2013年10月13日 | 北海道
(函館護国神社)


函館護国神社

 箱館戦争後、新政府は官軍戦没者の慰霊のために招魂場を造営した。本殿左手に官修墳墓がある。


招魂場

 招魂場の石碑の揮毫は、清水谷公考によるもの。


官修墳墓

 官修墳墓には、百六十五柱が眠る。


戊辰 薩藩戦死者墓

 四角錐型の墓碑は、薩摩藩が全国に建立した十カ所の合葬墓の一つ。今回の函館旅行で絶対外せないスポットの一つであった。ここを訪ねたことで、私は遂に全国十カ所に散在する戊辰薩藩戦死者の合葬墓を踏破することになったのである(あんまり誰も凄いといってくれないが…)。参考までに同型の合葬墓が建てられているのは以下の十か所である。
① 京都市 相国寺塔頭林光院墓地
② 東京都 永福・大圓寺
③ 栃木県 宇都宮市・報恩寺
④ 新潟県 上越市・金谷山
⑤ 新潟県 新潟市・新潟護国神社
⑥ 山形県 山形市・国分寺薬師堂
⑦ 福島県 白河市・鎮護山
⑧ 福島県 会津若松市・西軍墓地
⑨ 秋田県 秋田市・全良寺
⑩ 北海道 函館市・函館護国神社


斉藤順三郎の墓

 整然と並ぶ墓石の中に斉藤順三郎の墓がある。墓標の表面は摩耗して文字は読みとれない。斉藤順三郎は、八王子千人同心の出で、安政五~六年頃に志願して七飯村に入植したと伝えられる。ようやく軌道に乗った生活を、旧幕軍の箱館進駐によって破壊された。さらに箱館府に動員されて七飯村峠下における戦闘にも参加して怪我を負っている。旧幕軍に恨みを抱く斉藤は、身分を隠して旧幕軍に身を投じ、弁天台場に配属された。斉藤は、明治二年(1869)五月三日深夜、かねて買収していた鍛冶職人の鏑木連蔵に大砲の火門に釘打ちさせ、翌日の戦闘に仕えないように工作した。斉藤はその日のうちに台場を脱したが、連蔵は捕えられ討ち首となった。連蔵の口から斉藤の指示であったことが知れ、新選組が中心となって斉藤を探索した。
 斉藤順三郎が捕えられたのは、三日後の五月七日、場所は八ツ頭(現・谷地頭)であった。新選組は弁天台場の前に逆さに吊し上げ、顔に焼き金をあててから斬首した。遺骸は半日間、さらしものにされたという。

(函館公園)
函館公園は、明治十二年(1879)、イギリス領事ユースデンの提言を受け、地元の豪商渡辺熊四郎など、多くの市民から寄付を募って開園した施設である。園内には市立博物館のほか、動物園も併設されている。


市立函館博物館

 市立函館博物館では、ちょうど「新島襄と幕末の箱館」展を開催していたので、入館することにした。箱館戦争に関する常設展示もあり、見応えがあった。ただし(どうでも良いことながら)、長州藩出身の駒井政五郎を「薩摩藩」としていたのは明らかな誤り。


開陽丸模型


市立函館博物館の展示

 左手の初代箱館奉行の竹内保徳。中央は旧箱館奉行所、右手は弁天台場の写真である。


ハーバー遭難記念碑


箱館通寶銭座跡

 箱館が開港されると、商取引の急増とともに「銭」が不足した。そこで箱館奉行では安政三年(1865)、独自に銭を鋳造した。箱館通宝は、鉄銭で質が悪かったといわれる。


箱館通宝

 市立博物館に展示されている箱館通宝である。


開拓使函館仮博物場(旧函館博物館1号)


函館県博物場第二博物場(旧博物館2号)

 園内には、かつて博物館として使用されていた二つの建物が移設されている。「第1号」は開拓使時代の明治十二年(1879)に開場したもの、左手の「第2号」は明治十七年(1884)、函館県が開館したもので、いずれも明治期の洋風建築である。



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函館 宝来町

2013年10月13日 | 北海道
(高田屋嘉兵衛像)
 護国神社坂に立つ高田屋嘉兵衛像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、函館開港百年を記念して昭和三十三年(1958)に建てられたものである。


