音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

ヴァイオリンソナタ第1番ト短調「雨の歌」 (ヨハネス・ブラームス)

2009-07-23 | クラシック (室内音楽)


ブラームスの1番というと、やはり「ブライチ」で、どうしても交響曲第1番のことになってしまうが、私は、同じ1番でも、ヴァイオリンソナタ第1番が、ブラームスの1番の中では一番完成度が高いと思っている。尤も、古典派時代の作曲家と違って、この頃の人たちは余り同じジャンルで何曲も沢山作曲をしないから、第1番が多いのだが、因みにブラームスで言えば、ピアノ協奏曲も、弦楽六重奏曲も、第1番が良い。この曲が作曲され、完成したのは1879年で、丁度、「ヴァイオリン協奏曲」「交響曲第2番」と同じ、オーストリア南部のヴェルダー湖畔の避暑地ペルチャハというところで作られた。そもそもブラームスはこの曲のずっと以前にイ短調のヴァイオリンソナタを完成していたが、シューマンの薦めを断り出版・発表をしなかった。残念ながらその曲は破棄されたというが、1853年のことだというので、丁度ピアノソナタの第3番が発表された頃であろう。ピアニスト出身だけに音楽家としての初期はピアノ曲が多く、多分、ブラームスのことなのでヴァイオリンの楽曲として納得がいかなかったというのはものすごく良くわかる。実際、このヴァイオリンソナタ第1番も、親友であるヨアヒムと何度もすり合わせてをして、お互いに納得のいくまでは発表していなかったと思われる。これは、ブラームスのヴァイオリン楽曲には必ずつきものであるから。それが証拠に、この楽曲は後々プライベートな場所でヨアヒムのヴァイオリンにブラームスがピアノで伴奏をして幾度となく演奏されている。またこの表題となっている「雨の歌」という自身が作曲した歌曲「雨の歌」を転用しているからであり、彼の作品で表題がついている作品というのはとても珍しい。どうしてもそういう話になってしまうが、この「雨の歌」はクララ・シューマンが好んで歌った曲であり、それを引用することで、ブラームスはクララへの思いを表現しているのである。

しかし、第1楽章からなんと美しい旋律なのだろう。これは弦楽六重奏曲第1番にも匹敵するが、ブラームスという人は、ソナタ形式は少し凝っているが第1主題と第2主題のメリハリが利いていて実にわかり易い。また、何度も同じフレーズを繰り返し使用するところがブラームスのソナタの特徴でもあり、また。それが実に見事でありコーダを盛り上げて終えるというのは彼の作曲のパターンである。これだけ、自分の音楽のパターンがはっきりしている音楽家は、この時代には余り他に見受けない。寧ろ、例えば20世紀の後半になって出てくるポップミュージシャンが自分たちのパターンとか音を持っているように、ブラームスははっきりと自分のフレーズを持っている音楽家だ。しかも、それをどんな分野にでも明確に打ち出してくるというのは余程作品に自信がある人なんだろうと感心する。ブラームスを聴いていて思うことは、この人はドイツロマン主義音楽の中で、かたや、リストやワーグナーに代表される標題音楽派と絶対音楽を主張して対立していた。というより、絶対音楽論者の筆頭は寧ろハンスリックで、音楽評論家である彼にブラームスは担ぎ出されたというのが正しい。だが、ブラームス自身はそれ以上に自分の納得のいく音楽、楽曲しか世に残さなかったのは、シューマンという彼にとっての師がもともとは音楽編集者で音楽の評論にも長けていて、ドイツのロマン主義として継承すべきはなんなのかを可也明確に打ち出していたという影響が大きかったのである。だから、ブラームスの音楽は決まりがはっきりしているし、楽曲の統一感というのが1曲の中にも、また何曲かに跨っても絶大な存在感を示していて、だから彼の音を好きな人には堪らないのである。現代で言えば、そう、サザンでありミスチルであり、何を聴いても旋律が似ているが彼らの大ファンには堪らない音なのである。そんなブラームスには、標題音楽も絶対音楽もないというのが、ブラームス大ファンである私の率直な思いであり意見、いやブラームス論である。

第3楽章は、表題と同じく「雨の歌」、さらに、もう1曲の「余韻」の主題に基づいたロンドになっている。この印象的にフレーズが交互に出てくるというのが、また、ブラームスの凄いところであり、これをヨアヒムとふたりで演奏していたというシーンを想像しただけで、ああなんと贅沢なひとときを送っていたのだろうかと、ただ羨ましく思うのである。


こちらから試聴できます


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。