すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

望郷の歌

2018-04-15 22:51:09 | 音楽の楽しみー歌
 アメリカには、望郷の歌の心に沁みる良い歌が多い。「旅愁」、「故郷の人々」、「懐かしきケンタッキーの我が家」、などのほかにも、「我が心のジョージア」、「懐かしきヴァージニア」、「峠の我が家」、「霧のサンフランシスコ」、などなど、思いつくだけでもいっぱいある。ここで一つ一つに言及することはしないが、ひとつだけ、「谷間の灯」については、触れておきたい。
 「思い出のグリーングラス」は死刑囚が主人公の歌だ、と書いたが、「谷間の灯」も、罪びとの歌だ。
 日本語歌詞はまことに美しい、故郷を思い、母を思慕する歌だが、そして英語の原詞も1番を聴く限りはやはり同じだが、2番3番で別の面が明らかになる。
 (ぼくはこの歌を原語で通して歌う計画が当面ないので、原語詞とその直訳の全文を載せるのはやめておく。)
 2番では、「母はぼくが会いに帰って来るよう祈っているが、ぼくは決してそうできない」と歌った後、
I’ve sinned ‘gainst my home and my loved ones. And now I must evermore roam.
つまり、「ぼくは故郷と愛する人々に対して罪を犯した。だからいつまでもさまよい続けなければならない」と歌う。
 “sin”は道徳的罪だから、これだけなら、単に故郷を捨てたことに対する罪悪感、とも取れるのだが、さらに3番では、
She(母) knows not the crime I have done. … I’ll meet her, up in Heaven when life’s race is run. と、“crime”「犯罪」の語が使われている。「母はぼくの犯した犯罪を知らない。… ぼくは命が尽きたら天国で母に会えるだろう」となっている。
 かなり重大な犯罪なのだろうか。
 ただ、この歌詞は「グリーングラス」の場合と違い(あちらにも牧師は出てくるが)、宗教的な色合いが強い気がする。
 そして、故郷のお母さんは、「ぼく」がどんな罪を犯したかまでは知らないが、「何らかの罪を犯したから帰れないのだ」ということは知っており、もしくは、感じており、彼女の祈りはただ単に「息子が帰って来ますように」というだけではなく、神様に向かって「願わくばあの子の罪が許されて、もしくは、あの子が罪の償いを終えて、生きて故郷に帰ってきますように」ということではないか、と思う。
 そこまで書かれてはいないから、根拠はないが。
 まあ、そこまで考えなくても、流布している日本語の歌詞だけでも、マザコンのぼくとしては大好きだけどね。
 次回は、日本の望郷の歌に触れてみたい。
 …ところで、ぼくはこれを書くのが実は時間的、体力的にかなりしんどいことが分かったので、今後、週に3回ぐらいのペースに落とすつもりでいる。音楽や読書優先ということで。
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ふたたび訳詩について

2018-04-13 14:22:09 | 音楽の楽しみー歌
 ぼくはこの歳になるまできちんとものを考える訓練や習慣を身につけてこなかったから、おおざっぱな感覚的な考えしかできない。今後10年、もっぱら時間をそのことに使ってそういう努力をすれば、もう少しましにはなるだろう。本当は、資質としては音楽よりもそっちの方に向いているかもしれない。でも音楽もやりたいし、音楽を通して少しは人とつながりたいし(そうでなければ、引きこもり老人になってしまう)、残念ながら、今生はこのままズルズル考えてズルズル書くスタイルで行くしかないのだろう。

