座間コミニティー

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◆この方こそ、

2015年02月08日 16時59分33秒 | 聖書

ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ一・二一)

「救いとは何か」と聞かれれば、多くの人は、「地獄から救われ、天国に移されることです」と答えるであろう。これは救いの一つの結果であるが、救いという恵みの十分の一も表していない。私たちの主イエス・キリストが、すべての主の民を来るべき怒りから贖われるのは真実である。しかし主の勝利は、それよりはるかに完全なものである。
主はその「民をその罪から救ってくださる」。おお、最悪の敵より救う妙なる救いよ! キリストは救いのみわざをなされる時、サタンをその位から落としてその支配を根絶させる。もし罪が、朽ちてゆく肉体を支配しているならば、その人は真のクリスチャンではない。罪は私たちのうちにある。その罪は私たちの霊が栄光の世界に入るまでは、決して完全に駆逐することはできない。しかし罪は決して支配権をもつことはない。神の支配に対する戦いはあるだろう。しかし罪が勝利を得て、絶対的に私たちの性質を支配することは決してない。キリストが心の支配者となられ、罪は克服されなければならない。ユダ族の獅子は勝利を得、竜は投げ落とされるであろう。
信仰を告白する者よ。あなたの罪は征服されているか。もしあなたの生活がきよくないならば、あなたの心は変化していない。あなたの心が変化していないとすれば、あなたは救われていない。救い主があなたをきよめず、新たにせず、罪に対する憎悪と聖さに対する愛を与えておられないならば、主はあなたのうちに、いささかも救いのみわざをなしておられない。その人を他よりすぐれたものとしない恵みは、価値のないにせものである。キリストはその民を罪にとどまるように救われたのではなく、罪から救われたのである。
「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」もし罪から救われなかったならば、どうして神の民の中に数えられることができよう。
主よ。今この瞬間にも、私をすべての悪より救い、救い主をあがめさせてください。

 


「思い違いをしてはいけません。

2015年02月08日 16時58分51秒 | 聖書

神は侮られるような方ではありません。
人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)

思考から行為が生じ、行為から習慣が生じ、習慣から人格を生じ、人格から人生が生じる。
つまり、思考を蒔くと、行為を刈り取り、行為を蒔くと習慣を刈り取り…となって行く。
人格が形造られて行くのも、思考が基であり、すべては思考から始まる。
思いが重要だ。何を思って生きているかによって、刈り取るものが決まって来る。
心の中はどうだろう。
いつも不平不満、つぶやきだろうか。
又は、いつも思い煩いに支配されているか。
又、批判や非難で一杯か。
妬みや憎しみで燃えているか。
それらの種を蒔いているからには、そのような人格を刈り取る事になる。
「すべての事について感謝しなさい」感謝の種を、常時、心に蒔き続けているなら、感謝の実を刈り取る。
「いつも喜んでいなさい」喜びの種を蒔き続けるなら、喜びの実を結ぶ。
これは法則なので、例外はいっさいない。
朝顔の種を蒔いて、すみれが咲いたという事が絶対にあり得ないように、蒔かないものは刈り取らないし、蒔いたものは必ず刈り取る。
肉に蒔くなら、ますます自我が肥り、そのような人格へ、御霊の導きに従うなら、御霊の実を結んで行く。
思いが重要だ。神を思い、恵みを数え、感謝を献げ続けよう。
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どんな中でも喜べるし、逆に何に対しても不満不足を覚える事もできる。
蒔いたもので自分を築いて行っている。
今日も一日神様の恵みに感謝して御霊の実を結んでいこう。


