夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

書を愉しむ会

2012-09-09 07:16:19 | 福祉について
 もうすぐ「あうん感謝祭」(9月22日~23日)が予定されています。あうんが地域の中で順調に活動を展開できているのは、地域の皆さんのバックアップがあったからという感謝の気持を持とうとスタッフが話しあって命名しました。
 今年新たに活動を始めたのは、「陶芸」と「書を愉しむ会」です。
 二つの活動も地域の方にご指導に参加していただいて、初めての文化祭が行われることになります。
 先日作品展準備のために、書を愉しむ会が開催され冒頭の写真の作品が生まれました。
 脳性麻痺の18歳の女性です。彼女は意欲的な生き方をしており、特に車椅子サッカーや書道、詩を作ることなどにも積極的です。
 彼女が幾つかの作品を書いた中で、私の目を引いたのがこの作品でした。お母さんが彼女の社会活動の背中を協力に押し続けていてくれる感謝の気持が、まさに力強く字の中にあふれている気がして思わず写真を取りました。
 

温泉にて

2012-09-08 06:50:42 | つれづれなるままに
 津軽の温泉は銭湯も姿を消すほどに数もあり、更に大浴場の他に露天風呂、サウナも常備されていて350円以内である。銭湯などでは、温泉に対抗するなど正直思えないのが素人でも分かる。しかし、問題はそれを利用する津軽の人々のマナーの悪さであり、感謝の薄さであるといつも思う。
 私の生まれた在所には鉱泉という温度の低い銭湯はあったが、数は少なく銭湯の数が俄然多かった。そういう意味では、東北一体のこの温泉郷を見れば羨ましさを通り越して、天の恵みにありがたさを感じる。なんといっても寒い冬などは家庭風呂と違って、体の内側から温まって、つい深い眠りに入っていくほどに湯冷めしない効果もある。こんなにたくさん温泉があると、今日は何処の温泉に入ろうかと迷うほどであり、同じ地域の住民が、それぞれに愛する外風呂を持っている。熱い温泉が好きな人、ぬるめの温泉が好きな人、もちろんその温泉の雰囲気で昔からの馴染みの会話の交わせる温泉がいいという人だってたくさんいるだろう。
 私の常時通う温泉は、自宅から車で10分かからない場所の「あたご温泉」という。まだ10年経たない新しい温泉で、夜行けば弘前市内の夜景や岩木山の山容が間近に仰げる環境にある。そして料金も大人350円と手軽である。なんといっても従業員を始め、温泉の女主人の笑顔が最高に良い。
 この温泉の特徴は大浴場が中央にあって、その奥にはもうひとつ、水風呂があることだろう。水道水ではなく、多分温泉と同じ泉質の水で、ぬるぬる、つるつる感がある。温泉はやや熱めで、多分42℃位あるように思う。身体が冷えているときは、入るのに少し身体にお湯を多めにかけてからでないと、入るのに辛い。つまり息を詰めて入らないと入れないような暑さでもある。実家の友人が遊びに来た時、件の温泉に連れて行ったが暑くて足首しか入れなかった。
 さて、この文章を書こうと思ったのは、温泉紹介だけではなく最近奇妙な出来事があったからである。冒頭に温泉客のマナーの悪さについて触れたが、たとえばこうである。大の大人が、自分の使った温泉常備の風呂桶や腰掛けを使用しても片付ける人が少ない。更には扱いが乱暴な人がなんと多いのか・・・。乱暴に洗面器を投げたり、衣類かごを音の出るほど投げつける人すらいる。温泉から上がって脱衣室を歩く時も、体を拭かないで歩きまわるなど親の躾も疑わしくなる。子供が水中眼鏡を持ってきて、水風呂で泳ぎまわる。これをそばにいる親が容認している。静かに温泉に浸りたいと思ってもそれがかなわないので、仕方なく、静かにしなさいと注意することになる。
 そんな温泉に夜少し遅くに入りに行った。そしてこんなできごとに出くわした。銭湯内には3人ほどしか客はいなかった。洗面器やら椅子が使用していないカランの前に沢山片付けられずあった。その時、一人の大人がその全部を片付け始めたのである。今まで私は、しょうがない大人たちだと思っていたが、私はただ自分の使ったものしか片づけたりはしなかったのである。その点この人は、たしかに一つの意識を持って、行動をしているのであった。言葉で注意する以上に、この行動を見れば誰でもそれに従うのではないだろうかと思った。心の中の津軽人に対するイメージが一つ変わった瞬間だった。

きおう

2012-09-03 07:12:18 | つれづれなるままに
9月3日(月)