 …さて、山之内さんから、「思い出のグリーングラスの3コーラス目の訳詩を試みてみたら」と言われた。これはやろうと思わないし、試みても成功しないだろう。
 最初から日本語で詩を書くのならまだしも(若い頃、自費出版の詩集を出したことがある)、ぼくには音符に言葉を合わせて行く才能はない。数日前に書いた、音韻上の困難を乗り越える力量もない。
 これは、やる前から断念しているわけではなく、シャンソンの歌詞の訳をしてみようとしたことはある。
 全然、気に入るものはできなかった。
 まず、どうしても原曲の内容の豊かさに負けてしまう。その豊かさを生かすすべが見つからない。単なる甘い恋の歌にさえならない(もともと、そういうものを書く気もないが)。
 訳詩には、作詞とは違う才能が必要だ。そして、音韻上の困難をクリアして、原曲の内容をきちんと伝えるためには、作詞以上の才能が必要と思う。
 このことをわかっていない人が多い。「ぴったりの訳詩が見つからないので、自分で訳してみました」と言って歌われる歌詞の大部分は、言っちゃあ悪いが、既存の訳にさえ遠く及ばないものだ。
 広く流布している訳詩は、日本流の甘っちょろい歌になってしまっているとはいえ、一応プロが書いていますからねえ。シロウト(ぼくもそのうちの一人である)が、原曲の内容を大切にして、しかも既存の歌詞の完成度のレベルを超える、というのは至難の業だ。
 もともと、歌というものは、ほとんどの場合が、原曲が書かれた時の言葉と音楽の組み合わせが一番幸せな結びつきなのだ。だから、原語でわかる人たちに向かって、言語で歌うのが一番良い。ただし、この場合ネイティブの歌い手を超えることはできない。聴き手が日本人ならば、最初から日本語で作詞された曲を歌うのが一番いい。
 でなければ、やむを得ないから、日本語で説明を交えながら原語で歌うか、あるいは、元の歌とは違うものとしてアクセプトして訳詩を歌うことにするか。
 あるいは、すでに日本語で歌われる歌として長い間愛唱されているものを、原曲の歌詞の豊かさにこだわらず、日本の感性の歌として歌うか。
 「カチューシャ」も「ともしび」も、ここに入るだろうか。
 そういう意味では、「旅愁」も「谷間のともしび」も「ローレライ」も「秋の夜半」も…完成度の高い、日本人の心性にかなった歌はいっぱいある。
 そして、ここには、口語と文語の結晶力の違いという問題もある。それは別に書く機会があると思うが。

 最後に、訳詞の話ではなく、日本語で書かれた作品でぼくが最高傑作と思うものを挙げておきたい。
 作詞:北原白秋、作曲:山田耕作の、「からたちの花」。
 この、ため息の出るような、うっとりと夢見るような、涙が出るような、やさしく美しい曲、これを超える作品はいまだ無い。

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ

からたちのとげはいたいよ
青い青い針のとげだよ

からたちは畑(はた)の垣根よ
いつもいつもとおる道だよ

からたちも秋はみのるよ
まろいまろい金のたまだよ

からたちのそばで泣いたよ
みんなみんなやさしかつたよ

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
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訳詞について

2018-04-11 22:51:51 | 音楽の楽しみー歌
 ロシアの歌のスペシャリストである山之内重美さんから、Facebook にコメントをいただいた(ありがとうございます)。そのコメントをまず紹介させていただいて、それから少し訳詩について考えてみたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(山之内さんのコメント)外国の歌を紹介する時、日本では苦いところを削り取り、口当たりの良い「甘くさわやか」路線で日本語訳詞をつける傾向が昔からありましたね。うたごえ喫茶で歌われたロシアの歌の大半もそう。実はドイツとの激戦中の今生の別れを歌った「ともしび」(1942年)も、日本軍が外モンゴル国境を越えてソ連に侵攻してくることへの警戒を背景とする「カチューシャ」(1938年)も、いつの時代とも知れない単なるラブソングにしてしまい、<民謡>なんていうまやかしで歌い続けているので、それを正すのが一苦労です(淚)。「思い出のグリーングラス」3コーラス目の訳詞を、悟さん試みてほしいなぁ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ともしび」についても、「カチューシャ」についても、全くその通りだと思う。日本で歌われているのは、「ともしび」の方はまだしも、出征する兵士が(これから彼が体験するであろう修羅場とかけ離れたロマンチックな形で)登場するが、「カチューシャ」のほうは、前線の兵士とは全く関係ない甘いラブソングだ。
 そして日本ではその甘いロマンチックが受けたのだ。
 「外国の歌を紹介する時、日本では苦いところを削り取り、口当たりの良い「甘くさわやか」路線で日本語訳詞をつける傾向が昔からありました」これもその通りだと思う。
 なぜ、日本ではそうなってしまうのだろうか?
 これは、ひとつには日本語の音韻の特殊性によるものだと思う。
 その点について先に触れておきたい。
 ご存知の通り、日本語の発音の単位は、普通、1音節=1子音字+1母音字だ。母音の前や後ろに時にはいくつもの子音字がついて1つの音節を構成する西欧語とおおいに違う、簡単な構造だ。
 (音節の構造は、一般的に言って、気候温暖な南方の地域ほど単純になり、寒気の厳しい北方の地域ほど複雑になる。ドイツ語、英語、ロシア語に比べフランス語は母音中心でシンプルだし、イタリア語はもっとシンプルだ。ハワイ語やスワヒリ語は、さらにシンプルだ。スワヒリ語は日本語と同様、1音節=1子音字+1母音字 なので、五・七・五の俳句が作れる。このことは、日本語の南方起源説を有利にしている。仮説ではあるが。)
 ここで、歌の歌詞にとって重大なのは、日本語と西欧語では一つの音符に載せることのできる意味の量がまるで違う、ということだ。外国語を知っている人がその外国語の歌を日本語で歌おうとすると、まず当惑するのが、この、意味の量の壁だ。原曲の歌詞が言っていることの何分の一しか、日本語では言うことができない。
 「ラ・ボエーム」を例にとると、Montmartre は、つぎに来る前置詞 en と結びついても3音節だが、日本語で モンマルトル は6音節を要してしまう。
 また、歌いだしの Je vous parle d’un temps que les moins de vingt ans ne peuvent pas connaître(ぼくはきみに、二十歳未満には知ることのできないある時代の話をしよう)は、「モンマルトルのアパルトマンの」で終わってしまう。
(途中だが、今日はちょっと老人性の疲労がたまっているので、続きは明日書く。)
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故郷の緑の草