高田屋嘉兵衛像

 この像は、文化十年(1813)、ロシア軍艦ディアナ号が、捕らわれていたゴローニン船長を引き取るために箱館に入港したのに立ち会った嘉兵衛の姿を描いたものである。右手に持つのは松前奉行からの諭書、左手には鑑内で正装に着替えるために脱いだ衣服を持つ。

(高田屋屋敷跡)


高田屋嘉兵衛屋敷跡

 高田屋嘉兵衛は、江戸後期の商人。今日の函館の発展の基礎を築くとともに、日露外交にその手腕を発揮した。明和六年(1769)に淡路の津名郡都志本村に生まれた。船乗りとして兵庫に渡り、十六歳のとき独立して辰悦丸を建造した。兵庫で酒、塩、木綿などを仕入れ、酒田でそれを売り捌き、復路は酒田の米、函館で魚、昆布などを仕入れて、利益を上げた。寛政十一年(1799)、択捉―国後間の航路開拓に成功し、その功績により幕府から蝦夷地定雇船頭、蝦夷地産物売捌方に任命された。文化九年(1812)八月、ゴローニン事件に巻き込まれ、ディアナ号でカムチャッカに連行されたが、冷静にその解決に尽力し、日露友好にも貢献した。文政元年(1818)には幕府に御用御免を願い出て、弟金兵衛に家督を譲り、郷里の淡路に帰った。文政十年(1827)、郷里で五十九歳の生涯を閉じた。死後、ロシアとの密貿易の疑いをかけられ、高田屋は厳しい取り調べを受けた。疑いは晴れたが、金兵衛は淡路に謹慎させられ、持ち船は没収。家屋や倉庫も親類預けとなり、高田屋は没落することになった。


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函館 函館山

2013年10月13日 | 北海道
(函館山)

今回の函館滞在中、朝・昼・晩の三回、函館山に登った。いつから山登りがそんなに好きになったのかと呆れられそうだが、山登りが苦手なことは何も変わっていない。いずれも自動車やロープウェイで登ったので、登山とは言い難いが。
この時期、函館山へは自動車での乗り入れは規制されている。夜景を見に行くのであれば、夜十時過ぎでなければ入山できない。登山口は護国神社の横であるが、そこに午後十時に行ったのでは、何時に山頂に行きつけるか覚束ない。私と息子は、規制が解除される三十分前に登山口で待機した。午後十時になると、それまで登山口で進入を規制していた係の人が、「これから我々が先導しますから」と宣言し、我々はそのあとをついてひたすら山頂を目指して走るだけである。まるでカーレースのようであった。私は途中で道を間違えてしまったが、何とか駐車スペースを確保できた。山頂駐車場にとめられる台数は限られており、少し時間を間違うと長蛇の列に並ぶことになる。我々が半時間ほど夜景を楽しんで下山するとき、登り方面の道は中腹まで車列が続いていた。この分では、最後尾の方が山頂に行き着くのは明け方になるのではないか。


函館山の夜景
 函館は連日猛暑が続いていたが、夜の函館山山頂は寒さを感じるほど冷たい風が吹いていた。函館山の夜景を撮影するために、わざわざ三脚を担いできた。ところが、函館山山頂には灯りがなく、手さぐりで三脚のセットをしなくてはならない。結果的には思うように撮影できなかった。
函館の夜景は、文句なしに素晴らしい。多少、行列に並んでも一見しておく価値はあるだろう。函館の夜景は世界三大夜景の一つと称されている(ほかの二つは香港とナポリ)。つまり日本一の夜景ということになるが、個人的には(自分が学生時代を過ごした)神戸の夜景に勝るものは無いと思っている。


昼間、改めて函館山山頂を訪れたのは、山頂に点在する史跡を回るためである。


ブラキストンの碑

 ブラキストンはイギリス人。文久三年(1863)に事業を起こすために箱館に来て、商売の傍ら、動物の研究や気象観測などを行った。明治十二年(1879)には、それまで収集した鳥類の標本を開拓使博物場に寄贈した。現在もこの標本は、北海道大学植物園博物館に保存されている。明治十六年(1883)、本州と北海道に動物の分布状況が著しく異なることを発表し注目された。今も津軽海峡は「ブラキストン・ライン」と呼ばれている。ブラキストンは、元砲兵大尉だったいい、箱館戦争のときも行き交う砲弾に怖がる様子もなく、悠然と食事をしていたという。


