座間コミニティー

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◆そのときふたりは、

2015年02月07日 17時07分52秒 | 聖書

天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。(黙示録一一・一二)

このことばを預言的に考えず、私たちの偉大な先駆者が聖なる民を招かれるものとして考えよう。時が来ればすべての信者に「天から大きな声が」聞こえ、「ここに上れ」と言うであろう。私たちが父なる神のみもとに行くために、この世を去る時が来るのを恐れるのではなく、むしろ解放の時として待ち望むべきである。
 私の心は御座にいます方と共にあって
 時の至るのをひたすら待ちわびる
「立ちて来れ」との御声を聞くのを
 片時も待たない日はない
私たちは墓の中に呼び下されるのではなく、空中に呼び上げられる。天で生まれた私たちの霊は、当然故郷である空をなつかしく思う。しかし天からの招きは、忍耐強く待たなければならない。神は私たちに「ここに上れ」と言う最善の時を知っておられる。私たちは出発の時を早くしたいと願ってはならない。私たちは強い愛に迫られて、次のように叫ぶであろう。
 万軍の主よ、波は今のあなたとの間を隔てるが
 やがて、私たちすべてを天に運んで行くであろう
しかし、あくまで忍耐しなければならない。神は精密な知恵をもって、贖われた者たちがいつまでこの地上にとどまるのが最もよいかを定めておられる。実に、天に「後悔」が存在するとすれば、天の聖徒たちはこの地上にもっと長く生き、もっと多くの善行をなさなかったことを嘆くであろう。
ああ、主の穀倉にさらに多くの収穫を積みたい。さらに多くの宝石を彼の冠に加えたい。しかしもっと長く働かないで、どうしてそれができよう。短く生きれば犯す罪も少ないという面もある。しかし、私たちが心を尽くして神に仕え、神が私たちに尊い種を任せられ、百倍もの収穫を得させられる時、私たちは地上にとどまるのはよいことだとさえ言うであろう。主のことばが「行け」であろうと、「とどまれ」であろうと、神が臨在をもって私たちを楽しませる限り、喜びをもって受けよう。

 


「私の最も喜びとする神のみもとに行き、

2015年02月07日 17時07分13秒 | 聖書

立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。
神よ。私の神よ」(詩篇43:4)

「私の最も喜びとする○○」この○○の中に、何が入るだろう。
建前ではなく本音では、何を求めているのだろう。
それは極めて重要だ。
それが必然的に全生活の、生き方の基盤となる。
必ずそのように動いて行くからだ。
目の前で物事を決めて行く時に、そのように選択する。
例えば、人の賞賛を求めているなら、人がどう見るかが判断基準になる。
神がどう思われるか、自分がどう思うかでなく、人がどう思うかで物事を決めて行く。
求めているものが富なら、絶対に損はしない。
損得が判断基準で、すべての場合に得な方を選択する。
又、人生に楽な事を求めているなら、それが正しいかどうかでなく、とにかく安楽な道を選択する。
そして、危険は絶対に冒さない。
あなたの日々の生活を振り返るなら、建前ではなく、心の底にあるものによって、本音によって選択し、決定している事に気づくだろう。
名誉、地位、人、賞賛、理想、自己実現・・求めているものは何だろう。
まず、自分が何を大切にして、何を求めているかに気づいて、認める事から始まる。
決して神ではない、神以外のものであると、気づく事は良い事だ。
神の御心は何か、何が神に喜ばれる事なのか、神のお心を求めて歩もう。
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何が一番大切で、何を失う事を一番恐れるのだろう。
一つ一つ気付かされ、捨てて行けたらいい。
そして神様が与えて下さる良いものの方を選択しよう。
良いものはわずか、いや一つだけだと主は言われた。


今日の聖人の記念日

2015年02月07日 07時15分23秒 | キリスト教

福者エウジェニ・スメット(み摂理のマリア)修道女

1825年-1871年

 エウジェニは、フランス、リールの信仰深い家庭に生まれた。あるとき祈っていると「清めの教会の魂の救いのために神の道具になるように」との神からの促しを受けた。それ以来エウジェニは修道生活への望みを持ち、祈りと犠牲をもって時がくるのを待った。

 そして「練獄の霊魂の会」という信心会を作り、1856年に「練獄援助修道会」(現在の「援助修道会」)を創立した。そして数名の同志とともに聖イグナチオの会則に従い「神の栄光と練獄の霊魂のために祈り、苦しみ、働く」ことを目的とし、パリの貧しい一室から活動をスタートした。病人の看護、キリスト教要理教育、施設などの事業へと会は発展していった。

 同会は1935年に来日し、東京、広島、北九州などで、幼稚園、老人ホーム、寮、黙想の家を経営し、司牧、看護、教師、ケースワーカーなど、社会のただ中にあってその使命を果たしている。


◆愛し親しまれる

2015年02月07日 07時14分20秒 | 聖書

主は、よこしまな者を忌みきらい、
直ぐな者と親しくされるからだ。
悪者の家には、主ののろいがある。
正しい人の住まいは、主が祝福される。(箴言三32―33)