2018-04-09 22:53:49 | 音楽の楽しみー歌
 ぼくのバンドでの演奏の2曲目は、日本の題名で言うと「思い出のグリーングラス」にしようと思っている。
 これも望郷の歌、ただし非常に特殊な状況での、まことに切ない望郷の歌だ。
 先にぼくの直訳を書いてみるから、ご存じない方はどう特殊なのかを推測してみて欲しい。

故郷の緑の草

列車から降りて見る 故郷の町は
何も変わっていないようだ
ホームで迎えくれるのは ママとパパだ
道のむこうを見ると メアリーが駆けてくる
金の髪と サクランボの唇の
故郷の緑の草に触れるのは 最高だ
 そう みんなぼくを迎えに来てくれる
 手をさしのべて やさしく微笑んで
 故郷の緑の草に触れるのは 最高だ

古い我が家は まだ立っている
ペンキは剥げ ひび割れているが
子供の頃に登って遊んだ あの古い樫の木もまだある
小径に沿って ぼくは愛しいメアリーと歩く
金の髪と サクランボの唇の
故郷の緑の草に触れるのは 最高だ

…それから僕は目覚めて あたりを見回す
灰色の壁に囲まれて
そして気付く ただ夢を見ていただけなんだと
看守と 年取った悲しげな牧師がいるのだから
夜が明けたら 彼らに腕を取られて ぼくは歩くのだ
もう一度 故郷の緑の草に触れるために
 そう みんなぼくに会いに来てくれる
 古い樫の木の根方に ぼくが横たえられるときに 
 故郷の緑の草の下に

 ぼくのつたない訳でもお判りいただけるだろうか?
 死刑囚が、夜明けには執行という前の晩、故郷に帰る夢を見た、というシチュエーションの歌だ。
 アメリカのカントリー歌手のポーター・ワゴナーという人が創唱して、でもアメリカではあまり流行らなかったようで、イギリス人のトム・ジョーンズがカヴァーしてイギリスで大ヒットした。その後いろんな人がカヴァーしている。You Tubeではエルヴィスやジョーン・バエズのものが聴ける。どれもそれぞれ素晴らしい。
 一番・二番は思いきり明るく、喜びに満ちて歌い、三番でがらりとトーンを変えて悲しみにあふれて歌わなければならないのが、難しいところだ。トム・ジョーンズは三番の前半を語りにしているが、ぼくはここは、この感情の落差を歌って表現してみたいものだと思う。

 日本では森山良子が歌ってけっこう良く知られているが、彼女の歌は、肝心の三番に相当する部分が全くない。だからただの能天気に明るい帰郷の歌になってしまっている(故郷に帰りついたら、望郷の歌ではない)。これはどうしたことだろう? 日本では死刑囚の歌は流行らない、と判断したのだろうか? まことに残念なことだ。

Green Green Grass Of Home

The old hometown looks the same
As I step down from the train
And there to meet me is my Mama and Papa
And down the road I look and there runs Mary
Hair of gold and lips like cherries
It’s good to touch the green green grass of home.
 Yes they’ll all come to meet me
 Arms a reaching, smiling sweetly
 It’s good to touch the green green grass of home.