御殿山第二砲台跡

 函館山に登ったら、是非砲台跡まで足を伸ばして欲しい。明治時代に築かれた砲台の跡が鮮明に残っているのである。

 明治政府は、来るべきロシアとの戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に、明治三十一年(1898)から約四年の歳月を費やして、函館山の要塞化を進めた。函館山には大小四か所の砲台が建設され、昭和二十一年(1946)に要塞地帯法が開放されるのまでの約五十年間にわたり、一般市民の立ち入りが禁止された。結果的に函館山独自の自然、生物が残されることになった。御殿山のほかにも薬師山砲台、千畳敷砲台などが保存されていて、見学も可能なようであるが、そこでまで歩く体力と時間が残っていなかった。興味がある方は、観光案内所で「函館要塞跡散策マップ」という超マニアックなパンフレットを入手して欲しい。


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函館 豊川町

2013年10月05日 | 北海道
(北海道写真発祥の地碑)


北海道写真発祥の地碑

 電動自転車にまたがり、最初に訪れた史跡がこの場所である。ロシア領事から写真術を学んだ木津幸吉が、この地で開業したことを記念したものである。幕末に開港された函館には写真に関わる史跡が多いのも特徴である。

(異国橋)


異国橋

 市電十字街駅近くの交番の前辺りが異国橋跡である。かつて栄国橋と呼ばれていたが、いつしか異国橋と変わっていった。現在、橋らしきものは存在していない。
 土方歳三最後の地には諸説(①異国橋付近説、②鶴岡説=現市役所付近、③一本木関門説)があるが、その中の一つである。ただし、異国橋は一本木関門から結構離れており、ちょっと無理があるように思われる。

(武蔵野楼跡)
 武蔵野楼があったと思われる辺りには、現在はガソリンスタンドがあり、特に史跡を示すものは何もない。
 武蔵野楼は、新選組隊士や旧幕軍幹部がよく宴を張ったという場所である。


武蔵野楼跡


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函館 末広町 Ⅱ

2013年10月05日 | 北海道
(旧NHK放送局)


南部藩陣屋跡

 南部藩が幕命を受けて箱館に陣屋を構えたのは寛政十二年(1800)であった。傾斜地を利用した三段の土地で、最盛期には三百五十人ほどが勤務していたという。箱館戦争時に自ら陣屋に火を放ち南部に引き揚げてしまったため、建物の類は一切残っていないが、石塁だけが往事のままである。


南部藩陣屋跡石塁

(北海道坂本龍馬記念館)
少なくとも坂本龍馬は一度も北海道に渡っていないが、にも拘わらず、記念館がここにあるという事実にまず驚き入る。坂本龍馬は、幕府倒壊後、職を失った武士たちのエネルギーを蝦夷地の開拓と防衛に向かわせようという遠大な計画を立てていた。龍馬の死後、坂本家を継いだ甥の坂本直(高松太郎)は箱館に渡り、さらに本家五代目の坂本直寛が浦臼に入植したのは、龍馬の遺志を継いだということなのかもしれない。当館では北海道に渡った坂本一族の足跡も紹介している。因みに当館顧問は、坂本家九代目の坂本登氏である。


北海道坂本龍馬記念館


長崎の龍馬像原型

記念館の向かいにも坂本龍馬像があった。全国の史跡を訪問した私の知見では、幕末から明治期に活躍した人物像の数でいえば、坂本龍馬が二位であろう。では、一位は誰でしょう?


蝦夷地の坂本龍馬像

(答) 数えたわけではありませんが、像の数では二宮金次郎(尊徳)が、圧倒的に一番と思われます。


弥生小学校 二宮尊徳像

(日本最古のコンクリート電柱)


日本最古のコンクリート電柱

 函館では火災が頻繁に発生したため、耐火建築が発展したが、コンクリート製の電柱もその一つである。19.5センチ四方の角錐型という珍しいものである。大正十二年(1923)に建てられたものであるが、今なお現役というのがスゴイ。