「悪者と正しい者、善玉と悪玉なんて、ちょっと時代おくれではないか。この人間社会や人生がそんなにいいの悪いの、まっすぐだの不正だのと分けられるかい。」――正直いって、現代の多くの人はこう考えているのではないでしょうか。
そうです。現代は基準を失った時代です。何がいいのか悪いのか、分からなくなりました。「絶対」を失ったのです。神を見失っています。
しかし、神はまっすぐな人と親しくされ、悪者の家にはのろいがあると、はっきりといわれています。神は、不正を行う者をきらわれます。曲がった人には、祝福・平安がありません。また、神は善を行う人を喜び、「親しく」してくださいます。何と美しいことばでしょうか。そして、間接的にはそういう人は、人々も喜んでくれるのです。
「積善の家には余慶あり」と昔の人は言いましたが、こんな単純なことを、今の人々は忘れてしまったのではないでしょうか。
ほんとうの基準を持った人・知っている人は、幸いです。何が良いのか何が悪いのか、これをすべきであり、これはすべきでないと、はっきり分かっています。基準のない人生は、どんなに努力しても自己満足にすぎません。ベストを尽くしたつもりでも、いいのか悪いのか分からなくなる時があります。
神こそ、はっきりした人生の基準を与えてくださいます。私たちの生きる目的をはっきりさせ、生きがいを与えてくださるのです。神を知る時に白と黒が分かり、神と親しくさせていただく人生の祝福を味わうことができるのです。

 


◆さあ、

2015年02月07日 07時13分41秒 | 聖書

立ち去れ。(ミカ二・一〇)

私たちはだれでも、次の命令を聞く時が必ずある。「立って、あなたが住んでいた家庭、あなたが生業をいとなんでいた都、あなたの家族、あなたの友人を去れ。立ってあなたの最後の旅にのぼれ」と。
この旅について、私たちは何を知っているだろう。私たちの行く国について、私たちは何を知っているだろう。その国について私たちは少しは読んで知っており、少しは聖霊によって啓示されているが、それでも未来について知ることはきわめて少ない。私たちは「死」と呼ばれる黒い川のあることを知っている。神は私たちとともにいることを約束し、私たちにその川を横切ることを命じておられる。死の後に来るものは何であろうか。驚いている私たちの眼前に、なんという不思議な世界が出現することであろうか。なんという輝かしい光景が展開することであろう。
その国の話をするために、そこから帰って来た旅人はいない。それでも私たちは天上の国についてかなり知っていて、私たちをそこへ招くものに喜び楽しんで応じることができる。死の旅路は暗いかもしれないが、私たちは、神がその暗い谷間においても共におられるゆえ、わざわいを恐れる必要のないことを知って、臆することなく進むことができる。私たちは地上で知り合い、愛し合ったすべての人と別離をするが、神が設計し建設された堅い基礎の上に建てられた都の父の家――イエスのおられる私たちの父の家――に向かう。それは、私たちが永遠に愛する主とともに神の民の中で神の御前に住むための最後の引っ越しである。
主にある友よ。天国について深く考えよ。それはあなたの前進を助け、途中の苦難を忘れさせる。この涙の谷は、はるかによい国へ達するための小道にすぎないし、このわざわいの世界は、よりよい祝福の国への飛び石にすぎない。
主よ。あなたの恵みによって、高いところにあるあなたの宮廷に行くために私を備えてください。その後、私の霊に向かって、「立って、天上のコーラスに和して歌え」と命じてください。

 


第1列王記18章36-40節

2015年02月07日 07時12分23秒 | 聖書

18:37 「私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
18:38 すると、主の火が降って来て、
全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。



 エリヤは偶像礼拝をする預言者たちの前で、生きておられる誠の神はどなたであるのかということを示すために、仕えている主にしきりに祈りました。

「あなたの栄光を見せて下さい」と祈ったのです。

これは、主を試しているのではありません。

またエリヤは、自分の栄光を求めてこのようにしているのでもありません。

誠の神様はどなたであるのかということを、偶像礼拝者たちの前に示すためであり、生きておられる誠の神は、この主なる神であられるということを、彼らに知らせるためでした。

 生ける誠の神である主は、エリヤの祈りに答えて下さいました。

天から火が降りてきて、その火は生け贄と薪と石とちりとを焼き尽くし、さらに先に満たした溝の水さえも、なめ尽くしてしまったのです。



マタイの福音書20章26~28節(詩篇142篇)

2015年02月07日 07時07分13秒 | 聖書

★あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

■O:今日のコラム
私は数ヶ月に一度ある教師から御言葉の学びを受けています。その方は優れた御言葉の教師であり、毎回「どの様にしてこの解き明かしを得たのか?」と驚かされる程、御言葉に対する深い啓示と霊的な洞察力を持っておられます。

さらに、食事の時その先生は、皆の為に食事の準備をして食器を並べていました。そして「この様な生活の中でも仕える事を実行する事が重要です。それが御言葉に仕える態度にもなります。」と言っていて、共に時間を過ごす中で、なぜこれ程に御言葉に対する深い洞察力を持っているのかを少しずつ理解する様になりました。

主は「しもべ」に御言葉を語られます。「手取り早く私の必要だけを満たして欲しい。」と言う態度では御言葉の深みを味わう事が出来ません。主の御前に進み出て「主よ。しもべは聞いております。あなたの御言葉を私に与えて下さい。」と言う心を持ってひざまずく事が重要です。

主は、しもべに御国の権威を惜しみなく与えて下さいます。今日しもべの心を持ち主の御前に進み行きましょう。


■A:考えてみよう
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」(エペソ1:17)
  このエペソの手紙の御言葉を握り、今日主の知恵と啓示の御霊により御言葉が開かれて行く事を願い祈り求めましょう。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月6日(金)のつぶやき

2015年02月07日 01時41分37秒 | キリスト教