ヴィクトール・E・フランクルの著作である「夜と霧」を読んでいます。
この本は、いつもバックに入れてあり、継続的に読んでいるのですが、読むたびに新しい感動、そして発見があります。今回、脱走計画という章を読んでいて、運命ということを考えさせられました。脱走計画を仲間から誘われて、行動に起こした時に、フランクルは以下のような感情を持ったと記述しています。
回診が終わると、わたしはもう一度、この仲間のところへ行った。するとまたしても、絶望しきったまなざしがわたしに向けられた。なぜか非難されているような気がした。仲間と脱走することに同意し、みずから運命の主役を演じないというそれまでの原則を破って以来抱えこんだやましさという感情がふくらんだ。 そして、フランクルは、仲間に脱走しないと話します。
この本には、「テヘランの死神」という逸話が書かれています。このような内容です。 死神と出くわした召使は、主人にいちばん足の速い馬をお与えくださいと頼み、それに乗って、テヘランまで逃げてい行きますということなので、主人は召使いに馬を与えると、召使いはすぐさま逃げていきました。 館に入ろうとした主人は、今度は主人が死神に会います。主人は死神に問います。「なぜ、わたしの召使いを驚かしたのだ、こわがらせたのだ。」 すると、死神は言いました。「驚かしてなどいない。怖がらせてなどとんでもない。驚いたのはこっちだ。あの男にここで会うなんて。やっと今夜、テヘランで会うことになっているのに」
フランクルは、収容所という過酷な中で、最初の選別-それは生と死の選別ですが-の時から、「なりゆきに任せること」に自分を委ねます。その根底には、具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務とし、たった一度だけ課せられる責務としなければならない、人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに生きなければならないという信念と言える考えがあります。
「夜と霧」は、今後も読み続けていこうと思っています。
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