 私はこれまでいかなる観光地に行っても、基本的には並んでまで食事をしないという主義(単に気が短いだけ?)を貫いてきた。しかし、今回は時間的に余裕ができたことに加え、あまりの暑さに動きまわる気力が失せたこともあって、ガイドブックに載っているラーメン屋に並ぶことにした。函館といえば、塩ラーメンが定番である。やはり行列ができるラーメン屋というのはさすがに相応の値打ちがあった。ついでにいうと、ラーメンというのは客の回転が速いので、長蛇の列であっても案外早く店内に案内してもらえることが判明した。

(和洋折衷の建物)
 函館市内を散策していると、特に西部地区の至るところに和洋折衷住宅を発見することができる。函館の和洋折衷住宅の特徴は、一階部分が格子窓を備えた和風建築で、二階には縦長の洋風の硝子窓となっているところである。


和洋折衷の建物


和洋折衷の建物




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函館 末広町 Ⅰ

2013年10月05日 | 北海道
(明治天皇御上陸記念碑)


明治天皇御上陸記念碑

 明治九年(1876)と明治十五年(1882)の明治天皇行幸を記念して、昭和十年(1935)に建てられたものである。

(北海道第一歩の地碑)


北海道第一歩の地碑

 維新後、函館は北海道の玄関口となった。青函航路で北海道に向かう者が、その第一歩を踏むのが函館の東桟橋であった。明治初年の青函航路は開拓使によって運行されたが、明治十二年(1879)に三菱が引き継ぎ、明治四十一年(1908)には国有の航路が就航した。
 北海道第一歩の地碑は、一見しても分からないが、白クマをデザインしたものらしく、言われてみればそれらしく見えてくる。

(函館市道路元標)
 東浜桟橋の近くに函館市道路元標の小さな碑がある。


函館市道路元標

(新島襄の像)
 新島襄は、新しい知識の必要性を痛感し、海外密航を企てるが、吉田松陰の失敗を考慮し、渡航地として箱館を選択した。元治元年(1864)、江戸から箱館にやってきて、しばらくニコライ主教に日本語を教えたりして過ごしていたが、同年六月十四日深夜、福士卯之吉(のちの成豊)の助力を得て、この地から海外渡航に成功した。上海経由で渡米した新島襄は、十年の修学の後、明治七年(1874)に帰国した。翌年には京都において同志社大学の前身である同志社英学校を設立した。


新島襄の像

 東桟橋のそばには、小舟で密航する新島襄の姿を描いた銅像が置かれている。思わず、こんな小さな舟でどこまで行く気だと突っ込みたくなる。背後は緑島。島に渡る橋は、新島橋と命名されている。

(赤レンガ倉庫群)


赤レンガ倉庫群と函館山

 箱館は横浜、長崎とともに安政六年(1859)に開港され、国際貿易港として発展した、金森倉庫は明治四十年(1907)頃の建築で、湊町函館のシンボル的存在となっている。現在は土産物屋などが入る観光スポットとして賑わっている。
 明治五年(1872)、イギリス領事のブラキストンから機械を譲り受けた福士成豊(續豊治の次男)はこの地に我が国初の気候測量所を開設した。

(明治館)


明治館

 「明治館」と称されているが、この建物が完成したのは明治も末の明治四十四年(1911)のことで、その後約五十年にわたって郵便業務がこの場所で行われた。現在、内部は土産物店となっている。

(箱館高田屋嘉兵衛資料館)
 かつて高田屋嘉兵衛の造船所のあった場所に、高田屋嘉兵衛資料館が開設されている。日本最古のストーブ(武田斐三郎が考案したものか)などが展示されているというので、是非見ていきたかったが、何と毎週木曜日は定休だそうで、残念ながら中を見ることができなかった。


箱館高田屋嘉兵衛資料館


高田屋嘉兵衛 造船所跡地

(五島軒)
 フランス料理店五島軒の初代料理長五島栄吉は、長崎の五島列島の出身で、長崎奉行所の通辞をしていた。函館戦争では旧幕軍に加わっていたが、五稜郭落城の間際に逃亡し、ハリストス協会に匿われた。ここでロシア料理やパンの焼き方を学んだ。東京で米相場に失敗し、函館に渡った若山惣太郎という人物が五島英吉と出会い、明治十二年(1879)に五島軒を開店した。当初はロシア料理店であったが、栄吉が横浜に去った後、若山がフランス料理人を連れてきて再建した。


