座間コミニティー

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◆エリヤを通して言われた主のことばのとおり、

2015年02月28日 17時28分57秒 | 聖書

かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王一七・一六)

神の愛の真実を見よ。この婦人は日ごとの糧を得た。彼女は飢きんの時、自分自身と子どもを養わなければならなかった。そのうえ預言者エリヤが加わったのである。こうして必要は三倍になった。しかし食物はなくならなかった。絶えず供給があったからである。彼女は、毎日粉を入れるかめを見た。そこには、いつでも同じ量の粉が残っていた。
愛する友よ。あなたには日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないかと心配してはならない。神のみことばである聖書によれば、そんなことは決してないとある。日々、さまざまな困難とともに助けが与えられる。あなたがメトシェラよりも長く生き、あなたの必要が浜辺の砂よりも多くても、神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。あなたは決して欠乏を覚えることはない。
このやもめの時代には、三年もの間空には一片の雲もなく、天の星は、よこしまなこの地上に一滴のきよい涙も注がなかった。飢きんと荒廃と死が、この世を寂しい荒野と変えた。しかしこの婦人は、決して飢えることなく、豊かな供給を絶えず喜んでいた。
あなたも同じである。あなたは罪人の望みがむなしくなるのを見るであろう。罪人は自分の生来の力に頼っているからである。あなたは高慢なパリサイ人の確信の揺らぐのを見るであろう。パリサイ人がその望みを砂の上に置いているからである。あなたは、あなた自身の計画すら損なわれ、しおれてしまうのを見るであろう。しかし、あなた自身は堅い岩のとりでに囲まれ、守られていることを見いだすであろう。
「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」イングランド銀行を所有するよりも、神をあなたの導き手としてもつほうが、はるかによい。あなたは、インドの富を使い尽くすことができるかもしれない。しかし、神の無限の富を用い尽くすことは、決してできない。

 


「しかし、

2015年02月28日 17時28分05秒 | 聖書

人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(Ⅱコリント3:16)

神がよくわからない、何かが足らない、満ちていない。
神を信じているはずなのに、心は虚しい。
もう一つ喜びがない。
心に「おおい」がかかっていると、神がよく見えない。
何か心に薄い幕がかかっていて、神と自分の間をさえぎっているように感じる。
「主に向く」時、おおいが取り除かれる。
「おおい」とは何だろう。エバが蛇の誘惑を受けた時、神を捨て、自分が神となり、自分の力と判断と知恵で生きて行く事を選んだ。
神中心でなく、その「自己中心」がおおいとなって、神が見えない。
自分のために、自分の力で、思い通りに生きて行こうとする時、途端に神が見えなくなる。
又、状況や目に見える所だけを見ている時、見える所がおおいとなって、神が見えない。
主を見るためにも、自らの心のおおいを知るためにも、御霊の助けが必要だ。
自分では出来ない。まず、主に向けるよう、御霊の助けを祈ろう。
御霊は妨げているものを明らかにし、示して下さる。
自分自身が心の王座に座り、自己中心が神を見えなくしているのか、状況に飲み込まれて、神が見えないのか。
あなたも、おおいがかかっているように感じるなら、まず御霊にその事を祈ろう。
主に従おうと思っているその心に、必ず明らかにして下さる。
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自分の内にある御霊の導きに敏感でいよう。
それに勝る思いが妨げとなり、日々の信仰生活をすぐに喜びのない、力ないものにしてしまう。
新しい一日を感謝し、明日も主を仰いで歩もう。


今日の聖人の記念日

2015年02月28日 07時04分06秒 | キリスト教

 聖レミジオ司教

437年-535年ごろ

 レミジオは、フランス、ランスの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。ランスで教育を受け、豊かな学識と優れた人格の持ち主であったレミジオは、多くの人々から慕われ、458年にわずか21歳で司教に選ばれた。自分には厳しく人々には慈悲深く、当時ガリア地方に広まっていた異端アリウス派と戰い正当信仰を擁護し、多くの人々を信仰に導いた。

 フランク王国クロヴィスもその1人であり、熱心なカトリック信徒であった妻のクロティルジス皇后(6月3日 参照)の影響もあって496年にレミジオから洗礼を受けた。王はレミジオの指導を受けながら、熱心に信仰を守り国を治め教会や修道院の建設を援助した。

 その後、レミジオは教皇使節として宣教に力を尽くし、生涯を神と人々のためにささげた。「フランク人の使徒」と呼ばれている。


◆目 を さ ま せ

2015年02月28日 07時03分00秒 | 聖書

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)

いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。

 


◆私の望みは神から来るからだ。

2015年02月28日 07時02分11秒 | 聖書

(詩篇六二・五)

このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。

 


第1列王記21章20-26節

2015年02月28日 07時00分58秒 | 聖書

21:21 「今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、
21:22 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。」


 エリヤを通して、主はその裁きをアハブにもたらすと告げました。

その裁きは徹底的で、彼に属するすべての人を滅ぼし尽くす、と語っています。

そこには主の怒りが告げられています。

その怒りは、勝手なものではありません。

何度もアハブを助け、襲い来る敵から彼の身と国を守って下さいました。

それにもかかわらず、彼が偶像礼拝に走る妻の歩みに習い、自らが偶像礼拝者になり、また、主の戒めを知りながらその戒めを無視して、人の命を奪ってまで自分の欲望を満たしました。

そこには、主の下にある王であるというあり方は、全くうかがえません。

主はその罪の責任を問われる方です。

しかも、その裁きは恐ろしい裁きです。


サムエル記 第二 24章17節

2015年02月28日 06時58分29秒 | 聖書

★ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」

■O:今日のコラム
ダビデが目を上げた時、民を打つために使わされた御使いが見え、ダビデは慌てて祈り、とりなしました。

そして、25節では「主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。」とあります!
これは、私たち、とりなす者、祈る者にとって興奮すべき事実です。
私たちの祈り、私たちのとりなしは、主の心を動かすことが出来るのです。ハレルヤ!

けれども、今日、注目したいのは、今日の御言葉の1節前です。

御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。(第2サムエル24:16)

今日のみことば、17節にはダビデが「民を打っている御使いを見たとき」とありますが、キング・ジェームス・バージョン訳では「民を打った御使い」と過去形で、この時点ではもう御使いは民を打つことを止めていたことが分かります。
つまり、ダビデがとりなす前から、民がとりなし祈る前から、実は主は民へのわざわいを、とどめておられたのです。
そして、ダビデに御使いの姿を見せ、自分の罪を悔い改める猶予を与えられ、また民のために、とりなすチャンスを与えられたのでした。
ここでもし、ダビデが御使いを見ることが無かったら…もし、ダビデが悔い改め、民と共にとりなすことが無かったら…御使いたちによるわざわいが、再開していたかも知れません。

主は、哀れみと恵みに富んだお方です。私たちにわざわいが及ぶ事を望んではおられません。
そのために、主は、ダビデに御使いを見せられたように、私たちに、とりなすべき事を見せて下さいます。
それは、時には、国のためのとりなしであり、また時には誰か個人のための、とりなしであります。

先ほども読んだように、主は私たちの祈りに心を動かして下さる方、怒るのに遅く、寛容な父です。

私たちが国のためにとりなす?人のためにとりなす?
「とりなしの祈り」と聞くと、とても大層なことのように響くかも知れません。私たちが、祈るべきこと、とりなすべきこととは何でしょうか?

イエス様はこう祈りなさい、と主の祈りを教えられました。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:10)

自分の家庭に御国が来ているでしょうか?
自分の職場に、学校に、今置かれている場所に御国が来ているでしょうか?
私たちの住む街に、御国は来ているでしょうか?
日本の地の上に御国が来ているでしょうか?御父の御心は為されているでしょうか?
もし答えが「いいえ」ならば、それが私たちの第1優先の祈りではないでしょうか。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)

私たちの周りには、とりなし祈るべきことで溢れています。
もし、御国が来ることを情熱を持って祈ることが出来ない、と思われる方はまず、その情熱と祈るべきことを啓示して(教えて)下さる聖霊様を自分のうちに大歓迎しましょう。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)

すでに、とりなすべき事が見せられているなら、力の限りとりなし祈りましょう!


■A:考えてみよう
私たちの置かれている所、遣わされている場所(家庭、学校、職場、住んでいる街)に、主の御国が来るように、人々が主を知り、救いを受け入れていくことができるために、またそのために私たち1人ひとりが大胆に福音を語り、御国を解き放つことが出来るように、とりなし祈っていきましょう!


■P:祈り
聖霊様、私のうちに歓迎します!
今日、私の置かれた場所であなたを礼拝し、臨在を求めます。
とりなすべきこと、祈るべき御父の心を、今日も私に教え、神の国を第一に求める情熱を、私に与えて下さい!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月27日(金)のつぶやき

2015年02月28日 01時43分57秒 | キリスト教