夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

内部監査~良き友

2012-05-04 07:19:55 | 私と福祉とであいの旅
5月3日(木)

 雨がちの一日でした。
 18日の理事会が開催予定であり、その前の監事監査がこの日行われました。
 監事はお二人ともかつての盟友で、老人ホームの幹部職員です。その内の一人Nさんは、今年3月で勤務先の障害者施設を退職されました。それを契機にわが法人監事も退任すると意思表示してきました。
 お二人とも私が老人ホーム職員時代に、お付き合いさせていただいた30年来の友人です。それこそ歯に衣を着せぬ仲で、是々非々で物事を判断し発言できるのがNさんでした。大概の仲間関係では、一々重箱の隅をつつくのが嫌で黙っているのが人間関係のコツと思っている人もいるのでしょう。でもほんとうの友人は、いい時も悪い時もそばにいて、適切に反応してくれる人だと思います。
 18年前に岩木山の僻地で通所事業をスタートしようとした時に、いち早く私を支援してくれたのが彼でした。雪のうず高く積もって埋まった建物を、雪の中から掘り出してくれたのを今も忘れません。
 もう一人のFさんとは、Nさんとの接点の老人ホームの事務系の人です。弘前市で東北ブロック特別養護老人ホーム職員研修会を開催する際には、常連メンバーでした。
 いずれにしても介護保険などというもののない、生活と医療と福祉が切り離されて考えられない古き良き時代の話かもしれません。

 Nさんは私より4つ上で、Fさんは私よりも2つ下ですが気のおけぬ友人です。
 仕事を終えればいつも一緒に飲み語り笑って過ごした若き時代の思い出は、今の私達の肥やしです。本当の福祉のあるべき姿を追い求めて発言するので、時にはお二人とも経営陣から疎んじられた時代もあったようです。
 かつて同じ施設でNさんの上司部下の関係だったMさんも、今年で引退したといいます。Nさんにとってはついに超えられなかった人ですが、最後は一緒に飲んだと聞いています。
 私の法人を興して他施設に去ったH事務長(現在は施設長も今年70歳で、弘前で開催される全国大会開催を機に、退任すると聞きました。
 一つの時代が今終わろうとしているんだなと、また人との別れの中で感じています。

百花繚乱~備えあれば・・・

2012-05-03 06:36:52 | つれづれなるままに
5月3日(木)

 昨日までの好天もいよいよ今朝は90%の確立での終日雨日和です。きょうの気温も最高気温が14℃(-10℃)の予報です。4日間連続の快晴で25℃の夏日でしたから、弘前城公園にはこの日だけで25万人もの観光客、お花見客が訪れたと今朝の一面です。会期中(23日から)の来園者は既に120万人だそうです。昨年は東日本大震災の影響もあり、心から楽しめなかった気がします。今年は希望へつながるお花見になりそうです。
 私はまだ弘前城公園には足を向けていませんが、明日から新潟の友人夫妻が2組弘前へ花見に来る予定です。昨年は天気にも恵まれて西堀の桜のトンネルに感動したと言っていましたが、今年はどうなりますやら・・・。
 写真はあうんの敷地内に満開となった枝垂れ桜、その向こうには梅の花と岩木山が映っています。

 昨日は今年度の法人の事業計画で配備予定だった発電機が3台手に入り、本部のあうんのほかケアホームSEEDS、パン工房・ゆいまあるに配備しました。また乾電池や災害用のラジオ、飲料水用のポリタンクなども一緒に入庫しました。1台目の発電機は本部用で、200ボルト用が1つ、100ボルト用が3つの電源を同時に使用可能で、連続10時間使用可能となっています。



 ケアホームSEEDSには各部屋に災害対策型の電池の要らないランタン(太陽電池や手動式発電、充電式、LEDランプ機能)6個を備えています。あとは今後非常食用のスープ50食3日分が入庫予定となっています。


 一昨日は寝袋を40枚ほど温かなウッドデッキに干しましたから、なんとか急場をしのげる体制が備わりつつあるところです。今後は防災訓練を行いながら、発電機の操作法等を定期的にスタッフに指導していく方針です。
 旧岩木町には岩木山があって、豪雪もありますがその分年中水に困ることがありません。特に湧き水があちこちに湧いていて、お茶やコーヒー炊飯用、お酒の水割り用などと皆さんが汲みに歩いています。非常時にはそういう湧き水(津軽では清水=しつこ)があるという安心があります。

 東北の災害のもう一つの想定は、冬の生活です。電化製品オンリーの暮らしは、一旦停電が続くと最も困るのが暖房でしょう。寒さも半端じゃ無いので、電気の要らない昔使用していただるま型ストーブ(灯油式)が欠かせません。津軽のリンゴ農家では今でも、薪ストーブが家庭に一台はあって、暖房と鍋を上げて煮炊きもできるすぐれものです。りんごの樹の薪はとっても火持ちが良くて火力も強く薪ストーブに適している燃料です。

 そういう意味では災害はいつ来るかわかりませんが、ライフスタイルとして非電化型生活を「アウトドア的」に行いながら楽しんでいると、実際の非常時にはほとんど困らないことになります。
 法人事業所がメンバーさんたちとこれまで行なってきた宿泊キャンプは、今ようやくこうして定着しようとしています。

昭和35年ごろの暮らし その2 「鍵っ子」

2012-05-01 07:02:37 | つれづれなるままに
 小学校3年生で転校したぼくは、いままでの暮らしと大きな違いに戸惑うばかりであった。その一つが住宅事情である。今まで祖父母と暮らしていた家は、部屋数が10.それも10畳以上の部屋ばかりだったのだから、新しい環境の3部屋では誰かと一所の部屋に暮らすしかなかった。
 唯一まあいいかと思ったのは、雑木林が周辺に広がっており、自然が豊かだったことだろうか。
 今でも思い出すのは時代の変化だった。電気炊飯器、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が当たり前になっていったころ。私は小学校3年生で妹は保育園、両親は共稼ぎなので、鍵をもたせられ、下校したあと米を研いで炊飯器を仕掛けるのが役割だった。それでも慣れればなんて言うことはなく、こんなに便利なものがあることを喜んだ。ちなみにあの炊飯器はナショナルだった気がするが、東芝だったろうか・・・。
 父はその頃主任クラスになっていたのか帰宅時間が遅く、おふくろも学校が遠かったこともあって妹と二人だけの夕食の時が増えていた。