五島軒

 現在、市内の至るところで「五島軒のレトルトカレー」を入手することができる。函館を代表する土産物の一つとなっている。


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函館 元町 Ⅱ

2013年10月05日 | 北海道
(旧相馬邸)


相馬邸

 旧相馬邸は、越後出身の豪商相馬哲平の住宅である。相馬哲平が箱館に渡ったのは、文久元年(1861)、二十八歳のときであった。箱館戦争のとき、米の騰貴を見越して買い占め、巨利を得た。その後はニシン漁の投資と海陸物産の商いによって北海道屈指の豪商となった。邸内には箱館戦争錦絵や勝海舟、榎本武揚の掛け軸などが展示されている。入館料六百円。

(元町カトリック教会)


元町カトリック教会

 元町カトリック教会は、安政六年(1859)、フランス人宣教師メルメ・デ・カシヨンが仮聖堂を建てたことに始まるもので、現在の建物は大正十三年(1924)に再建されたものである。
 メルメ・デ・カシヨンは、日本語が堪能でロッシュの通訳を務めていたこともある。箱館勤務時代に、竹内保徳や栗本鋤雲とも親交が深かった。慶応三年(1867)の德川昭武一行が渡仏した折には世話掛に任じられた。得意の日本語を活かし、幕府とフランスの関係強化には単なる通訳以上の働きをしたといわれる。勝海舟などは、カシヨンのことを「妖僧」と呼んで警戒していた。

(函館ハリストス正教会復活聖堂)


函館ハリストス正教会復活聖堂

 函館ハリストス正教会は、安政六年(1859)にロシア領事ゴシケヴィチが領事館内に聖堂を建てたのが起源で、その後御茶ノ水のニコライ聖堂で有名なニコライが来函して布教の拠点とした。慶応四年(1867)には、澤辺琢磨ら三名がここで洗礼を受けている。現在の建物は大正五年(1916)に再建されたものである。
 ゴシケヴィチは、初代駐箱館領事。プチャーチンとともにディアナ号で来日し、戸田で船を建造しているときに橘(増田)耕斎と知り合い、日本語を勉強した。文久元年(1861)のポサドニック号による対馬占拠事件のときには、箱館から現地に赴いて日本側代表と折衝し、露艦の平和的退去に尽した。慶應元年(1865)離任したが、その後も日本語の研究を続け、1899年には「日本語の語根について」という著書を出版した。1875年、ポーランドにて没。六十一歳。


聖ニコライ

 ニコライは文久元年(1861)に箱館ロシア領事館付司祭として来日。明治二年(1869)に一旦帰国したが、明治四年(1871)再来日。ニコライ堂の建設など、ロシア正教の布教に尽くした。日露戦争の際も日本に踏みとどまった。大正元年(1912)、七十六歳で没した。
 ゴシケヴィッチにしても、ニコライにしてもいずれも幕末から明治に来日して、日本フアンとなった。この時代に日本を訪れた外国人は、多かれ少かれ山師的で冒険家的であったが、ほとんど例外なく日本のフアンになった。この時代の日本には、外国の人を惹きつける何らかの魅力があったに違いない。

(日本聖公会函館聖ヨハネ教会)


日本聖公会函館聖ヨハネ教会

 明治七年(1874)、イギリスの聖公会海外伝道教会宣教師デニングが来函し布教を始めたのが起源で、当教会が道内布教の拠点となった。やはり度重なる火災で類焼、移転を繰り返し、現在の建物は大正十年(1921)の大火後のものである。

(東本願寺函館別院(旧浄玄寺))


東本願寺函館別院

維新後急速に発展した函館の街は、住宅が密集していたため、幾度も大火に襲われた。コンクリート製の本堂はその対策の一つであった。
安政四年(1857)、アメリカ人貿易事務官ライスは、ここを宿所としていた。ライスは箱館開港直後から明治四年(1871)まで箱館に在勤した米国官吏である。江戸の米公使館と連絡を取りつつ、箱館における日米間の貿易を主体とする諸問題の処理にあたった。ライスは極めて庶民的で、搾乳法、綿羊飼育、帆走法など、西欧の実用的な新知識を日本人に与えたことでも知られる。


明治天皇御遺蹟碑


叶同館

叶同館とは元町にあった外国人の居宅を買入れ、外人接待用の公館としたものである。その時には今の元町別院の場所であった。

(函館元町配水場)


