座間コミニティー

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◆父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。

2015年02月12日 17時23分05秒 | 聖書

その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。(ヨハネ一四・一六)

偉大な父なる神は、御子が来られる以前に、ご自身を旧約時代の信者たちに啓示された。そして、アブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として知られていた。その後イエスが来られたが、この永遠に賛美されるべきひとり子は、その民の目に喜びとなられた。贖い主が昇天された時、聖霊はこの時代のかしらとなり、御力はペンテコステの時以来、輝かしく現された。主は、今もインマヌエル(神は私たちとともにおられる)であられ、その民とともに、またその民の中に住み、その真ん中にあって彼らを生かし、導き、支配される。
主のご臨在は正しく認められているであろうか。私たちは主のみわざを左右することはできない。主はみこころのままに一切のみわざをなされる。しかし私たちは、十分に主の助けを待ち望んでいるだろうか。主の助けが停止しないために、油断なく自らを戒めているだろうか。主なくして、私たちは何事もなすことができない。しかし、主の全能の御力にすがるならば、驚くべき成果を得ることができる。一切は、主が御力を現されるか隠されるかにかかっている。私たちは常に、自分の内なる生活、および外なる生活において主を仰ぎ、主により頼んでいるだろうか。私たちは主の召しに先立って行動し、その助けなしに自力で事をなそうとしてはいないか。
今夜、過去の怠慢を思い、へりくだり、天の露が自分の上にとどまるように、聖なる油が注がれるように、天上の炎が自分の上に燃えるように嘆願しようではないか。聖霊は一時的な賜物ではなく、とこしえに聖徒とともにとどまってくださるのである。求める態度さえ正しければ、主は私たちを見いだされる。主はねたみ深いが、しかし、あわれみ深いお方である。怒って去られることもあるが、またあわれみをもって来てくださる。主は謙遜であり、優しく、私たちに飽きてしまうこともなく、なおあわれみを施そうとして待っておられるのである。

 


「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに…

2015年02月12日 17時22分18秒 | 聖書

長子の権を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい」(ヘブル12:16)

エサウのように俗悪な者になるなとの警告だ。
エサウはイサクの双子の息子の長男だ。
もう一人はヤコブで、生まれる時、兄のかかとをつかんで出て来た。
エサウは猟師となり、ヤコブは天幕にいた。
ヤコブはレンズ豆で、エサウから長子の権を奪い取った。
その上、イサクが視力が衰えていたのをよい事に、リベカと共謀して、父をだまし、祝福をも奪い取った。
ヤコブの方がずる賢くて、狡猾で、ひどいように見える。
しかし、ヤコブが断罪されているのではなくて、エサウの方だ。
エサウが俗悪だと言っている。
ヤコブにレンズ豆で長子の権を売った箇所で「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑した」とある。
神、信仰、霊的な事柄に、エサウは無関心だった。
全く関心がなく盲目だった。「俗悪」は神に関心を持たない事だ。
それがエサウの問題点だった。
だから、長子の権など豆の前では無価値だった。
見えるもの、触れるもの、この世界のものだけが、エサウの関心事であった。
私達はどうだろう。関心はどこにあるだろう。
目に見えるもの、この世の勢力は凄まじい。
人からの賞賛、名誉、地位、富、自己実現、世の楽しみ…霊の目がそらされて、世にあるものに執着し、関心がそこにあるなら、「俗悪」な者となってしまう。
この世にどっぷり浸かっていないか。
霊の目が鈍っていないか。警告に耳を傾けよう。
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霊の目が鈍っているとこの世の価値観にすぐに反応し、迎合して行く。
悪い方へ傾くばかりだ。新しい週が与えられた。
私達は弱くあやうい者だという事を覚え、良いものをしっかり見極めて歩もう。


今日の聖人の記念日

2015年02月12日 07時28分40秒 | キリスト教

 聖ユリアヌス(看護者)

