座間コミニティー

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◆この記録は古い。

2015年02月02日 16時58分13秒 | 聖書

(Ⅰ歴代四・二二)

古いと言っても、私たちのたましいの喜びである以下の尊いことほど古くはない。しばらく、けちん坊が金を数えるように、それらを確認していってみよう。
父なる神の「主権による選び」――それによって神は私たちを永遠のいのちに選ばれたが――は非常に古いものである。なぜなら、その日時を人は思い浮かべることができないからである。私たちは世の基が据えられる以前から選ばれていた。「永遠の愛」がこの選びとともに働いた。
なぜなら、私たちが選び分けられたのは、神のご意志だけでなく、神の愛も関係していたからである。父なる神は初めから私たちを愛してくださった。ここに、私たちが日々黙想すべき主題がある。
私たちを破滅から贖い出し、きよめ、ついに栄化する「永遠のご計画」は、無限に古く、変わることのない愛と絶対的な主権とともに働いている。
「契約」も常に永遠なものと記されており、契約の相手であるイエスも永遠の昔からおられる。主は最初の星が輝き始めるはるか以前に、聖い契約の誓いをされ、選ばれた者たちは、主にあって永遠のいのちに定められた。こうして、神の御子と選ばれた民との間に幸いな契約が結ばれた。それは永遠の未来に至るまで、彼らの安全の基礎となった。
これらの古い事柄に精通するのはよいことではないだろうか。それが無視され、信者であると公言する人々によってさえ拒否されているのは恥ずべきことではないだろうか。もし彼らが自らの罪についてさらによく知るならば、このすばらしい恵みをいっそう感謝するのではないだろうか。
今夜、次のように歌って主を賛美しよう。
 血をもって救われた罪人の
 恵みによる記念碑がある
 私はその愛の流れをたどって
 神である泉を尋ねあてた
 その聖なる胸の中に見えるのは
 私のうちにそそがれた永遠の愛だ

 


「そこで彼らは網をおろした。

2015年02月02日 16時57分17秒 | 聖書

すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」(ヨハネ21:6)

ペテロ達は、熟練した腕、持ち前のプロの勘を働かせで、夜の間中、何度も網を下ろした事だろう。
しかし、雑魚一匹とれなかった。
これは自分の力、自分の思い、自分の知恵での漁であった。
肉の力と思いを駆使して、動き回っていた。
自分を信じ、自分に頼っている限り、神を信じる信仰はない。
神に頼る事はできない。
頭の中に神はあっても、決して頼らない。
熟練しているはずの、自分達の力の限界を思い知らされた。
無力を味わい知った。挫折と敗北感に打ちのめされていた。
その時、「舟の右側に網をおろしなさい」との声が聞こえた。
言われた通りに右側に網をおろした。
これが信仰への分岐点だった。
自分の思い、知恵では、プロの腕でもってしても、一匹もとれなかった。
今更、魚がいるはずがない。
しかし、自分の思いに頼らずに、信仰によって歩む事が、「右側に網を下ろす」ことだ。
打ちのめされて、無力を味わい知った時に、はじめて自分に頼らず、神に頼る。
「信仰」によって歩む。自分を信じている限り、神に頼ることはできない。
魚がいるはずのない所に、魚がいた。
網を引き上げる事ができないほどの大漁で、そのまま舟を岸につけて、網を陸に引き上げた。
「信仰」によって歩む世界は、神のみわざを見る世界だ。
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ペテロ達は本当に疲れきっているから明け渡せた。
神様、神様と祈りながらも、自分に頼るなら神様の栄光を見る事はなく、いつまでたっても力を抜く事ができない。
明け渡し、明け渡し歩んでいこう。


今日の聖人の記念日

2015年02月02日 07時00分48秒 | キリスト教

主の奉献

 

 マリアとヨセフは、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」(出エジプト13.2 参照)というモーセの律法に従って、イエスの誕生40日目に、幼子を神にささげるためエルサレムの神殿に行った。このことは、神と人との新しい契約のために遣わされた救い主イエスが聖所に入り、父なる神に完全にささげられたことを意味する。

 家族は神殿でシメオンからイエスが民の救い主であり、将来どのような運命を生きるかを預言された(参照 ルカ2.22-35)。そのときシメオンがイエスのことを「異邦人を照らすまことの光」と賛えたことから、この日にはローソクの祝別式とローソクの行列が行われている。


◆主がわきにおられる

2015年02月02日 06時59分31秒 | 聖書

にわかに起こる恐怖におびえるな。
悪者どもが襲いかかってもおびえるな。
主があなたのわきにおられ、
あなたの足がわなにかからないように、
守ってくださるからだ。       (箴言三25―26)

