音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

サイコキラー77 (トーキング・ヘッズ/1977年)

2012-04-09 | ロック (アメリカ)


私がトーキング・ヘッズの存在を知ったのは、まだ、彼らのデビュー前であった。正確にいうと、まだこのバンド名ではなかった。ニューヨークのパンク・シーンというのはイギリスよりも古いことは、パティ・スミスその他のところで何度か触れたが、実は結構密接に係りがあって、その中心は1973年にヒリー・クリスタルが開業したCBGB(Country, Blue Grass, and Bluesの略)というニューヨークはマンハッタン区のクラブ(ライブハウス)であった。ここは実はもともと店名にある様な音楽を中心としたライブハウスであったが、テレヴィジョンのトム・ヴァーレインが係るようになってから、パンク音楽の聖地的な存在になっていき、ラモーンズ、テレヴィジョン、パティ・スミスなどが出演するようになった。トーキング・ヘッズのメンバーもここに出入りをしていて、デヴィッド・バーン、クリス・フランツとティナ・ウェイマスの3人は、入れ替わり立ち変わりでユニットを組みかえてステージに参加していたが、初めて3人揃って始めたのがこのトーキング・ヘッズというインテリバンドだった。私はN.Y在住の先輩に当時から面白い次代の音楽ムーブメントだぜって紹介されていたが、当時全米トップ40やミュージック・マガジンでもそんな話題は、まだなかったと記憶しているし、当時は個人的にはツェッペリン、あるいはプログレッシブに傾倒していたから、あまり先輩の話には興味を持たなかったし、大体プログレを「幼稚園のお遊戯ロック」と言い放っていたその先輩とはそもそも余り好みが合わなかった。そしてこのアルバムが発売になったときも、「ふうん」という程度だった。つまりその当時はこれがそののちの大きな音楽変革の胎動の第一章だなんて全く理解できなかったのである。情けない。そして、彼らに関していえば、セカンドアルバムにおいて、ブライアン・イーノが参画する。イーノはクラシック出身の私としては、当然、現代音楽家として当時は認知していたから、そのことでこのミュージシャンに関する期待が大きくなったのも事実だし、その僅かの間に、パンク音楽はポップ音楽を席捲していたという時代背景である。

このアルバムを最初に聴いたのは、セカンドアルバムが出る直前、したがって、発売から略、一年近く経っていたからである。私は人よりは随分レコードにお金をつぎ込んでいた方であるが、でも中々新しいアーティストには回らなかったし、回りの友人でもまだこの辺りは知られていなかったが、一人すごいパンクフリークが居たが、彼はレコードを人に貸したりしなく(私も借りるのは嫌いだった。レコードは傷つきやすく、デリケートな商品だし、ジャケットも大事なので)でも、聴きたいのなら家へくれば何時でも聴かせてくれる奴だったので、彼の部屋で聴いたが、正直、彼の解説の方が面白かったし、デビット・バーンを良く知っていて大変勉強になった。彼はピストルズの方が好きで、所詮、N.Yのパンクは仲良しメンバーのマスターべーションみたいなものだと、専ら英国パンクを支持していたが、ただ、トーキングあたま(当時はちょっと気取った音楽評論家もそんな言い方をしていた)だけは今後も抜けるだろうって話していたが、その後その通りになったから驚いたものだ。それで、私が今度はセカンドアルバムを買って、彼と一緒に聴いたのだった。つまりは私も、この当時はピストルズ(かと言って当時はそんなに評価していた訳ではない)に比べると、これがパンクなのかなぁって思いがあった。しかし、音楽評論家の評価は大変高く、逆に萌芽期だったニュー・ウェイヴ音楽の始祖的扱いをされたことは、後々の彼らの音楽活動にはかなり有利に働いたことは事実である。このアルバムの中では、やはり"Psycho Killer"が大好きで、逆に言うとこの曲だけが矢鱈と頭に残ってしまい、なので後々の彼らのライヴや映画などの作品が私を虜にしてしまったのは言うまでもないし、結構、私と同じようにこのバンドを捉えている人は多いのだと思う。

ただ、この時点では誰も音楽の大きな波を感じているとは思えなかったと思う。私に関していえば、まだ、ザ・ジャム一バンドのみにおいての衝撃に過ぎなかったのかもしれない。


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