生没不詳

 ユリアヌスは、伝説の聖人であり、さまざまな伝説が残されている。貴族の家に生まれたユリアヌスはある夜、彼が自分の寝室に入った際、すでに寝ている人を侵入者だと勘違いして、自分の両親を殺してしまった。良心の呵責(かしゃく)にさいなまれた彼は、罪を償うために妻とも別れ、城を出ることに決めた。しかし、夫とともに罪を償いたいと望む妻の願いに心を打たれ、ユリアヌスはともに城を出て川の近くに住んだ。そこで夫妻は、旅人や貧しい人々、病人に献身的に尽くし生涯を送った。

 ある寒い夜、川の方から助けを求める声を聞いたユリアヌスは、凍え死にしそうになった旅人を助け懸命に看護し命を救った。回復した旅人は「神は、あなたの悔い改める心をお受けになりましたよ」と言って、幻のように消えたといわれている。

 現在でもヨーロッパ各地にユリアヌスの名を記念した病院、施設、教会がある。


◆光 栄 を 得 よ

2015年02月12日 07時27分33秒 | 聖書

それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、
光栄の冠をあなたに授けよう。     (箴言四9)

あの人が来ると花が咲いたようだといわれる人がいます。私が入院していた病院の看護婦さんで一人、そんな人がいました。花の明るさ・花のかぐわしさ・花の慰めを持ち歩く人でした。その笑顔で、愛と思いやりのこもったひとことを一人一人に配達して歩きました。
もし家庭の主婦がそんな人だったら、ご主人も早く家に帰りたくなります。子どもたちもだんらんして、笑い声や話し声の絶えない家庭ができるでしょう。
知恵が、あなたの頭を美しい花輪で飾ります。それは神の愛と力を知って、神の愛と慰めの力によって奉仕する人のうるわしさです。
私の知っているあるおばあさんは、一生車いすの人でした。しかし彼女は、毎朝早く窓のところにいすを置いて、窓の外を通る人々にほほえみを投げかけ、一人一人のために祈ったのです。同じ時刻に同じ人が通りました。このおばあさんの葬式には、千人以上の見知らぬ人々が集いました。彼女は、花の冠を持っていた人でした。
オリンピックで優勝して、金メダルを獲得するのは容易なわざではありません。しかし、神の愛と力とを知って、その知恵に生きる、その神の愛のために奉仕して生きる、その神の愛と喜びを一人一人に配達して歩く人の頭には、神が花輪を下さいます。それは、そんなにむずかしいことではないと、私は感じています。
初めにお話しした看護婦さんに教えられて、「世の光」の放送を聞き始め、神を信じて、ご自分でも頭に花輪を飾られる人となったという話も聞きました。

 


◆それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、

2015年02月12日 07時26分51秒 | 聖書

慰めもまたキリストによってあふれているからです。(Ⅱコリント一・五)

ここに天の調和がある。摂理の支配者が一つのはかりを持っておられる。一方の皿には神の民の試みが、他方の皿には慰めが入れられている。試みの皿がほとんどからになった時、慰めの皿も同様にほとんどからになり、試みの皿が満ちている時には、慰めの皿も重くなる。黒雲がむらがっている時には、光がいつもよりはっきり見える。日が没し、暴風がやって来ようとしている時、天の船長は乗組員に最も近い所におられる。私たちが最も落胆している時こそ、聖霊の慰めによって高められることは、なんという祝福であろう。
その理由の一つは、試み自体が慰めを入れる余地を作るからである。偉大な心は、大いなる悩みによってのみ作られ、悩みのくわは慰めの溜め池を深く掘り下げて、さらに多くの慰めがたたえられる余地を作る。神が私たちの心に来られ、それがいっぱいであるのをご覧になると、私たちの慰めを砕いてそれをからにされる。そうして恵みを入れる余地が作られる。人は謙遜になればなるほど多くの慰めを受ける。慰めを受けるのに適した状態となるからである。
私たちが悩みの中にいて最も幸福であるもう一つの理由は、私たちが親しく神と相談を始めるからである。倉が満ちている時には人は神なしに生活し、財布が金ではち切れそうな時には祈りなしに暮らそうとする。しかし、ヨナのように一度とうごまが取り去られると、私たちは神を求める。家の中の偶像が取り去られると、私たちは主をあがめないわけにいかなくなる。谷底から来る叫び声ほど聞こえやすいものはないように、深い試みと苦悩にあるたましいの奥底から来る祈りほど、力強いものはない。それが私たちを神のみもとへ伴っていき、私たちを幸福にする。なぜなら、神の近くにあることは幸福だからである。
悩める信者よ、来れ。あなたの重荷のためにいらだってはならない。なぜなら、それは深いあわれみの来る前ぶれだからである。

