今朝の朝日新聞で、この言葉を目にした。久しぶりに目にした気がする。東日本大震災の津波被害のあと、一時は注目の言葉だったのだが。
ぼくたちが「正常性バイアス」という言葉を意識しなくなっていること自体、正常性バイアスがかかっているのかもしれない。
「正常性バイアス」とは、危険な緊急の事態が発生したときに、それに直面した人が、「そんなことが起こるはずがない」とか、「自分は大丈夫だ」とか思いこんでしまうことによって、その事態から目を背けてしまい、普段通りのままにふるまおうとする心の働きのことだ。
(宮沢賢治は、こんな言葉は知らなかったはずだけれど、「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき/それをがいねん化することは/きちがいにならないための/生物体の一つの自衛作用だけれども/いつまでもまもつてばかりゐてはいけない」と書いた。)
大地震が起きたにもかかわらず、多くの人が、実際に津波が押し寄せてくるまで逃げようとしなかった。大川小学校の場合もそうだ。
今朝の朝日の記事の筆者は、富田林署から脱走した男が、なぜ49日も逃げることができたのか、彼に接触した人々はなぜ見抜けなかったのか、ということをこの概念を用いて説明しているのだが、なるほど、この言葉は心理学の用語だけでなく、災害の時などだけでなく、もっと広範囲に、いま起きている事柄を理解するために使えるのだ。
「正常性バイアス」は、現代のぼくたちの直面している状況を理解するキーワードになりうる。
なぜ、この国は1000兆円を超える国債を抱えているだけでなく、さらに増やそうとさえしているのか?
なぜ、地震と火山噴火の頻発する国土に原発がありうるのか? 次々に再稼働させようとするのか?
なぜ、これほどの異常気象なのに、温暖化についての警告が繰り返し発せられているのに、経済成長を目指し続けるのか?
なぜ、教員の半数以上が過労死レベルを超えて働いているのに改善されないのか?
なぜ、いじめにあって自殺する子供、虐待を受けて死ぬ子供が絶えないのか?
…まだいくらでも挙げられるだろう。なぜ?なぜ?なぜ?
それはこの国の政治家も企業も個人も、事態を正視しようとしないからだ。
ダグラス・ラミス氏の「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(平凡社ライブラリー)の言葉を借りていえば、ぼくたちは地球というタイタニック号に乗っている。そして行く手に氷山が迫っているのをすでに知っている。なのに乗組員はエンジンを止めようとしないし、乗客はダンスをしている…
ぼくたちが「正常性バイアス」という言葉を意識しなくなっていること自体、正常性バイアスがかかっているのかもしれない。
「正常性バイアス」とは、危険な緊急の事態が発生したときに、それに直面した人が、「そんなことが起こるはずがない」とか、「自分は大丈夫だ」とか思いこんでしまうことによって、その事態から目を背けてしまい、普段通りのままにふるまおうとする心の働きのことだ。
(宮沢賢治は、こんな言葉は知らなかったはずだけれど、「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき/それをがいねん化することは/きちがいにならないための/生物体の一つの自衛作用だけれども/いつまでもまもつてばかりゐてはいけない」と書いた。)
大地震が起きたにもかかわらず、多くの人が、実際に津波が押し寄せてくるまで逃げようとしなかった。大川小学校の場合もそうだ。
今朝の朝日の記事の筆者は、富田林署から脱走した男が、なぜ49日も逃げることができたのか、彼に接触した人々はなぜ見抜けなかったのか、ということをこの概念を用いて説明しているのだが、なるほど、この言葉は心理学の用語だけでなく、災害の時などだけでなく、もっと広範囲に、いま起きている事柄を理解するために使えるのだ。
「正常性バイアス」は、現代のぼくたちの直面している状況を理解するキーワードになりうる。
なぜ、この国は1000兆円を超える国債を抱えているだけでなく、さらに増やそうとさえしているのか?
なぜ、地震と火山噴火の頻発する国土に原発がありうるのか? 次々に再稼働させようとするのか?
なぜ、これほどの異常気象なのに、温暖化についての警告が繰り返し発せられているのに、経済成長を目指し続けるのか?
なぜ、教員の半数以上が過労死レベルを超えて働いているのに改善されないのか?
なぜ、いじめにあって自殺する子供、虐待を受けて死ぬ子供が絶えないのか?
…まだいくらでも挙げられるだろう。なぜ?なぜ?なぜ?
それはこの国の政治家も企業も個人も、事態を正視しようとしないからだ。
ダグラス・ラミス氏の「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(平凡社ライブラリー)の言葉を借りていえば、ぼくたちは地球というタイタニック号に乗っている。そして行く手に氷山が迫っているのをすでに知っている。なのに乗組員はエンジンを止めようとしないし、乗客はダンスをしている…