夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

◎第2回弘前大学人文学部ボランティアセンター活動報告会

2012-03-10 07:07:49 | チームオール弘前
「チーム・オール弘前の一年間とこれから」
 日時:2012年3月9日17時30分~20時30分
 場所:弘前大学コラボ弘大8階八甲田ホール

 間もなく大震災が発生してから、1年が経とうとしています。チームオール弘前の第2回目の活動報告会が昨夜あり、参加してきました。受付を済ませると、昨年座談会をした内容の掲載された「チームオール弘前の一年」という活動記録集が刊行されており、私もいただきました。
 あいにく一昨日くらいから咳と鼻水、くしゃみという風邪症状が夫婦ともにあって、最初は懇親会も参加ということを考えていましたが、急遽会費だけ払って早々に帰宅しました。私が風邪を引くことなど本当に珍しいことですが、これも老化なのでしょうか?
 とはいえ熱もなくて、マスクをして皆さんにご迷惑にならない程度に後方の席に身を置きました。
 ボランティアの仲間が、前の方でワイワイやっているのですが、今回はおとなしくしていました。

 報告会は弘前大学長、弘前市長、野田村村長の挨拶の後、関西学院大学教授・室田益輝氏の基調講演、パネルディスカッションと進みました。

 私なりに自身の頭の整理として、一年間のボランティア活動と野田村の変化について書いてみたいと思います。

 1.弘前市が野田村支援を決め、職員やボランティア派遣を行ったこと。
 2.観光バスでの定期便を出して、ボランティアの参加しやすい環境を作ったこと。
 3.弘前大学人文学部がボランティアセンターを設立し、事務局機能を発揮したこと。
 4.窓口が当初たくさんあって、申し込みが混乱したこと。
 5.学生事務局が時間を追うごとに自信をつけて、リーダーとしての主体性が出てきたこと。
 6.市民ボランティアのベテラン組が、徐々に役割分担が出来るようになっていったこと。
 7.単に瓦礫撤去だけではなく、交流支援というテーマをチームオール弘前は持ったことが特徴の一つでもあった。
 8.野田村の変化
  (1)野田村は8月末でがれき撤去作業や、救援物資の仕分け作業などを終えた。
  (2)社協の県外応援部隊も撤去し、県外ボランティアの受け入れ機能も終えた。
  (3)避難所は6月で閉鎖されて、仮設住宅やみなし仮設住宅へと移転していった。
瓦礫の山も撤去が進んで、プレハブではあるが役場周辺にも仮設のお店が立ち並び始めていた。
  (4)八戸方面から野田村駅までの三陸鉄道が再開した。
  (5)被災したエリアの人たちの内、希望者が高台移転が進められていこうとしている。
 9.気になったこと
  (1)救援物資がたくさん集まっているのに、それが個々の人々に渡るまで時間がかかりすぎていたこと。毎回初めての人が関わるよりは、慣れている人を専属で毎回手伝ってもらったほうが効果的であったのではないか。もっと違った言い方をすれば、救援物資は被災地ではなく、都市部に集めてインターネットを使って送る方式をとったほうが人材を集めるのにも効果的ではなかったか。現地に行きたくてもいけない人達が多かったのではないか。
  (2)人手がほしいという現地ニーズと、パニックになることを恐れての抑制情報。ヤル気のある人たちが、この抑制機能でかなりやる気を失っていったのを感じる。
  (3)派遣前期には毎回行こうと思っているボランティアに、初めての人を優先したいという支援センターからの意見があって、ヤル気が削がれるような思いをしていた人もいた。現にそれは自分の日常の仕事をどのように処理して、現地に赴くかなどという気概にもつながっていたのである。ヤル気の起こるコーディネート機能が必要に感じた。

 9.今後の課題と方向性
  (1)新たな現地での活動の掘り起こし
    ①現地に野菜畑を作るなど、チームオール弘前のボランティアが継続していく環境づくり。
    ②現地のニーズとしては、これからホタテ貝の作業が人出を求めている。

    ③日帰り型ではなく、滞在型のボランティアの提案もなされていた。そうすることによって、もっと頼れる隣人になれる。早朝の漁に出かけることが可能となり、現地の人と夜は交流が可能となる。現地滞在が長くなることによって、もっと現地の人々のニーズに築けるようになる。などをチーム北りアス渥美先生が言われていた。
  (2)弘前市長が来年度もバスは出すという確約をされたので、現地往復の足は確保できる様子。
  (3)現地の情報を弘前市民にどのように情報提供し続けるか
  (4)現地の農産物や海産物を弘前市でどのように経済的支援を継続できるか
  (5)現地の傷ついている人々の心を、どのように回復支援するか 
  (6)ボランティアとしての関わり方
    ①阪神淡路大震災:1995年(平成7年)1月17日(火)⇒中越地震:2004年10月23 日18:31⇒東日本大震災:2011年3月11日(金)14:46
    この3つの地震によって、災害ボランティアの文化が育ってきた。それはこれからまだ継続されている震度5級の地震によって、東京を中心とした大震災の予感でもある。テレビを中心としたマスコミ上の視覚的な関心から、徐々に地球規模の危機感とそれに伴った人間社会のあるべき姿が変わりつつあるのかも知れないし、変わるべきだと思う。現に私達、いや私自身もこの災害ボランティアとして現地に赴いてその変化を見てきたが、体感的に多くを学ぶことができた。行政や社協などだけでは到底間に合わない個々への支援は、経験豊富な民間人ボランティアが入り込み、積極的に関わることの意義を痛感している。その時期ごとの人の手配の必要度、それは仮に自己満足的なボランティアであろうとなかろうと必要な時期もあるのだと思う。
 チームオール弘前という大学が中核的な働きをして、大いにその効果を果たしたという点で、私は今回の野田村の災害ボランティア活動は大きな特徴であると思う。今後の災害ボランティアの一つの指標として、大きな方向性を示していたのではないだろうか。 

 



 

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。