The old house is still standing
Tho’ the paint is cracked and dry
And there’s that old oak tree that I used to play on
Down the lane I walk with my sweet Mary
Hair of gold and lips like cherries
It’s good to touch the green green grass of home.

Then I awake and look around me
At the grey walls that surround me
And I realize that I was only dreaming
For there’s a guard and there’s a sad old padre
Arm in arm we’ll walk at daybreak
Again I’ll touch the green green grass of home.
 Yes, they’ll all come to see me
 In the shade of that old oak tree
 As they lay me ‘neath the green green grass of home.
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故郷につづく道

2018-04-08 21:14:35 | 音楽の楽しみー歌
 ジョン・デンバーの「故郷に帰りたい」の練習を始めた。
 ぼくの、バンドでの演奏の一曲目はこれになるのではないかと思う(先日書いた、発表会の話です)。
 のびやかに歌い上げることのできる、たいへん気持ちの良い曲だ。メロディーもシンプルだし、コードも比較的やさしい。
 望郷の歌だが、北米大陸は広いので、アメリカには望郷の歌がいっぱいある。内容は深刻なものもあるが、そういうものでも気持ちよく歌えるのが多い。
 愛唱歌でおなじみの、「谷間のともしび」も「旅愁」も「なつかしきケンタッキーの我が家」も「故郷の人々」も。どれも好きだ。
 「故郷に帰りたい」は比較的新しく、また、望郷の歌の中でも代表的な一曲だと思う。
 ぼくは英語の訳はふだんはしないのだが、これはちょっと訳してみる(直訳なので、これでは歌えません)。

故郷へ連れて行け 田舎の道よ

天国のような ウエスト・ヴァージニア
ブルーリッジ山脈 シェナンドー川
生命は太古から 樹々よりも古く
山よりは若く そよ風のように育ってきた

*田舎の道よ ぼくを故郷へ連れていけ
 ぼくの属する場所へ
 ウエスト・ヴァージニア 母なる山
 故郷へ連れて行け 田舎の道よ

思い出すのはすべて ウエスト・ヴァージニアのことばかり
抗夫達の思い人(ウエスト・ヴァージニア) 海を知らない彼女
暗く埃っぽい空に 涙にかすんで浮かぶ
月の光の 不思議な味わい 

*繰り返し

夜明けに彼女(ウエスト・ヴァージニア)は ラジオから僕を呼ぶ
その声は思い出させる 遥か遠くの故郷を
車で走りながら ぼくは感じる
昨日には 故郷に帰っていればよかったと 昨日には

田舎の道よ ぼくを故郷へ連れて行け
ぼくの属する場所へ
ウエスト・ヴァージニア 母なる山
故郷へ連れて行け 田舎の道よ
故郷へ連れて行け 田舎の道よ
故郷へ連れて行け 田舎の道よ

Take Me Home Country Roads

Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge mountains, Shenandoah river
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountains, growin’ like a breeze

*Country roads, take me home
 To the place, I belong
 West Virginia, mountain mama
 Take me home, country roads

All my memories, gather ‘round her
Miner’s lady, stranger to blue water
Dark and dusty, painted on the sky
Misty taste of moonshine, teardrop in my eye

* Repeat

I hear her voice, in the mornin’ hour she calls me
The radio reminds me of my home far away
Drivin’ down the road I get a feelin’
That I should have been home yesterday, yesterday

Country roads, take me home
To the place, I belong
West Virginia, mountain mama
Take me home, country roads
Take me home, country roads
Take me home, country roads
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常盤台長寿会

