夢発電所

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久しぶりの野田村で援農ボラ

2012-05-28 05:53:26 | チームオール弘前
5月27日(日)快晴

 先週の日曜日から始まった「野田村援農ボランティア」の第2回目。私は初めての参加。
 車中から見る野田村への車窓風景は既に初夏、ツツジがいたるところに咲いていました。
実は先週参加予定だったのですが、急用ができて参加できずにおりました。でもこの日久しぶりの野田村へ足を踏み入れることができ、そして懐かしいボラ仲間や若い人達、そして野田村の農家の方々との交流も出来ました。
 写真にも見られるように野田村の復興は進んではいるものの、海岸線などを中心に防潮堤は当時の残骸がまだむき出しです。三陸鉄道もこの5月にようやく八戸から田野畑村までの区間に鉄道路線が復帰したようです。
 役場前を中心にプレハブ商店街(写真)が、随分開店していました。学習センターそばのこの家は、主人が居ないのか、建物は未だに修復のめどが立たないのか、壁に穴が空いたまま放置されていました。
 さて、この日野田村では二つのイベントの計画があって、一つはチームオール弘前の「田植え後の援農ボラ」と「塩の道を歩こう」という昨年夏に参加したことのある行事が重なっていました。
 弘前から観光バス一台に、約20人が乗り込み学生と市民ボラが半々というところでしょうか。4人ほどが塩の道を歩く会に参加し、私たちは2班に分かれての田植えの後の苗箱を洗うボランティアでした。
  援農先の一つはこれまでもガレキの手伝いをした米田(まいた)地区の豆腐田楽の店・米田さんと、私達が昼食をお世話になっていた「餅の搗き屋」の小野寺さん宅のいずれも苗箱洗いです。
 快晴の天気の中5分ほど歩いて現場に到着。山の中の清流(小川)脇に苗箱がつまれており、みんなで分担して洗う係と、洗った箱を結んで積む係に分かれました。
 苗箱洗いはわが家で義父が存命中に行った経験があります。でも津軽では苗箱を洗う機械があって、とても楽でしたが、こちらでは全てタワシや車を洗うブラシでの作業。なかなか1千枚(10町歩分)を片付けるには2日では難しい状態でした。
 洗う係も次第に会話が途絶えたかと思えば、結構要領が良くなってきています。箱を10枚ずつまとめて紐を掛ける作業は、高齢者のTさんと私の役目です。
 最初はみな同じ箱としてまとめて結んでいましたが、次第に苗箱にも種類があることに気づきはじめ4種類を分けて縛ればまとまりやすいのが解りました。
 
 
 鶯の声や山鳥(雉)の鳴き声を聞きながら、透き通った小川でみんなが楽しい会話を交える中苗箱洗いが進みました。
 あっという間に午前中の作業が終了し、米田(まいた)地区の米田(まいた)さんの運営する豆腐田楽の店に到着。
 活躍した分お腹も空いて、大学側が手配した搗き屋さんの弁当・よもぎ餅セットと米田さんが準備してくれた豆腐の「ユカベ」をたくさんいただきました。

   
 食後私のもう一つの使命7月頃の「岩木ふれあいボランティア会の研修旅行」の打診を米田さんにして、なんとか受け入れていただけそうでした。
 午後1時にまた午後の作業が開始となって、午前中の経験がだいぶノウハウを高めていました。
 午後3時作業を終了して後片付け。搗き屋さんの好意で、お土産に全員が畑から新鮮なニラとお餅をいただきました。
 米田さんからは寄せ豆腐をお土産に頂き、なんだかみやげでいっぱいです。

 こうして今や野田村のボランティア活動も災害ボラから、交流支援という形に変わって来ています。対面型のボランティア活動は、とても心と心の通うのが気持ちよく残ります。また機会があれば来たいと、帰途の車中参加者は語っているのが印象的でした。
 それにしても、老体にとっての今回の作業は、足腰にかなりダメージがありました。イテテテテ・・・・・。