 


第1列王記19章19-21節

2015年02月12日 07時25分42秒 | 聖書

19:20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
19:21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。



 エリヤは、主の命令に従ってホレブから出て、エリシャの住んでいた地に行って彼を見つけ、その肩にエリヤの外套をかけました。

それは預言者としての、使命の委託でありました。

その時エリシャは、それが何を意味するのかはよくわかったようです。

彼はエリヤに従っていくことを決心しました。

しかし、その前に彼は、家族との別れの時を持ちたいとエリヤに願いました。

エリヤは行ってきなさいと言いました。

ちゃんと挨拶をして、働きに就きなさいと言ったのです。

 主の召しに従う道は、いろいろあることを知るのです。


マタイの福音書25章21章, 23章(詩篇147篇)

2015年02月12日 07時23分33秒 | 聖書

★その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

■O:今日のコラム
「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

私たちは、この言葉を主から直接言われることを切に願い求め、この地での人の評価を求めず、主の評価だけをひたすらに求めて、歩んで行く者たちです。
私も、この言葉を主から言われたい!と切に望む者のひとりです。
私たちが、主から「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言われるためには、「わずかな物に忠実」でなければいけません。

わずかな物、事に忠実ならば、主は多くの物、事を任せてくれるのです。
それは「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実(ルカ16:10)」であるからです。

主が見ているのは、大きい事ではなく、わずかな事、小さい事に忠実であるかどうかです。
私たちが思う大きな事をするときではなく、小さな事をするときこそ主は見ているのです。
人前で行うこと、人からも分かる、認められるような大きな事をするときではなく、主が重要視しているのは、人が見ていなくても、人から分からないことであっても、日々の生活の中でしている小さな事、任されているわずかな物事に忠実であるかどうかです。

日々するべき、任されているほんの小さなこと、また人目につかず小さい事と思ってしまうようなこと、そのような物事にこそ私たちは忠実でなければ、主からの評価を受けることはできません。人からの評価と主の評価は同じとは限らないのです。
主からの評価を受けるには、わずかな物事、小さい事に忠実でなければいけません。
わずかな、小さい事に忠実であるためには、私たちが持っている「小さい事」「大きい事」の考え方を変える必要があります。

私たちはこの世的な価値観で「大きい」ことを重要視し、「小さい」と思うことを軽視してしまいがちですが、主が重要視しておられるのはこの世的な価値観での「大きい」ことではなく、むしろ私たちが「小さい」と思ってしまうことを重要視しておられるからです。

今日の箇所では、主人がしもべに任せた「わずかな物、ほんの少しの事」とは主人の財産であった5タラントと2タラントのことであることが25章に書かれています。
2人のしもべは、それぞれの能力に応じて主人から渡された5タラント、2タラントに忠実であったので、主人からよくやったと褒められたのです。

タラントとは、当時のギリシャ系の通貨と計量の最大単位であり、通貨の場合1タラントは6000デナリに換算されます。当時は1日働いて得る1日分の給料が1デナリでした。
もし、約300デナリを1年間分の給料として考えると、5タラントは100年間分の給料(今の私たちに当てはめて1デナリを約1万円として計算すると、約3億円相当)、そして2タラントは40年間分の給料(約1億2千万円相当)にもなるのです。

タラントは最大単位であったので、当時はタラントの額はあまりにも大きすぎるため、日常生活では使われることはほぼない単位でした。
それほどにまで、主人はとても大きな額の物、とても多くの物をしもべたちに渡して、任せましたが、主人はそれを「わずかな物、ほんの少しの額の物」と考えていたのです。

私たちの主人である主も同じような考えを持っている方です。
主は私たちが思う「小さい」ことを小さなこととは思ってはおられず、私たちが思う「大きい」ことを大きいこととは思ってはおられないのです。