今日の聖人の記念日

2015年02月08日 07時15分17秒 | キリスト教

 聖ヒエロニモ・エミリアニ

1486年-1537年

 ヒエロニモは、イタリア、ヴェネチアの貴族の家に生まれた。15歳から軍隊生活を送ったが、あるとき敵に捕えられ、聖母マリアに祈りをささげ奇跡的に獄中から脱出する体験をした。このときから彼は神に生涯をささげようと決心し、1518年に司祭となって病気に苦しむ人々、貧しい人々、身よりのない子どもたちの世話をした。そして人々の必要に応じて3つの施設をイタリアに設立し、1532年に同志とともに、特に身よりのない子どもの世話と教育をする修道会「ソマスキ会」を創立した。

 1537年にベルガモにペストが流行したときも看護に奔走し、自らも感染して天に召された。

 彼は、身よりのない子どもの守護者といわれている。

聖ジュゼッピーナ・バキータおとめ

1868年-1947年

 聖ジュゼッピーナ・バキータは、スーダン、オルゴッサ村の有力者の家庭に生まれた。7歳のとき誘拐され、奴隷として5度も売買された。暴力を受ける過酷な日々を送り、体には60ヵ所もの傷があったという。この体験が彼女の心に深い傷を与え、彼女は自分の名前を忘れてしまった。そのため、他の奴隷たちからバキータと名付けられた。「バキータ」とは、「幸運」という意味である。

 バギータが16歳のとき、スーダンの領事だった、イタリア人のカッリスト・レニャーニが、彼女をあたたかく迎え、自由を与えた。彼は、友人のアウグスト・ミキエーリにバキータを託し、ミキエーリは娘の乳母として彼女をイタリアに連れて行った。バキータは、ヴェネツィアでカノッサ修道女会を知り、洗礼を受け、1893年に修道会に入ることを決心した。

 ヴェローナの北東にあるスキーオに移り、料理や縫い物をして共同体に奉仕した。やさしく、穏やかで、いつもほほえんでいた彼女は、皆に愛された。後に自伝を公にしたことで、彼女の徳の高さはイタリア中に知れ渡った。

 晩年、病に苦しんだが、「主のみ旨のままに」とすべてを受け止め、1947年2月8日に、亡くなった。2000年10月1日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列聖された。


◆へ り く だ れ

2015年02月08日 07時14分13秒 | 聖書

あざける者を主はあざけり、
へりくだる者には恵みを授ける。   (箴言三34)

聖書はここで、人を見くだしあざける態度の人を愚か者、へりくだる人を知恵のある人としています。そして、へりくだる者のみに神の恵み・神の誉れがあると言っています。
ヘりくだることの美しさ・へりくだる人のすばらしさは、すべての人が知っていると思います。「実るほど頭の下がる稲穂かな」とあります。中味がすばらしい人ほど謙遜です。反対に、西洋のことわざに「空車ほどうるさい音を立てる」とあるように、中味がないと人をあざけるのです。
へりくだる人に、神の恵み・神の誉れがあります。低いところに、恵みの水は流れ注がれます。そればかりではありません。謙遜な人だけが他人を理解することができ、それゆえに他人を助けることができるのです。
謙遜でなくても、自分だけのためなら、ガリガリギシギシと努力もできましょう。事業でも商売でも学問でもそうかもしれません。しかし、謙遜でへりくだった人だけが他の人を助け、引きあげ育てることができます。自分の子どもに対してもそうではないでしょうか。
どうしたらへりくだれるのでしょうか。これは自分の努力では絶対にだめです。いんぎん無礼・巧言令色しかできません。気高い生きた見本を見てその前にひれ伏している人でなければ、ほんとうの自然なへりくだりは出てきません。
イエス・キリストの愛と犠牲に貫かれた高貴な人生を見て、心の中にいつもイエスを仰いでいる人が、ほんとうにへりくだれる人です。

 


◆その名をイエスとつけなさい。

2015年02月08日 07時13分19秒 | 聖書

(マタイ一・二一)

