座間コミニティー

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◆しかしヨナは、

2015年02月25日 17時14分20秒 | 聖書

主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。(ヨナ一・三)

ヨナは、神の命令のとおりみことばを伝えるためにニネベへ行かず、それを嫌って、それから逃れようとヨッパに下った。しかし、その結果はどうだろう。ヨナはそのために何を失ったか。
彼は、神のご臨在と神の愛による慰めを失った。私たちが心から主イエスにお仕えする時、私たちの神は私たちと共におられる。そして、もしそうならば、たとえ全世界を敵にまわしたとしても、それが何であろう。しかし、私たちがためらい始め、勝手なことを始める瞬間に、私たちは、水先案内人なしに大洋に乗り出した船のようになる。その時私たちはひどく落胆し、うめきながら叫ぶ。「おお、私の神様。どこへ行かれたのですか。私はあなたへの奉仕を嫌い、あなたの御顔の輝きを全く失ってしまいました。なんと愚かであったことでしょう。神様。私を再び忠実な者とし、幸いなあなたのご臨在を喜ぶ者としてください。」
次に、ヨナはすべての心の平安を失った。それは有毒な木であり、その葉から、喜びと平安の生活を滅ぼす毒液がしたたり落ちている。
ヨナは、このようなことをしなければ受けたであろう慰めの一切を失った。彼は神の保護の約束に立って嘆願することができなかった。神の道を歩んでいなかったからである。彼は「主よ。私は自分の義務を果たそうとしてこの困難に直面しました。ですから助けてください」とは言えなかった。彼は自分の過去の実を刈り取っていた。彼は八方をふさがれた。
クリスチャンよ。大波があなたの頭上を越えるのを望まないなら、ヨナのようにしてはならない。素直に神に自らをゆだねることに比べて、神のみこころを行うのを避けることのほうがはるかに困難であることをあなたは知るであろう。
ヨナは時間を浪費した。なぜなら、結局タルシシュへ行かなければならなかったからである。神に逆らうことは非常に骨が折れることである。私たちは自分を、ただちに神に明け渡そうではないか。

 


「私はこわくなり…あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。

2015年02月25日 17時13分37秒 | 聖書

さあどうぞ、これがあなたの物です」(マタイ25:25)

タラントを地の中に隠した者に対して、主人は「悪いなまけ者、役に立たぬしもべ」と言った。
このしもべは、失う事を恐れて、そのまま返せば減らさなかったのだからいいだろうとの了見だった。
失敗を極度に恐れ、神の責めを恐れた。彼にとって神は恐い方であった。
しかし、神は私たちにタラントを任せられた方だ。
一タラントでも6千万ほどだ。決して少なくない。
そして、失敗するかも知れないリスクも承知の上で、任せて下さった。
これは信頼だ。神が見られたのは、喜んで増やそうとする「心」であり「態度」だ。
他のしもべは、すぐに行って、商売をした。
主人は愛の方であり、喜びを下さる方であり、「主人に喜んでもらいたい」が動機だった。
主人は喜び、報いた。「主人の喜びをともに喜んでくれ」の通りだ。
あなたは失敗を恐れて、タラントを地に埋めていないか。
自分には難しいのではないか、失敗したら…。
それなら全く何もしない事が、最善になってしまう。
神は失敗のリスクをも引き受けて、委ねて下さった。
失敗しても学んで生かせばよい。
神は、神のために増やそうとする心を喜ばれる。
失敗してもよい。賜物を用いよう。
神は必ず祝福し、増やして下さる。
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主に喜んでもらいたい、主をお喜ばせしたい、その心を喜んで下さる。
減らさなかったのだから問題無いとの発想と神観が大きな間違いで的はずれだ。
主とは愛の関係であり、雇用関係ではない。


今日の聖人の記念日

2015年02月25日 07時58分58秒 | キリスト教

聖ワルブルガ

710年ごろ-779年

 ワルブルガは、イギリスのウェセックスの貴族の家に生まれた。幼いころからイングランドのウィンボーンの修道院で教育を受けた。彼女の兄はウィリバルドと、ウィニバルド(12月18日 参照)であり、ゲルマン(ドイツ)へ宣教に行ったボニファチオ(6月5日 参照)に協力するため同地に派遣された。彼女もフランクフルトの修道院で医術を学び、後に兄たちが設立したハイデンハイムの女子修道院の院長を務めた。761年に兄ウィニバルドが亡くなってからは、男子と女子の修道院の長として会員を導いた。

 兄妹たちはドイツ宣教における中心人物であり、みな聖人である。
 彼女はゲーテ『ファウスト』に出てくる「ワルプルギスの夜」のワルプルギスの名でも知られている。彼女の祝日は2月25日であるが、夏の始まりを祝う異教の祭と同化して5月1日にも祝われた。