2018-03-16 20:29:56 | 音楽の楽しみー歌
 震災の直前まで住んでいた保土谷の常盤台に行ってきた。老人クラブの皆さんと、ぼくのフラット・マンドリンの弾き語りで一緒に歌うためだ。年に5回、1,3,5,7,9月に行くことになっているが、1月は肺炎にかかってしまって行けなかった。だから半年ぶりだ。
 半年もたつと、残念ながら少し人数が減っている。目黒区でもそうだが、60歳以上は参加資格があるのだが、“若い人”はなかなか参加してくれないようだ。
 ぼくの方も、この半年の間には、歩いていてコケたり、肺炎になったり、仕事をやめたり、いろいろ変化があった。でもそんな話でも、久しぶりに顔を合わせて話せばうれしい。
 今日は少し雨模様で昨日よりはだいぶ気温も下がったが、春なのでなるべく春の歌を、リクエストに沿って、春の唄、北国の春、旅の夜風、高校三年生、蘇州夜曲、丘を越えて、いつでも夢を、などをみんなで歌った。最後に、「群青」をソロで歌わせてもらった。
 今日は主にナツメロ歌謡曲だったが、外国の叙情歌だったり、童謡・唱歌だったり、フォークだったりもする。
 帰り際に、年代物の高級ウイスキーをいただいた。
 デュモンをやめるときに、「歌をやめてしまうの?」と幾度か訊かれたが、そういうわけでもない。ただ、ぼくは一人でスポットライトの下に立って歌うより、みんなで歌う方が好きなのだ。その方が楽しい。
 これから目黒の方でも老人会で弾き語りの会をするつもりだし、ボランティア協議会にも登録しなおすつもりだ。以前ドムラの弾き語りで登録していたのだが、腰を痛めてしまったので止めたのだ。そのほかにも…いや、まだやっていないことを書くのは止そう。
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「なつかしき愛の歌」(続)

2018-03-07 13:13:26 | 音楽の楽しみー歌
 「なつかしき愛の歌」の原題は、Love’s Old Sweet Song です。
 愛の歌、というとぼくたちは Song of love 、すなわち、恋する気持ちを誰かが誰かに向かって歌ったもの、というふうに思ってしまいますが、この歌の場合は違います。歌うのは人間ではなく、愛自身です。愛は人格ではないから歌なんか歌わない、ということなら、人間の心のなかの愛の思いが、自然に歌という形で流れ出たもの、と思ってもいいでしょう。
 この違いはかなり大事なものと思います。世の中には Song of love が溢れすぎているように思うから。
 だからこの歌には、なつかしき、といういささか古風な訳語がしっくりきます。
(シャンソンに「懐かしき恋人の歌」というのがありますが、あちらは、なぜ、懐かしい、ではないのか、そもそもなぜ、あの男と女の葛藤の関係が、懐かしい、という言葉で表現されるのか理解に苦しみます。あちらの原題は、La chanson des vieux amants つまり、長年来の恋人同士の歌、です。)
 ここで、「なつかしき愛の歌」の原詩(全部書くのはしんどいから、前半のみ)と、通常日本で歌われている近藤玲二訳の歌詞を引用しておきます。これも良い詞です。

Once in the dear dead days beyond recall,
When on the world the mists began to fall,
Out of the dreams that rose in happy throng,
Low to our hearts love sang an old sweet song.
And in the dusk where fell the fire-light gleam,
Softly it wove itself into our dream.

Just a song at twilight,
When the lights are low,
And the flick’ring shadows,
Softly come and go,
Tho’the heart be weary,
Sad the day and long,
Still to us at twilight comes love’s old song,
Comes love’s old sweet song.

