百日紅と玉音放送
終戦という日が今年も近づいてきた。
このピンクの花(さるすべり)が、何処に咲いていても
母の涙を強烈にイメージする。
我が家は、祖母、母、子供3人でラジオなど無かった。
朝から何やらざわめいていた。
天皇陛下のお言葉があるというので、裏の家に三々五々集まって聴いた。
炎天下ジリジリと照りつける暑いお昼ごろだった。
母親が涙をつるして帰ってきた。
≪日本は負けた≫と・・・ただ一言。
近くには、赤いサルスベリの花が咲いていた。
仕事場から見える百日紅(サルスベリ)の花
☆ 百日紅 玉音の声 母なみだ (縄)
皆さんの終戦にまつわるお話が聞けたら・・・と。
昭和20年8月15日、丁度10歳の時満州から今の北朝鮮のピョンヤンへ疎開してました。
ソ連が参戦して来ると言う事で、軍属だった親父を残して家族が疎開させられた。
その後日本へ引き揚げるまでが苦労の連続です。
妹と弟二人を亡くしました。
今二人はピョンヤンで眠ってます。
終戦後は命からがら日本へ引き揚げてきた。
その後親父も無事日本へ帰って来た。
こうして皆さんと交流できるのも生きて帰れた結果です。
毎年思い出すのは生きている事の幸せです。
戦争という痛ましい出来事は、肉親を引き裂き、悲しい出来事を作り出した。
聞くも涙話すも涙です。
このような人生の遍歴をつづるのは、勇気が要りますが、綴りお聞かせさせてもらいありがとう御座います。
人にはそれぞれドラマが有るものです。
妹さん、弟さんが他国で眠っておられる、親にしてみればこんなに悲しいことは、有りません・・・ね。
私は、秩父の山中にて終戦、
しかし親を幼くしてなくして亡くしましたから、母親は苦労しました。
お互いに、有意義な余生(余生=あまり好きな語彙では有りません)をおくりましょう。
唱和21年3月生まれです。。 私の両親はきっとおなかの中の私によかったね と言ったと思います。。
私の同級生は 幸子さん 和子さん が多いです。平和と言う名の男子もいました。。
毎年 終戦の日には 生まれてこられなかった同い年の子のために黙とうします。。
私は たまたま生まれてくることができました。。
先日 徹子の部屋 にペギー葉山さんが出演されました。
感情を抑え話される言葉に説得力がありました。
小学校5年生だったそうです。
当時の日記帳を持っていらっしゃいました。。
その年の12月31日の日記には
明日は着物を着ることができる その喜びが短い言葉にあふれていました。。
上のコメントの とくさん様 どうかお身体に気をつけ ご兄弟の分まで長生きなさって下さいね。
生まれていなかったですか・・・・。
きっと両親は終戦という辛酸をなめて生活に一心に励んだことでしょう。皆さんそうでした。
名前を見ると時代がわかる・・・そんな気がします。昭七、昭吾、正子、清子などなどモモママさんが仰るとおりです。
また生めや増やせで余分児、末子、多々男・・・なども有りました。12人いた兄弟もいました。
我が家は母子家庭でしたからいつも、男の人が畑仕事に励んでいるの見てうらやましくおもいました。
この時代に暮らして、平和で落ち着いて生活できるということが如何に大切であるか、身にしみます。
徹子の部屋をみていますか。
Y夫も欠かさずみています。長い長寿番組ですね。
ありがとう御座いました。
でも玉音放送は遊びに行っていた自転車屋の庭先で聞きました。
親父さんが「今から重大な放送がある、正座して聞け」と真顔で子どもたちに言いました。
正直言って小学2年生だったどんこには
内容は理解できませんでしたが
「戦争に負けた」と後で聞かされ、ぽかんとなってしまった記憶だけは良く覚えています。
百日紅の花はどんこの庭のものと全く同じです。
Tさんの家は土橋を渡ると裏にあった。
母親だけが重大ニュースを聴きに行った。暑い暑い夏日、とうもろこしが我が家の地続きに黒い毛をたらして実っていた。今と違い茎がとても大きかった。
母親が下を向いて、悲しそうに帰ってきた。
玉音放送という言葉、天皇陛下のお言葉などどういうことか全く理解できなかった。
それから数日して、『子や女の子狩り』が有ると言う風評がもっぱらデした。
どんこさんと同じj年代、戦争の惨めさ・・・は、後々になって理解力が発達し現実を見たとき徐々に知り得たことでした。
玉音放送があったことも戦争が終わったことも何も知らなかったように思います。
その後、父が迎えにきたことだけを覚えています。
父の葬式も雪!私の生まれた日も雪が舞っていた!と聞きました。
終戦の時には5ヶ月ですから、何の記憶もありませんが・・・
近衛兵だった父が満期除隊して母と結婚し、母のお腹に私を宿した頃出生して戦死です。
玉音放送の事は何も知りません。
その年の秋に吉井川が氾濫して堤防が決壊して、我が家も床上1.5mぐらいまで浸かって・・・お米も取れず、何もかも無くして・・・よく育ったと感心しています。
今日「玉音放送」のこと、職場で3時の休みの話題に提案しました。皆さん興味をもち体験談を話し合いました。
Aさん(77歳)
群馬に集団疎開をしていた。朝、先生がお昼に集まり天皇陛下の話が有るからと教えられた。「玉音放送」でした。
内容は全く分からなかったが、戦争で日本は負けたといった。
それから間もなくして東京から親が迎えにきました。
Bさん(70歳)
親父は消防団に居た。B29が東京の爆撃をした後、ばくだんを捨てていく帰り、葛飾周辺に70~100ヶ所ぐらい落とされた。それが足の左に当たり切断、あちこちの病院に運ばれたが、当時の病院では手当のカイもなく亡くなった。
Cさん(68歳)
まだ物心が付いていないので解らない。
東京下町(深川・本所周辺)が火災で燃え上がって赤くなったことが、心の隅にあります、とのことでした。
☆ それぞれが ソレゾレに想う 終戦忌
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横浜おーちゃん
戦争の惨めさ、悲劇、家族が踏みにじられた生活。いまこうして皆さんの貴重な体験意見をお聴きおもいました。疎開だったですか・・・・・・。
ありがとう御座いました。
トンちゃん
尊い命が生まれてくることも知らずに戦場に散る。悲しいことです。
近衛連隊の隊舎⇒ハイ良くしっています。今は北の丸公園となり開放。武道館も建っています。
お母さんは、本当に苦労なされました。
貴重な体験のお話ありがとう御座います。
でも両親は引揚者 兄は中国で生まれ 私は日本
海外での終戦を迎えた時はたいへんだったようです。
父はなくなり母もその時の記憶は薄れています。
玉音放送を何処で聞いた?
と尋ねてもしっかり答えられるだろうか・・・・