 ヘルパーさんからこの日頂いた、今年に入って二度目に食べる旬のりんごです。名前は「きおう」だそうです。
 少し渋みがありましたが、その後に甘みがやって来ました。ちょっと「王林」に似た味かもしれません。肉質はこの時期のりんごは、柔らかめです。そのためにすぐにやわらかくなりそうです。これからいよいよ「つがる」などが続きます。
 今年は30℃を超える真夏日が続いていて、りんごにとっても日差しで日焼けが起きるほどで大変そうです。
 お山参詣の願い「五穀豊穣」「家内安全」が、叶えばいいなと思うこのごろです。

 新涼の目覚めてりんごの皮をむく

橘 曙覧(たちばな の あけみ)『独楽吟』

2012-09-03 06:43:18 | サイクリング
橘 曙覧
    (たちばな の あけみ、文化9年(1812年) - 慶応4年8月28日(1868年10月13日))は、日本の歌人

 『独楽吟』

たのしみは艸のいほりの莚敷ひとりこゝろを静めをるとき

たのしみはすびつのもとにうち倒れゆすり起すも知らで寐し時

たのしみは珍しき書人にかり始め一ひらひろげたる時

たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時

たのしみは百日ひねれど成らぬ謌のふとおもしろく出きぬる時

たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時

たのしみは物をかゝせて善き値惜みげもなく人のくれし時

たのしみは空暖かにうち晴し春秋の日に出でありく時

たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無りし花咲ける見る時

たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙艸すふとき

たのしみは意にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき

たのしみは尋常ならぬ書に画にうちひろげつゝ見もてゆく時

たのしみは常に見なれぬ鳥の来て軒遠からぬ樹に鳴しとき

たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき

たのしみは物識人に稀にあひて古しへ今を語りあふとき

たのしみは門売りありく魚買て烹る鐺の香を鼻に嗅ぐ時

たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時

たのしみはそゞろ読ゆく書の中に我とひとしき人をみし時

たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食て火にあたる時

たのしみは書よみ倦るをりしもあれ声知る人の門たゝく時

たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時

たのしみは世に解がたくする書の心をひとりさとり得し時

たのしみは炭さしすてゝおきし火の紅くなりきて湯の煮る時

たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき

たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時

たのしみは昼寝目さむる枕べにこと/\と湯の煮てある時

たのしみは湯わかし/\埋火を中にさし置て人とかたる時

たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時

たのしみは客人えたる折しもあれ瓢に酒のありあへる時

たのしみは家内五人五たりが風だにひかでありあへる時

たのしみは機おりたてゝ新しきころもを縫て妻が着する時

たのしみは三人の児どもすく/\と大きくなれる姿みる時

たのしみは人も訪ひこず事もなく心をいれて書を見る時

たのしみは明日物くるといふ占を咲くともし火の花にみる時

たのしみはたのむをよびて門あけて物もて来つる使えし時

たのしみは木芽煮して大きなる饅頭を一つほゝばりしとき

たのしみはつねに好める焼豆腐うまく烹たてゝ食せけるとき

たのしみは小豆の飯の冷たるを茶漬てふ物になしてくふ時

たのしみはいやなる人の来たりしが長くもをらでかへりけるとき

たのしみは田づらに行しわらは等が耒鍬とりて帰りくる時

たのしみは衾かづきて物がたりいひをるうちに寝入たるとき

たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運び思ひをる時

たのしみは好き筆をえて先水にひたしねぶりて試るとき

たのしみは庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々

たのしみはほしかりし物銭ぶくろうちかたむけてかひえたるとき

たのしみは神の御国の民として神の教をふかくおもふとき

たのしみは戎夷よろこぶ世の中に皇国忘れぬ人を見るとき

たのしみは鈴屋大人の後に生れその御諭をうくる思ふ時

たのしみは数ある書を辛くしてうつし竟つゝとぢて見るとき

たのしみは野寺山里日をくらしやどれといはれやどりける時

たのしみは野山のさとに人遇て我を見しりてあるじするとき

たのしみはふと見てほしくおもふ物辛くはかりて手にいれしとき

 心の豊かさあるいは人間の幸せ=「楽しみの思想」(ノンフィクション作家・神 一行著)について考えさせられる詩です。8月31日付「天地人」に紹介されました。
 幕末に福井県で生まれた。生家は、紙、筆、墨などと家伝薬を扱う商家で、父親は正玄(正源とも表記)五郎右衛門。彼は長男として生まれ、名は五三郎茂時。後に、尚事(なおこと)、さらに橘曙覧と改名する。橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられ、橘曙覧と称した。
2歳で母に死別、15歳で父が死去。叔父の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし、28歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学んだりなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詩作するようになる。
 妻子を門弟からの援助、寺子屋の月謝などで養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが、37歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した。彼の学を伝え聞いて、1865年、松平春嶽が、家老の中根雪江を案内に、出仕を求めにやってきたのは、ここである。