今から二十年近く前(!)、「大正ロマンを歌う」というコンサートをしたことがある。その時に、夢二の詩(夢二自身は、「小唄」と呼んでいた)による歌曲6曲を歌った。
夢二の詩や短歌は、絵よりも好きだ。というか、好んで口ずさんだり暗唱したりするものがいくつかある。
…と、その前に、先日書いた(10/19)「まだ見ぬ島へ」について少し補足しておきたい。
娘は膝に肘を置いて、手で顔を覆って、つまり体を折り曲げるようにして泣いている。この姿勢が、彼女の悲しみの深さを教えてくれる。彼女は、近隣の漁村の娘で何か悲しいことがあって泣いている、のではない。故郷に母や妹を残して何年も旅をした果てに、この海辺にたどり着いたのだ。その間に、様々な苦しみを味わってきたことだろう。
娘は、「島に行きたい。そこでなら今までの自分を捨てて新しい自分になれるかもしれない」と、漠然とした希望に縋りついてここまでやってきた。ここまでくれば、遠くその島が見えるに違いない、と思ってきた。なのに、島影は見えない。だから絶望して泣いている。
涙が枯れ果てた後に、彼女はそれでも仕方なく立ち上がって、再びこの地上の生活を続けることになるだろう…ぼくはひどくセンチメンタルなことを書いているかな。でも、人間は、慟哭することってあるよね。
…それはさておき。
夢二の詩や短歌は、先行する誰かに似ていることが多い。例えば詩集「どんたく」は北原白秋の「おもひで」の亜流だと言わざるを得ない。
また例えば、ぼくの大好きな、かつ有名な、短歌二首、
さらばさらば野越え山越え旅ゆかむかなしきひとは忘れてもまし
はあまりにも若山牧水の雰囲気に近いし、
青麦の青きをわけてはるばると逢ひに来る子とおもへば哀し
は明星派的だろう。
ただし、模倣的だからといって必ずしも元の作品より劣っているわけではないし、かえって読者の心に響くものであることもある。
例えば、「どんたく」の巻頭の「歌時計」
ゆめとうつつのさかひめの
ほのかにしろき朝の床。
かたへにははのあらぬとて
歌時計(うたひどけい)のその唄が
なぜこのやうに悲しかろ。
は白秋の「おもひで」の中の「歌ひ時計」:
けふもけふとて気まぐれな、
昼の日なかにわが涙。
かけて忘れたそのころに
銀の時計も目をさます。
から直接の着想を得ていると思われるが、叙情的には夢二に軍配を上げる。冒頭の二行が夢二の方が好きだし、白秋は恋の悲しみを歌っているのに対して、夢二は母への思慕を歌っている。また、白秋は、目覚まし時計が思わぬ時に鳴る、という着想の面白さから出発しているのに対し、夢二のは朝鳴る目覚まし時計から自然に悲しみが湧いている。
資質のことは「糸車」「紡車(いとぐるま)」ではもっと顕著だ。
夢二の「紡車」:
しろくねむたき春の昼
しずかにめぐる紡車。
をうなの指をでる糸は
しろくかなしきゆめのいと
をうなの唄ふその歌は
とほくいとしきこひのうた。
たゆまずめぐる紡車
もつれてめぐる夢と歌。
白秋の「糸車」はちょっと長いが、大変優れた、心地よい詩だから、厭わずに読んで欲しい。
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
その糸車やはらかにめぐる夕(ゆうべ)ぞわりなけれ。
金と赤との南瓜(たうなす)のふたつ転がる板の間に、
「共同医館」の板の間に、
ひとり坐りし留守番のその媼こそさみしけれ。
耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
微(ほの)かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに、
水路のほとり月光の斜(ななめ)に射すもしをらしや。
糸車、糸車、しづかに黙(もだ)す手の紡ぎ、
その物思(ものおもひ)やはらかにめぐる夕べぞわりなけれ。
…これはもう、詩の完成度から言ったら白秋の圧勝でしょう。ぼくはこれ大好きだ。でもよく考えると、技巧が巧みすぎるんだよね。
時を夕方に設定し、糸車を回す媼を聾盲に設定して、感覚世界を匂いと手触りだけに限定した。場所を「共同医館」にしたのはそのあとで硝子戸棚に立つ骸骨を登場させるためで、かくして「おもひで」特有の、少年の哀歓と戦慄を余すところなく表現している…あまりに戦略的過ぎると思いませんか。
夢二の「紡車」の方が素朴ですね。本歌取りをしたにしてはやや稚拙ではあるけれど。
(まだ夢二の詩のいちばん好きな作品たちにまでたどり着いていない。したがって、続く。続くが多くて面目無い。タイトルについては、次回。)