函館水道発祥之地

 ロープウェイの発着する山麓駅の向かい側に函館配水場がある。ここは一般公開されており、水遊びができるようになっている。
 噴水の奥に函館水道発祥之地と記された石碑が建立されている。
 函館における上水道は、明治二十二年(1889)に完成した。これは日本で横浜に次いで二番目の歴史を持つものである。横浜の水道が外国人の設計監督によるものであったのに対し、函館の水道は日本人の工事監督によるものであったため、「我が国初の国産水道」と呼ばれる。函館はもともと水利の便が悪く、その上年間を通して風が強く、一旦火災が起きるとたちまち大火となり多くの犠牲者が出た。さらに明治十九年(1886)にはコレラが大流行して八百人を超える市民が命を落とした。こういったことが契機となり、水道工事が着工されるに至った。この水道は現役で稼働しており、現在も函館市民に清浄な水を供給している。



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函館 元町 Ⅰ

2013年10月05日 | 北海道
(諸術調所跡)


諸術調所跡

諸術調所とは、安政三年(1856)に箱館奉行所が西洋諸学術の研究および教授のために開いた機関で、武田斐三郎を教授とした。ここでは蘭学はもちろん、航海・測量・砲術・築城・造船・舎密・器械の諸学を教授し、幕吏、藩士を問わず入学を許し、公私貴賤の別なく人物本位の教育をしたので、本州各地からも生徒が集った。門下には山尾庸三、井上勝、前島密、蛭子末次郎、今井兼輔といった人材がいた。しかし、元治元年(1864)、武田斐三郎が開成所教授に転じると、自然消滅する形となった。

(箱館病院跡)


函館病院跡

 箱館病院の前身は、幕府が設立した箱館医学所で、場所も弥生町にあった。それを箱館府が引き継ぎ、さらに旧幕軍が箱館を手に入れると、野戦病院となった。病院長は、高松凌雲である。
箱館総攻撃の日、高龍寺に弘前藩兵、松前藩兵が乱入したときと前後して、箱館病院も薩摩藩兵に襲われた。高松凌雲は「ここは病院であり、あなた方に敵対するものではない」と説得し、他の新政府軍兵士が乱暴しないよう「薩州隊改め」という紙を残してもらい、難を逃れた。現在、病院跡地は何もない空間になっている。


薩摩藩士と談判する高松凌雲
(五稜郭タワー)

(ペリー提督来航記念碑)


ペリー提督来航記念碑

 安政元年(1854)、開港される箱館を検分するため、アメリカ海軍提督ペリーは五隻の軍艦を率いて箱館に来航した。来航中、箱館湾の海図を製作したほか、銀板写真術を公開し、西洋音楽を吹奏するなど、当時の箱館の住民にも強烈な印象を残した。
 ペリーの功績を顕彰するために、平成十四年(2002)にこの記念碑が建立された。

(旧英国領事館)


旧英国領事館

 安政六年(1859)の箱館開港直後、イギリスは称名寺に仮領事館を開設したが、四年後の文久三年(1863)、現在の元町ハリストス正教会のある辺りに領事館を建設した。初代領事は、C・P・ホジソンである。その後、焼失、再建を繰り返し、現在の建物が落成したのは大正二年(1913)のことである。この建物は一時市立函館病院の施設として使われたこともあったが、函館市に寄贈され、平成四年(1992)より開港記念館として公開されている。


開港記念館 領事の部屋

 歴代のイギリス領事の中でもっとも市民に親しまれ、大きな足跡を残したのが、リチャード・ユースデンであった。上の写真で、遠眼鏡で窓の外を眺めているのがユースデンである。彼は、身体が小さかったため「豆コンシロ(=Consule)」と呼ばれた。箱館戦争では「不干渉」を宣言するとともに、榎本武揚に対して「武装解除しない限り徳川の蝦夷地開拓は許可されないだろう」と助言したという。維新後は学校の創立に協力し、函館公園の開園にも積極的に関与した。離日の際には函館公園で別れの宴が開かれ、大勢の市民が参加したと伝えられる。

(旧函館区公会堂)


旧函館区公会堂


ホール

 旧函館区公会堂は、明治四十三年(1910)に建築された、ブルーグレーとイエローの配色が鮮やかな建物である。港町函館には、明治期の洋風建築が数多く残されているが、その中にあってこの建物の美しさは、一際目を引く。