天の御国の価値観しか持たない主は、最も小さい者たちにしたことが最も偉大な主にしたことと思っておられ(マタイ25:40)、身長を50cm伸ばすこと、いのちの時間を延ばすことをとても小さいこととして考えておられ(ルカ12:25-26)、戒めのうち最も小さいものの一つを守り、守るように教える者を偉大な者と考えておられ(マタイ5:19)るのです。
主にとって、私たちが思う「小さい」ことは「大きい」ことであり、私たちが思う「大きい」ことは主にとっては「小さい」ことなのです。

どんなことにも忠実になるためには、御国の価値観とこの世の価値観の大きさの概念は全く違うものであることを常に覚え、自分の持つ大きい、小さいの価値観を取っ払い、主が持っておられる価値観を持つように私たちの考えがシフトされなければいけません。
主に「よくやった。忠実なしもべだ」と言われるためには、小さなことを小さなことと思わず、大きいと思うことだけにフォーカスせずに、どんなことをするときであっても、どんな小さいと思うことでも私たちが主のみことばに従い、任されていることに忠実であるならば、主はその「小さい」ことを偉大な大きいこととして見ておられることを覚えて、小さいと思うことほどに、忠実になっていくことが大切なのです。任されていることが、どんなにわずかであると思ったとしても、少し、わずかだと思うことほどに忠実になることが大切なのです。

忠実というギリシャ語ピストスには、信仰深いという意味もあります。私たちは、日々の生活の中で、小さなことは大きいことであるという信仰、その小さなことを主は見ておられ、評価し、報いてくださるという信仰、小さい事に忠実ならば大きいことを任せてくださるという信仰を持つことが必要です。
マタイ25章では、5タラントを預かり、更に5タラントをもうけたしもべも、2タラントを預かり、もう2タラントもうけたしもべも、主人に言われたこと、また主人からの評価は全く同じでした。
5タラントと2タラントには、大きな差がありますが、主人にとってその大きさは関係ないのです。
私たちの主にとっても、大きさ、小ささ、そして私たちがしていること、任されている働きの多さ、少なさは関係ありません。

主だけの評価を求める私たちは、人と大きさや多さを比べる必要もないのです。
大きい事、小さい事に関係なく、主がそれぞれに語っていること、任していることに「忠実である」かどうかを主はみておられます。
そして、主はいつでも私たちを見ておられ、私たちはいつでも主の御前を歩む者であるので、小さいこと、大きいことに捉われずに、どんなことも偉大な主である神の前でしていることを常に覚え、わずかなこと、小さいことに益々忠実である者になることを切に願い求めます。


■A:考えてみよう
主に任されているわずかな事、物に忠実であるだろうか?小さいことに忠実であるだろうか?
自分の持つ小さい、大きいの価値観、自分が重要視していることは、主の価値観、御国の価値観と同じであるだろうか?
自分が任されていることを、人と比べてしまってはいないだろうか?
小さいと思うことほど大きいことと主は見てくださっている信仰を持てているだろうか?
どんなことをするときも、偉大な主の前でしていることをいつも意識できているだろうか?
主からの評価だけを求め、主に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われることを切に願い求めるか?
小さいこと、わずかなことにも忠実であるために、主が自分に任せておられるわずかな物、事、そして主が自分に忠実であってほしいと願っている小さい事が何であるかを今朝主に聞きましょう。そのことに忠実になるために具体的に日々実行していくべきことは何か?


■P:祈り
主よ。小さいこと、わずかなことに忠実でなかったことを悔い改めます。あなたに任されていること、日々語られいるみことばを実行すること、人目につかぬ小さいと思うことに忠実になることができるように助けてください。
自分の思う大きいこと、小さいことの価値観や重要視していることがあなたと違うことがあったことを悔い改めます。あなたの価値観、考え、見方を持つことができるように私の思い、考えを変えてください。
どんなときも偉大な神であるあなたの前でありますから、小さいことも偉大で大きいことであることを感謝します。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。」といつかあなたに直接言われることを夢見て、あなたの評価だけを求めて歩み続けます。
今日も小さいことに、わずかなことに忠実になることができるように助けてください。
愛するイエス様の御名でお祈りします。アーメン。


2月11日(水)のつぶやき

2015年02月12日 01時56分56秒 | キリスト教