座間コミニティー

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◆「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、

2015年02月24日 17時05分18秒 | 聖書

あわれみを施されないのですか。……」すると主は……御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた。(ゼカリヤ一・一二、一三)

悩みゆえに叫ぶ問いに対する、これはなんという優しい答えであろう。おおシオンよ。あなたのために良いものが蓄えられている。あなたの苦しみの時はたちまち過ぎ去り、子らは連れ戻され、今の捕われの時は終わるであろう。しばし、忍耐してむちを忍べ。そして暗やみの中にあっても、なお神に信頼せよ。神の愛はあなたに対して燃えているからである。神は無限の心を傾けて教会を愛される。ゆえに雄々しくあれ。神が「良いことば、慰めのことば」で語りかけられた者が、どうして繁栄から遠く離れていることがあろう。
さらに預言者は、この慰めのことばがどういうものであるかを、こう語っている。「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」主はこの上なく教会を愛されるゆえに、教会が他に心を移すのを耐えがたく思われる。また、教会が他に心を移す時にあまりにも大きな苦しみを受けるのを、主は耐えがたく思われる。そこで主は、その敵が教会を苦しめるのをそのままにはされず、敵に対して怒りをもって臨まれる。神が教会から遠く離れておられると見える時、神の御心は教会に対して熱く燃えている。
歴史は私たちにこう教える。すなわち、神がしもべたちを懲らしめるため杖を用いられる時は、いつでもその後で杖を折られることを。それはあたかも、神の子どもたちに苦痛を与えたその杖を憎まれるかのようである。神はその民よりも、その痛みにはるかに敏感であられる。
神は私たちを忘れてはおられない。私たちをむち打たれるからだ。むち打たれることは、神に愛がないことを意味するものではない。あなたは、主がそしらぬ顔をしてあなたのそばを通り過ぎられるのではないかと恐れるかもしれない。が、主は、あなたがその御手による唯一の被造物であり、主の愛される唯一の聖徒であるかのように、詳しく知っておられる。

 


「年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。

2015年02月24日 17時04分31秒 | 聖書

女はそのままそこにいた」(ヨハネ8:9)

姦淫の女が、パリサイ人達によって、主の前に連れて来られた。
主を追い詰めるためであった。
姦淫の女を赦すなら、律法に違反する事になる。
しかし、律法に従うなら死刑だ、ならば主が説いている愛はどうなる。
主はその問いには答えられず、「罪のない者が石を投げよ」と言われた。
すると、年長者から去り、結局、皆去って主と女だけが残った。
つまり、彼らも良心に触れられ、自分の罪がわかったわけだ。
しかし、罪を認めたくないので、主のもとから逃げ去った。
その女だけは逃げる事をせず、そのままそこにとどまっていた。
もう皆からさんざん何もかもを暴き立てられ、ボロボロ状態だ。
隠すことも出来ないよりも、隠すものすらない状態だ。
もう裸だ。そんな彼女は、砕かれてきっていた。
砕かれた心で、主を信じ、受け入れた。
すると「わたしもあなたを罪に定めない」との主の赦しを受け取った。
姦淫の女は罪が完全に赦され、「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく」これから光の中を歩んで行く者とされた。
正しいパリサイ人達は罪を認めず、やみの中を歩み続け、罪深い姦淫の女が罪赦され、光の中を歩んで行く。
まさに対照的だ。罪が照らされる時、痛いが逃げずに認めよう。
の中を歩み続ける者とされる。
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罪を認めることは歳を重ねるごとに難しくなるが、罪の赦しを知っている私達は罪を認めて、認めて歩む事が感謝だ。
高慢から守られ光の中を歩んで行ける。


今日の聖人の記念日

2015年02月24日 07時09分14秒 | キリスト教

聖エセルバート1世

550年ごろ-616年

 イギリスの王であったエセルバートは、フランク王国の王女ベルタと結婚した。キリスト教徒であった妻の影響もあり、王は597年にローマ教皇グレゴリオ1世からイギリスに宣教のために派遣されたアウグスティヌス(5月27日参照)たち宣教師を快く迎え、その活動を認めた。そして王自らも洗礼を受け、近隣の君主たちにもキリスト教を広めた。 カンタベリーをはじめロチェスターなど各地に聖堂や修道院を建設し、政治についても法律を成文化するなどの貢献した。


◆自分の咎に捕えられる

2015年02月24日 07時08分04秒 | 聖書

悪者は自分の咎に捕えられ、
自分の罪のなわにつながれる。
彼は懲らしめがないために死に、
その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。(箴言五22―23)