一人の人と親しくなれば、その人に関するものは何でもなつかしくなるものである。それと同じように、信者にとっては主イエスがかけがえのない尊い方なので、イエスにかかわるすべてのものが尊く思われる。
「あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおりを放ち……」とダビデが言ったように、なつかしい救い主の人格の香りが着物の端まで行き渡るように思われてくるのである。イエスの足跡の印された所、そのくちびるからもれたことば、その愛に満ちたことばによって表された御思い、それはたしかに私たちにとって何よりも尊いものである。このことは、数多くあるイエスの御名についても同様で、それは信者の耳にはまことに快いものである。教会の夫、花婿、親しい友と呼ばれ、あるいはほふられた小羊と形容され、あるいは王、預言者、祭司と呼ばれ、またシロ、インマヌエル、不思議な助言者と言われて、どれも蜜のように甘美なものである。
しかし、もしその名よりもさらに信者の耳に麗しい一つの名があるとすれば、それはイエスという名である。イエス。これは、私たちすべての喜びのいのちである。もし他の名にまさって魅力があり、尊い名前があるとすれば、それはこの名である。私たちの賛美の歌の縦糸であり、横糸である。私たちの賛美歌の多くは、このことばをもって始まり、このことばなしに終わるものはほとんどない。これは私たちの喜びの総計である。これは、天上の鐘の鳴り響く音楽であり、一語で歌となるものである。
たった一滴のような簡略さではあるが、大洋のような意味をたたえ、一語でもって比類のないオラトリオ(宗教音楽の一種)であり、三字でもって永遠の賛美を集めたものである。
「イエス様。私を魅了するようなあなたの名を愛します。これは私の耳には妙なる音楽です。」

 


第1列王記18章41-46節

2015年02月08日 07時12分12秒 | 聖書

18:41 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」
18:42 そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。



 エリヤは先にアハブに、主の御心として、2-3年の間は露も雨も降らないであろうと伝えました。

それは、そのことによって飢饉が起こるという印でした。

この干ばつは、誠に恐ろしいことでした。

またそれと共に、アハブが頼む偶像礼拝のむなしさを、アハブに教えるためでもありました。

そこでエリヤは、バアルの預言者との対決で、誠の神がどなたであるのかという事実が示されたあと、彼はアハブに主の御力と主の恵みを伝えるために、主が雨を降らせて下さるということを告げました。

それによって主の憐れみを、彼に改めて悟らせようとしたのです。

エリヤは、ひざまずいて、自分の顔を膝の間にうめました。

こうして、主の前に謙虚で熱心な祈りの姿勢をとり、主に祈りました。

その結果、主はその言葉通りに答えて下さいました 。

アハブは悔い改めるべきでした。


詩篇143篇6節(マタイの福音書21章)

2015年02月08日 07時09分47秒 | 聖書

★あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわききった地のように、あなたを慕います。

■O:今日のコラム
前の節でダビデは

「長く死んでいる者のように、暗い所に住まわせた。
私の霊は衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました。(詩篇143:3-4)」と言っています。

どういう状況でしょうか?

何かに頼ることも、誰か頼る人もいない、ただ主にしか信頼出来ない、主にすがるしかない状態であったと思います。

花婿なるイエス様は私たちとの愛の関係を築きたいと切に願っておられます。(私が想像する以上に。)

私たちがまだ霊的に未熟な段階ではまだ他のもので満たすことや、物質的な物に頼ることを時に良しとされます。しかし、子どもと大人が求められるものが違うように、成熟していけば求められる基準は当たり前ですが上がっていきます。

成熟していくとき、あえて「もう主にだけしか寄り頼めない」そのような状況に私たちを置き、今より主に近づき、今より上のレベルで主を信頼し、主に寄り頼み、至聖所の領域、天の父の完全な愛、安息を知っていくそのプロセスを通っていきます。


■A:考えてみよう
成熟していく過程は時に痛みや苦しみもありますが、その先には何にも勝る喜び、完全な主の安息があると信じます。
ダビデがかわききった地のように主を求めたように、私たちも主を慕い求めること、安息を求めていけますように。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月7日(土)のつぶやき

2015年02月08日 01時39分24秒 | キリスト教