近ごろの世の中は物騒な世の中です。ガスもれ・銀行強盗・校内暴力事件など、恐ろしい事件を次から次へと知らされます。海の向こうのテキサス州では、あまりにも強盗・殺人が多くて不安でたまらない金持ちたちが、高いコンクリートのへいを巡らした自分たちの町をつくり、二十四時間、銃を持ったガードマンに、シェパードといっしょに守らせていると聞きました。
しかし、そんな外側のことばかりではありません。私たちの家庭に心の中に、恐ろしいことが吹き荒れ、悪魔が襲いかかってくることを、あなたも感じていらっしゃいませんか。
ところが、あなたの信仰一つで、どんな敵を向こうにまわしても強い勝利者の神が、二十四時間中あなたのわきにいて、あなたを守ってくださいます。これが聖書の約束です。お金でガードマンは雇えます。しかしお金で平安な生活は買えません。お金があればあるで、それを守るための心配が増えます。
造り主である全能の神をあなたの守り手にすることです。あなたを愛し、あなたのために捨て身の愛を現された神の愛の中に入りこむことです。
キリストまで十字架に死なせて、死と滅びから守ってくださる神は、日々あなたのわきにいて、小さな落とし穴からも、見えないわなからも守ってくださるのです。おびえてはなりません。恐れてはなりません。ひたすら神の御名を呼び、神の中に身をひそめること、これが信仰です。

 


◆血を注ぎ出すことがなければ、

2015年02月02日 06時58分46秒 | 聖書

罪の赦しはないのです。 (ヘブル九・二二)

これこそ動かせない真理の声である。ユダヤ教の儀式では、たとえ形式的にでも、血を流すことなしに罪が除かれることはなかった。罪は贖いなしには決して赦されない。それゆえ、私にとってキリスト以外に望みがないことは明らかである。罪の贖いにふさわしい血は、主の血以外にないからである。私はキリストを信じているか。キリストの贖いの血は自分のたましいにも適用され得るか。どのような人も、キリストを必要としている。私たちは本当に道徳的で、寛大で、優しいだろうか。もしそうでなければ、この法則は私たちに適用される。私たちの罪を贖う力は、神が贖いのために定められたキリストの血潮以外にはない。ただ一つの赦しの道が開かれていることは、なんという幸いであろう。なぜ他に救いを求めようとするのか。
ただ形だけの宗教を重んじる人々は、私たちがなぜキリストによってすべての罪が赦されたと喜ぶことができるか、理解できない。彼らの善行、祈り、儀式はほとんど彼らに慰めを与えない。彼らの不安は当然である。なぜなら、大いなる救いを無視し、血なくして罪の赦しを得ようと努力しているからである。
私のたましいよ。座して待て。そして、神の義が罪を罰するのを見よ。その罰がすべて、あなたの主ご自身の上に課せられることを思い、喜びに身を投げ出し、血潮をもってあなたを贖われた尊い御足に口づけせよ。良心の呵責を、感情や他の人の罪悪の実例をあげることによってまぎらわせようとするのはむなしい。
罪に悩む良心が回復される唯一の道は、十字架上に苦しんでおられるイエスを見ることである。レビ記の律法には「肉のいのちは血の中にある」とある。そしてそのいのちには、信仰、喜び、その他のすべての聖い恵みが含まれているのである。
 喜ばしいことは、救い主の
 尊い血潮の流れを見
 神との和らぎを得たことの
 聖い証しを知り得ること

 


第1列王記18章16-19節

2015年02月02日 06時57分37秒 | 聖書

18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」
18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」



 アハブはオバデヤからの知らせを受けて、エリヤに会いに来ました。

そしてエリヤにあった時、彼はエリヤのことをイスラエルを煩わす者と告げました。

自分たちの考えや行為を批判して、イスラエルの国を混乱に陥れているとなじったのです。

彼は、自分の行っていることが、神の前でどうであるかということを考えませんでした。

むしろ、自分が一番上に立って自分の都合のよいように動かず、反対意見を述べたり非難したりする者を、自分の国を煩わす者と語ったのです。

しかし、真の正しさは、人の思いの内にあるのではありません。

神の御心に従って生きるところにこそ、真の正しさがあります。

そこに物事の判断基準を置いて考えることこそ、大事なことなのです。



マタイ15章27節(詩篇137篇)

2015年02月02日 06時55分32秒 | 聖書

★「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただけます。」

■O:今日のコラム
この信仰の女性はカナン人であり、創世記9:25に「のろわれよ、カナン。兄弟たちのしもべとなれ。」と言われた民族であり、当時のイスラエル人からすると最も主から遠く、主に何か願うことなんてとんでもないと思われていた存在であったかもしれません。しかし、彼女の願いは聞き入れられました。それは、なぜだったのでしょうか。彼女が発した三つの言葉を改めて読み進めたいと思います。
彼女の一言目は、「主よ。ダビデの子よ。」という信仰の告白でした。カナン人であるにも関わらず、彼女のアイデンティティは、イエスが主であり、自らもその救いに入れられた者であるということだったのはないでしょうか。
彼女の二言目は、「主よ。私をお助けください。」でした。それは、自分の娘が悪霊にとりつかれている現実を目の当たりにし、主の助け憐れみを必要としている者である、ということを示しているように思えます。
彼女の三言目は、イエス様に「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われたにも関わらず、彼女の応答は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただけます。」との非常に大胆な告白でした。彼女のこの告白は、自分がカナン人であったとしても、十分なわけ前が恵みにより用意されていること、小犬であっても主人の側にいることが出来る存在である、そのことを悟っているがゆえではなかったのでしょうか。


■A:考えてみよう
彼女のようにキリストにあって自分が誰かを悟るものでありたいと願います。また、同時に主がどのようなお方かももっともっと悟り、経験するものでありたいと願います。この女性が見え隠れする現実がどのようなものであっても、イエス様が愛の方であることを知っていたように。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月1日(日)のつぶやき

2015年02月02日 01時47分08秒 | キリスト教