(元町公園)

元町公園の敷地には、開港直後、箱館奉行所が置かれていた。元治元年(1864)、防衛上の理由から五稜郭内に移された。

元町公園を訪ねたとき、イベント開催中であった。当方はイベントには用事はなく、「箱館奉行所跡」を撮影したいだけだったのだが、中に進入しようとすると係の男に呼び止められ、入場料五百円を支払えという。事情を説明しても先方は譲る気配がなかったので、やむを得ずこの日は撤退することにし、後日出直すことにした。


箱館奉行所跡 奥は旧函館区公会堂

 旧北海道庁函館支庁庁舎内部は、函館市写真歴史館として公開されている。昔の写真機材とか、函館で撮影された古写真など、興味深い展示が多い。入館料二百円以上の値打ちはある。


旧北海道庁函館支庁庁舎


函館市写真歴史館


旧開拓使書籍庫

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函館 大町

2013年10月05日 | 北海道
(函館臨海研究所)


函館臨海研究所

  この場所が幕末当時海からの玄関口であった沖の口役所跡である。現在、函館市臨海研究所がある。建物の前に函館市の建てた「沖の口役所跡」の説明板がある。沖の口番所とは、船舶、積荷、旅人を検査して税金を徴収するための役所である。松前藩の重要な税収源であった。当初は松前城下のみであったが、その後江差、箱館にも置かれた。


箱館郵便役所跡

 その横には、箱館郵便役所跡の石碑がある。明治五年(1872)道内最初の郵便局としてこの地に郵便役所が設置された。箱館では郵便制度創始者前島密がこの地で学び、のちの初代逓信大臣榎本武揚が蝦夷政権で総裁を務めたこともある。函館は郵便先覚者ゆかりの地でもある。


(函館元町ホテル)


元町ホテル


「新選組屯所」跡地

 函館元町ホテルの場所は、箱館戦争当時、新選組の屯所が置かれた称名寺の跡地である。ホテルには蔵の形をした「屯所の庵」という部屋があって、幕末・新選組フアンに人気が高い宿である。

(中華会館)


中華会館

 中華会館は、純中華様式の建築として現存する唯一の建物なのだそうである。函館と中国の間の海産物貿易が盛んだった時代、中国から大工、彫刻師、漆工を呼び寄せて、約三年の工期と巨額の資金を投じて明治四十三年(1910)に竣工した。

(小林寫真店)


小林寫真店

 函館市内には、写真史に関わる史跡が多い。小林寫真館もその一つで、道内に残る最古の写真館建築物である。明治三十五年(1902)に神戸の写真師小林健蔵が来函し、開業したのが始まりで、現存する建物は明治四十年(1907)に再建されたもので、昭和三十七年(1962)まで営業していたという。

(海上自衛隊)


運上所跡

 箱館開港にともない、当地には税関の前身である運上所という機関が設けられた。このとき輸入はほとんどなく、輸出は中国向けの昆布が全体の四分の一にのぼり、そのほかイリコ、スルメ、干あわびなどの海産物が上位を占めた。
 榎本艦隊が箱館を占拠すると、運上所は外交の舞台となった。明治元年(1869)十二月二日、榎本武揚は英仏軍艦両艦長に対して、蝦夷島領有を宣言し、徳川家の血統者を選任して、組織の代表として迎えたいとする新政府宛ての嘆願書を託した。しかし、同年十二月二十三日、運上所で榎本が受け取った新政府からの回答は「拒絶」であった。

(高田屋本店跡)


高田屋本店跡

 高田屋嘉兵衛の本店があった場所である。かつてこの場所は、すぐ裏が岸壁であったという。

(丁サ跡)
 高田屋本店の向かい側辺りが、土方歳三が箱館市内における宿舎としていた商家丁サの跡と推定されている。丁サは、屋号を萬屋と称する佐野専佐衛門の店舗であった。


丁サ跡

(新島襄海外渡航乗船之處記念碑)


新島襄海外渡航乗船之處記念碑

 元治元年(1864)六月一十四日の夜半、新島襄は福士成豊の助けを得て、上海行きのアメリカ船ベルリン号に乗って密航した。石碑表面には、新島襄が密航の際に詠んだ次の漢詩が刻まれている。

男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家 
却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花



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