これが私の生きる道

こむずかしいことやきれいごとは
書いてありません。
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読んでみてください!!

無償の愛

2012年07月09日 19時38分55秒 | 思うこと
今日、六本木ヒルズで開催されるSalyu×Salyuのライブの
チケットが送られてきましたが
整理番号が130番台と大してよくない番号に失望しています。
受付開始と同時に申し込んだのに
自分より早く130人も申し込んでいるわけは絶対なく
関係者の席とか追加席とかで
いい番号が回されているんだろうなぁと暗い気持ちになりました。
20番以内には入っている予定だったんだけどなぁ。

「デスパレートな妻たち」というすこぶる面白い海外ドラマがあって
現在もNHK-BSで放送中なんですが先週の回で
中々考えさせられる場面がありました。

スーザンという主婦が、ある事故で腎臓を無くしてしまい
人工透析を受けることになって、通院していました。
そこに学生時代に同級生だった男性(仕事で病院に来ていた)と出会い
彼が移植の為の腎臓を提供すると申し出ました。
スーザンは学生時代、誰もが憧れるマドンナのような存在で
彼もその例に漏れず、彼女のことが好きで
盗撮など今でいう所のストーカーのような行為をしていたことが明らかになります。
(学生時代はスーザンはそのことに気づいていなかった)
それを知ったスーザンは腎臓移植してくれるのは嬉しいけれど
旦那も息子もいるし、これ以上特別な関係にはなれないと告げると
彼はそれでは腎臓を提供することはできない、と帰っていきました。

これだけ見るとこの男性のことをひどいなぁと感じるかもしれませんが
現実の自分に当てはめるとそうとは言い切れないものがあります、
というよりも当然の行為とすら思ってしまいます。
人工透析を受けていれば生きていけないわけではなくて
それだったら家族以外の人に移植するというには
それ相応の理由がないと難しいものです。

今回のように好きな人の為になりたい気持ちがあっても
移植が終わったら旦那と子供の元に帰っていくとなると
見返りもなくそれをするのはよほど寛容な心がないとできるものではありません。
正直、なんか自分が損したような気分になるのは
器が小さい証拠でしょうか。
たとえ自分と結ばれなくても、その人が幸せならばそれで十分、なんて聞くことがありますが
その人たちには同じ状況で腎臓を提供することができるか
訊いてみたいものです。

こんな大仰なことじゃなくても
見返りを求めない無償の愛というのは
たとえば自分があと半年の命しかないような
特殊な状況に追い込まれない限り、できないよな、
口で言うだけなら簡単だけど
そんな大きな人間になりたいです。

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