夢二の詩や短歌は、絵よりも好きだ。というか、好んで口ずさんだり暗唱したりするものがいくつかある。
…と、その前に、先日書いた(10/19)「まだ見ぬ島へ」について少し補足しておきたい。
娘は膝に肘を置いて、手で顔を覆って、つまり体を折り曲げるようにして泣いている。この姿勢が、彼女の悲しみの深さを教えてくれる。彼女は、近隣の漁村の娘で何か悲しいことがあって泣いている、のではない。故郷に母や妹を残して何年も旅をした果てに、この海辺にたどり着いたのだ。その間に、様々な苦しみを味わってきたことだろう。
娘は、「島に行きたい。そこでなら今までの自分を捨てて新しい自分になれるかもしれない」と、漠然とした希望に縋りついてここまでやってきた。ここまでくれば、遠くその島が見えるに違いない、と思ってきた。なのに、島影は見えない。だから絶望して泣いている。
涙が枯れ果てた後に、彼女はそれでも仕方なく立ち上がって、再びこの地上の生活を続けることになるだろう…ぼくはひどくセンチメンタルなことを書いているかな。でも、人間は、慟哭することってあるよね。
…それはさておき。
夢二の詩や短歌は、先行する誰かに似ていることが多い。例えば詩集「どんたく」は北原白秋の「おもひで」の亜流だと言わざるを得ない。
また例えば、ぼくの大好きな、かつ有名な、短歌二首、
さらばさらば野越え山越え旅ゆかむかなしきひとは忘れてもまし
はあまりにも若山牧水の雰囲気に近いし、
青麦の青きをわけてはるばると逢ひに来る子とおもへば哀し
は明星派的だろう。
ただし、模倣的だからといって必ずしも元の作品より劣っているわけではないし、かえって読者の心に響くものであることもある。
例えば、「どんたく」の巻頭の「歌時計」
ゆめとうつつのさかひめの
ほのかにしろき朝の床。
かたへにははのあらぬとて
歌時計(うたひどけい)のその唄が
なぜこのやうに悲しかろ。
は白秋の「おもひで」の中の「歌ひ時計」:
けふもけふとて気まぐれな、
昼の日なかにわが涙。
かけて忘れたそのころに
銀の時計も目をさます。
から直接の着想を得ていると思われるが、叙情的には夢二に軍配を上げる。冒頭の二行が夢二の方が好きだし、白秋は恋の悲しみを歌っているのに対して、夢二は母への思慕を歌っている。また、白秋は、目覚まし時計が思わぬ時に鳴る、という着想の面白さから出発しているのに対し、夢二のは朝鳴る目覚まし時計から自然に悲しみが湧いている。
資質のことは「糸車」「紡車(いとぐるま)」ではもっと顕著だ。
夢二の「紡車」:
しろくねむたき春の昼
しずかにめぐる紡車。
をうなの指をでる糸は
しろくかなしきゆめのいと
をうなの唄ふその歌は
とほくいとしきこひのうた。
たゆまずめぐる紡車
もつれてめぐる夢と歌。
白秋の「糸車」はちょっと長いが、大変優れた、心地よい詩だから、厭わずに読んで欲しい。
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
その糸車やはらかにめぐる夕(ゆうべ)ぞわりなけれ。
金と赤との南瓜(たうなす)のふたつ転がる板の間に、
「共同医館」の板の間に、
ひとり坐りし留守番のその媼こそさみしけれ。
耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
微(ほの)かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに、
水路のほとり月光の斜(ななめ)に射すもしをらしや。
糸車、糸車、しづかに黙(もだ)す手の紡ぎ、
その物思(ものおもひ)やはらかにめぐる夕べぞわりなけれ。
…これはもう、詩の完成度から言ったら白秋の圧勝でしょう。ぼくはこれ大好きだ。でもよく考えると、技巧が巧みすぎるんだよね。
時を夕方に設定し、糸車を回す媼を聾盲に設定して、感覚世界を匂いと手触りだけに限定した。場所を「共同医館」にしたのはそのあとで硝子戸棚に立つ骸骨を登場させるためで、かくして「おもひで」特有の、少年の哀歓と戦慄を余すところなく表現している…あまりに戦略的過ぎると思いませんか。
夢二の「紡車」の方が素朴ですね。本歌取りをしたにしてはやや稚拙ではあるけれど。
(まだ夢二の詩のいちばん好きな作品たちにまでたどり着いていない。したがって、続く。続くが多くて面目無い。タイトルについては、次回。)
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