たそがれのともしびは
いとしくもほのぼのと
薄れゆく思い出に
愛の光をともす
憧れの輝きを
過ぎしあの日のままに

今宵もまた若き日の
夢を秘めてたそがれは
麗しくもなつかしき
愛の調べとなりて
帰りくる

たそがれの調べこそ
やさしくもはるばると
わが悩みつかれたる
この心をなぐさむ
とわに忘れじの
懐かしき愛の歌

(第2節繰り返し)
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「なつかしき愛の歌」

2018-03-06 22:21:08 | 音楽の楽しみー歌
 フラット・マンドリンを弾きながら、部屋で歌をうたっている。ステージでライトを浴びながらお客様に聴いていただく歌ではないので、同じ曲を何度も何度も毎日練習、というのではなくて、昨日はフォークソング、一昨日は懐メロ歌謡曲…というような感じで気楽に歌っている。これがすごく楽しい。2時間ぐらいはすぐ経ってしまう。
 今日は、イギリス・アメリカ民謡を歌っていた。よく知られている、愛唱歌という類いの歌だ。ゆったりとした、メロディーの美しい、詩の心に沁みる歌の数々。
 例えば、中でもぼくの大好きな歌のひとつに、「なつかしき愛の歌」がある。1800年代後半に、アイルランド生まれのジェームス・モロイが作曲したもので、アイルランド移民がアメリカに伝え、西部開拓時代に大ヒットした曲だという。
 「大草原の小さな家」というTVドラマで日本でも知られているローラ・インガルス・ワイルダーの、ドラマの原作の中で(ドラマの中にそのシーンがあるかどうかは、見ていないのでわからない)、主人公のローラが成長して結婚して家を出る前の晩、一家の最後の団欒の時にお父さんに「ヴァイオリンを弾いて。知っているなつかしい歌を全部」と頼み、お父さんが数々の曲の中で最後に弾き語りしてくれるのがこの曲だ。
 ぼくには英語の歌は訳せないから、谷口由美子さんの岩波少年文庫の訳を引用させていただく。

 …それから、ヴァイオリンの音がいっそうやさしくあまくなり、とうさんの深い低い声が重なりあった。

 思い出のむこうのなつかしい日々
 あたりにかすみがぼうっとかかり
 夢の中からあたたかくわきあがる
 心にしみいる 古きやさしき愛の歌
 そして 灯火(ともしび)が光を投げるたそがれどき
 愛の歌は夢の中へと紡がれた

 たそがれの歌 明かりが落ちて
 ちらちらと影がやさしくゆれ動く
 胸の中は 日がな一日つらくても
 たそがれがくれば 歌がある
 古きやさしき愛の歌

 今日もまた 昔の愛の歌が聞こえてくる
 心にじんときて 思いがあふれてこぼれでる
 足どり重く とぼとぼ道をたどっていく
 でも 日が沈めばまた聞こえてくる
 薄暗い影が落ちて人生がおわるまで
 愛こそが なによりいちばんやさしい歌

 美しいメロディーをお伝え出来ないのが残念です。YouTubeで聴いてみてください。第一節と第三節は4拍子で、第二節は三拍子でいっそうゆっくりと歌われ、最後に第四節として繰り返されます。
 
(「大草原の小さな家」のシリーズは、前半の5冊は福音館文庫で、後半の5冊は岩波少年文庫で出版されています。)
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枕辺の音楽(続き)

2017-07-14 21:55:26 | 音楽の楽しみー歌
 …と言っても、かなりしばしば、人の声を聴きながら眠りに入りたい時がある。そんな時は、言うまでもなく、やさしい女性の声が良い。
 そんな時に聴くものが、二つある。
 一つは、ソプラノの波多野睦美がイギリス古謡を歌った「サリー・ガーデン」だ。主にリュートとリコーダーの伴奏で歌われていて、「グリーンスリーヴス(ズ?)」や「スカボロー・フェア」や「流れは広く(広き河の岸で)」など、日本でも幅広く知られた曲が入っているが、中でもぼくのお気に入りは、タイトルにもなっている「サリー・ガーデン」と、スコットランド民謡の「美しきドーンの岸辺」だ。
 子供の頃、母や叔母がよく歌ってくれていたので、イギリス民謡はまことに懐かしい気がする。もっとも、それは「アニー・ローリー」や「埴生の宿」や「庭の千草」などで、それ自体はこのCDには入っていないのだが、たぶんメロディーとか音階に共通するものがあるのだろう。例えば、五音音階でできている、とか。
 波多野睦美の声はたいへん美しいく柔らかく心地良いのだが、ソプラノなので時に強く、よほど音量を絞らないと、眠りに着こうとする意識を引き戻されてしまうことがある。むしろ、昼間に音量を絞らないで聴く方がさらに良いかもしれない。

 もう一つは、シャンソン・カンツオーネの桜井ハルコさんのCD「モア・メーム」だ(フランス語で“私自身”という意味だ)。
 彼女は今年初めて「パリ祭」に出演した新進歌手で、これが初CDだ。
 これは、最初の「アラビア」から最後の「人魚の涙」まで、比較的短いアルバムなのだが、ほんとにもう、天使の歌声だ。波多野さんと同じく大変美しく柔らかく心地良く、ポップスの声なので、強いところも柔らかく強く、子守唄を聴いているように眠りに誘われる。
 こういう歌声を聴きながら眠りについて、そのまま死んでしまったらどんなに良いだろうかと思ってしまう。
 そういう意味でも、「鏡の向こう側」は特に好きだ。そこまで行かないで眠ってしまうことがしばしばだが。
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