◆真  の  隣  人

2015年02月25日 07時58分05秒 | 聖書

わが子よ。もし、あなたが
 隣人のために保証人となり、
他国人のために誓約をし、
あなたの口のことばによって、
あなた自身がわなにかかり、
あなたの口のことばによつて、
捕えられたなら、
わが子よ、そのときにはすぐこうして、
自分を救い出すがよい。
あなたは隣人の手に陥ったのだから、
行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。(箴言六1―3)

「保証人になってあげた隣人が破産した。保証人である自分にも、破滅が迫ってくる。どうしたらいいのか。」そのような場合に聖書は、「その隣人のところへ行ってしつこくたのんで、自分を助けてもらえ」と言うのです。いったいそんなことは可能でしょうか。
私たち人間は、道徳的破産者なのです。それゆえの苦しみ・悲しみ・むなしさ・孤独・不幸をしょいこんでいます。ですから、同じ道徳的破産者である人間のお互いの知恵・思想は、私たちを道徳的破産状態から救うことはできません。
聖書がここで隣人と指しているのは、別な種類の隣人です。
・ この人も破産状態に落ちこんだ。
人が「他人を救うなどといっていたが、自分で自分を救ってみろ」とわめいてもだまっていました。
・ 頭にいばらの冠をかぶせられ、十字架上で血まみれになってだまって死んだ。
「ふん。他人を救うなどといったが、自分はだめになったのか」などの声もあびせられました。
・ ところが三日目によみがえり、道徳的な破産者(罪と死の滅びのもとにある人間)を救う人となった。
この方イエス・キリストは真の隣人です。神が私たちと同じ人となり、あなたを理解し、すべてのことを引き受け、罪の支払う値を払って、身代わりとなって死んでくださったのです。

 


◆必ず来る御怒り……。

2015年02月25日 07時57分19秒 | 聖書

(マタイ三・七)

あらしが過ぎ去った後、田舎の道を通り、雨後の草木の鮮やかな彩りを見るのは快いものである。雨のしたたりが陽光に照らされ、ダイヤのように輝いている。これがクリスチャンの姿である。救い主の頭上を雨が通り過ぎた後の道をクリスチャンは通っているのであって、そこに悲しみの数滴が残っているとしても、それは恩寵の雲からしたたり落ちたものである。イエスは、それが彼の滅びのためではないことを説かれ、元気づけてくださるのである。
しかし、あらしが近づいて来るのを見るのは、なんと恐ろしいことであろう。風雨の前兆は現れ、空の鳥は翼を縮め、家畜は恐れのために頭をたれ、空は刻一刻と黒ずんで、太陽は輝かず、天は怒り、顔をしかめている。熱帯地方によくある台風の到来を待っているのは、なんと恐ろしいことであろう。暴風が怒り狂って樹木を根こそぎにし、岩を吹き飛ばし、人家すら押し倒すようなものすごい光景を待っているのは、なんと恐ろしいことであろう。
罪人よ。これがあなたの現在の立場なのだ。まだ熱い雨は降ってこないが、やがて火の雨が来ようとしている。恐ろしい風はあなたの周りで叫んではいないが、神のあらしはその恐ろしい大砲を集めつつある。水はまだあわれみによってせきとめられているが、その水門は今にも開かれようとしている。神の雷鳴はなお倉に納められているが、見よ、あらしは迫って来た。神が怒りをもって迫って来られる時は、どれほど恐ろしいものであろうか。
ああ、罪人よ。あなたはどこに頭を隠し、どこへ逃げようとするのか。どうか、あわれみの御手が、今あなたをキリストに導かれるように。主は、福音によって、無代価であなたの前に提供されている。主の脇腹は、避け所となる岩である。あなたは主を要することを知っている。主を信じて、あなた自身をゆだねよ。そうすれば怒りは永久に過ぎ去るであろう。

 


第1列王記21章8-10節

2015年02月25日 07時56分33秒 | 聖書

21:9 手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、
21:10 彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王を
のろった』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」


 イゼベルの立てた策略はこうでした。

ナボテの住んでいる町の長老たちに手紙を書き送って、ナボテを町の人々の前に引き出して、彼が神と王とを呪ったと証言させることだというのです。

そして、証言に基づいて彼を有罪にして、石で撃ち殺せということでした。

 このイゼベルは、バアル礼拝を持ち込んだ人でした。

従って、誠の神やその神の御心を恐れることを知らない人でした。

ですから、神の戒めである律法などには無関心でありました。

ただ自分の夫は王であり、また自分はその妻であるという意識から、自分たちの思っていること、また望んでいることは何でもして良いという判断を持っていました。

その為には、嘘偽りさえもどうとも思わなかったようです。

彼女の判断がもたらした結果でした。

アハブは、彼女の世的な策略に乗ってしまいました。


2月24日(火)のつぶやき

2015年02月25日 01時51分57秒 | キリスト教

「年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。 goo.gl/8T2pOc


◆「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、 goo.gl/8ky0dg