(寿命の話ではありません。もとい、寿命の話です。)
宇宙のどこかにいる(かも知れない)知的生命体(地球人を含む)が、他の知的生命体との交信を試みることができるほど高度な技術文明を維持しうる期間はおよそ100年なのだそうだ。
「銀河系には少なくとも36の文明が存在する」という記事を何日か前にネットで読んだ(イギリスのノッティンガム大学の研究チームの論文に基づくのだそうだ)。ただし、記述がやや厳密でないところのある文章だった。ぼくの理解したのは、次のようなことだ。
地球人は宇宙からの知的生命体の発する電波を探知しようと試みているが、これまでのところ成功していない。だが、宇宙には知的生命体の生存しうる条件を持つ星はたくさんあると考えられる。銀河系だけで少なくとも高度な文明が36は存在する。それなのになぜ交信が成立しないか? それは高度な文明は長続きしないからだ。ある星で生命体が通信能力を持つまでには、地球と同じように50億年ぐらいかかる。しかしその能力は短期間で失われてしまう。その能力の維持できる期間が長ければ長いほど、別の知的生命体と同時に存在する可能性、したがって交信できる可能性、は高まる。
見方を変えれば、高度な文明がどれくらいの期間存続しうるか、わたしたち地球人はどれくらいの期間高度な文明を保ちうるか、は、交信が成立するかしないかで推定できる。
この研究をしている科学者たちは、その期間を100年ほどとしている…
NASAがいつごろから遠い宇宙に電波を発しているかぼくは知らない。いずれにしても、その100年のうちの一部はもう過ぎてしまっているだろう。
このごろ問題になるいろいろなことが、たとえば地球温暖化が、資源の枯渇が、海洋とそこに生きる生き物のプラスチック汚染が、テクノロジーでは解決できない心の荒廃が、格差の広がりが、今現在のパンデミックを含めて、上記のような観点から説明できるかもしれない。それは恐ろしいことだが。
昨日、バスで家に帰る途中、あとからあとから延々と続く目黒通りの渋滞の車を見ながら、ふと思った「ぼくたちはひょっとしたら、この文明が燃え尽きる前の黄昏れの輝きの中を生きているのではないか」と。
じつを言うとぼくはこの奇妙な感覚を40年以上も前から持ち続けている。自費出版の詩集「廃墟へ」も「黎明」もその感覚の中で書いている。そして今もなおそれは続いている。
ネットで読んだだけの、しかも推論の飛躍の大きい記事をもとにこれが正しいと言うつもりはない(元の論文に当たる能力はもちろんぼくにはない)。が、この記事は心のどこかで、ぼくの長年の感覚と呼応するのだ。
宇宙のどこかにいる(かも知れない)知的生命体(地球人を含む)が、他の知的生命体との交信を試みることができるほど高度な技術文明を維持しうる期間はおよそ100年なのだそうだ。
「銀河系には少なくとも36の文明が存在する」という記事を何日か前にネットで読んだ(イギリスのノッティンガム大学の研究チームの論文に基づくのだそうだ)。ただし、記述がやや厳密でないところのある文章だった。ぼくの理解したのは、次のようなことだ。
地球人は宇宙からの知的生命体の発する電波を探知しようと試みているが、これまでのところ成功していない。だが、宇宙には知的生命体の生存しうる条件を持つ星はたくさんあると考えられる。銀河系だけで少なくとも高度な文明が36は存在する。それなのになぜ交信が成立しないか? それは高度な文明は長続きしないからだ。ある星で生命体が通信能力を持つまでには、地球と同じように50億年ぐらいかかる。しかしその能力は短期間で失われてしまう。その能力の維持できる期間が長ければ長いほど、別の知的生命体と同時に存在する可能性、したがって交信できる可能性、は高まる。
見方を変えれば、高度な文明がどれくらいの期間存続しうるか、わたしたち地球人はどれくらいの期間高度な文明を保ちうるか、は、交信が成立するかしないかで推定できる。
この研究をしている科学者たちは、その期間を100年ほどとしている…
NASAがいつごろから遠い宇宙に電波を発しているかぼくは知らない。いずれにしても、その100年のうちの一部はもう過ぎてしまっているだろう。
このごろ問題になるいろいろなことが、たとえば地球温暖化が、資源の枯渇が、海洋とそこに生きる生き物のプラスチック汚染が、テクノロジーでは解決できない心の荒廃が、格差の広がりが、今現在のパンデミックを含めて、上記のような観点から説明できるかもしれない。それは恐ろしいことだが。
昨日、バスで家に帰る途中、あとからあとから延々と続く目黒通りの渋滞の車を見ながら、ふと思った「ぼくたちはひょっとしたら、この文明が燃え尽きる前の黄昏れの輝きの中を生きているのではないか」と。
じつを言うとぼくはこの奇妙な感覚を40年以上も前から持ち続けている。自費出版の詩集「廃墟へ」も「黎明」もその感覚の中で書いている。そして今もなおそれは続いている。
ネットで読んだだけの、しかも推論の飛躍の大きい記事をもとにこれが正しいと言うつもりはない(元の論文に当たる能力はもちろんぼくにはない)。が、この記事は心のどこかで、ぼくの長年の感覚と呼応するのだ。