ある時、他の人のクレジットカードを盗み、一六七点一一〇万円の買い物をしていたOL二人がつかまった新聞記事を読みました。この二人は工夫に工夫を重ね、用心に用心をしてクレジットカードを使っていたのに、なぜ見つかったのでしょうか。新宿のカメラ店でそのカードでカメラを買ったところ、店員がカードの名前を読んで、E子さんですねと念を押した時、二人で口をそろえてハイと答えてしまったのがきっかけでした。まことに、「自分の咎に捕えられる」とはこのことでしょう。だれも罪からは逃げられません。
しかし、自分の罪を深く悟って心から悔い改めるなら、神はすべての罪をゆるしきよめてくださいます。くだけ悔い改め神にたよる人には、神はどんな罪もゆるしてくださいます。聖書の中で、神は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ一18)とおっしゃいます。
しかし、神に見放された人を、神は放置しておきます。罪のこらしめがないため、その人は罪を認めず罪を悔いません。そして、そのまま神なんかからは逃げきれると思いこんで死に、さばきに会うのです。
「幸いなるかな罪よ」とルターが言い、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる」(ローマ五20)と聖書が言うことばは味わうべきです。
「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザヤ五五7)。

 


◆わたしは……

2015年02月24日 07時07分21秒 | 聖書

季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。(エゼキエル三四・二六)

これは主権者のいつくしみである。「わたしは……雨を降らせる」と言い得る者が神のほかにだれがあるだろうか。雲に向かって語り、雨を降らせるように命じることができるのは、ただ神お一人である。地上に雨を降らせる者はだれか。野菜の上に雨を注ぐ者はだれか。それは主ではないか。あわれみの神の賜物であり、人の造り得るものではない。
それはまた必要な恵みである。土地は雨がなけれは、どうすることもできない。あなたは土くれを砕き、種を蒔く。しかし雨がなければ、どうだろう。神の祝福はどうしても必要である。神が豊かな雨を降らし、救いを下されるまでは、あなたはむだな働きをする。
さらにまた、これは豊かな恵みである。「わたしは……雨を降らせる」とある。「しずくをこぼす」のではなく「雨を降らせる」のである。神が祝福を与えられる時には、いつも受けきれないほど多く与えてくださる。豊かな恵みよ。私たちは謙遜であり続けるため、祈り深くなるため、また聖潔になるために、豊かな恵みを必要としている。熱心になるため、生涯救いより離れることのないため、そしてついに天国に達するために、豊かな恵みが必要である。
さらに、それは時に応じた恵みである。「わたしは……季節にかなって雨を降らせる。」今朝のあなたの時はどうであろうか。かんばつの時であろうか。それならば雨を要する時である。重苦しい黒雲のただよう時であるか。それも雨を要する時である。
「あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」ここにもまた種々の祝福がある。「それは祝福の雨となる」の雨は複数である。神はあらゆる種類の祝福を送られる。すべての神の祝福は、黄金のくさりの輪のように群れとして与えられる。神が回心の恵みを与えられる時には、慰めの恵みも与えられる。
神は「祝福の雨」を送られるのである。しおれた草木であるあなたは、今日、上を見上げ、あなたの葉と花を開いて天よりの慈雨を受けなければならない。

 


第1列王記21章5-7節

2015年02月24日 07時05分53秒 | 聖書

21:7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」


 アハブ王はナボデによって拒否されてしまったので、そのことで悩んでいました。

ところが、そのことを見た彼の妻イゼベルは、彼に対して「あなたは王ではありませんか。」と告げ、そのことに基づいて、私が事の解決を図ってあげましょうと伝えました。

 彼女にとっては、王というのはこの世の権力者でありました。

従って、自分の思い通りの事を行うことができる者だと思っていたのです。

この考えは、この世の支配者に共通する考えです。

 しかし、主の民の支配者は、異なっていました。

主の民の支配者は、神によって立てられたものですから、神の御心である律法の戒めに従うことが、第一でした。

従って、律法の戒めに基づいて、神の御心を敬う人々を愛して、その彼らに仕えることが、求められていたのです。


サムエル記第二19章13節

2015年02月24日 07時03分27秒 | 聖書

★またアマサにも言わなければならない 。『あなたは、私の骨肉ではないか。もしあなたが、ヨアブに代わってこれからいつまでも、私の将軍にならないなら、神がこの私を幾重にも罰せられますように。』」

サムエル記第二20章5, 11節
★そこでアマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。
★そのとき、ヨアブに仕える若い者のひとりがアマサのそばに立って言った。「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。」

■O:今日のコラム
2月24日の朝です。今日1日、重荷を主の前にもっていき、主と共に歩んでいきましょう。主に忠実な者となるためです。

アマサさんは、ダビデ王に反逆した息子アブシャロム君の軍の隊長をした男です。ダビデ王は、アブシャロム君を殺した現隊長のヨアブさんを1度降格させ、アマサさんを引き戻しました。この事でダビデ王は、アブシャロム君を支持したユダの人々の心をつかみました。

しかし、アマサさんは隊長として立たされましたが、次の戦いの時に軍を集めることができませんでした。それは、アマサさんが一人に仕えることがなかったからだと思いました。忠実さがないことが、周りに見えていました。優柔不断さがあり、今目に見える自分にとって良いモノに捕らわれていたからです。アマサとは「重荷」という意味があります。アマサさんは、常に自分で重荷を負い、人の評価を求めていました。

一方、ヨアブさんは、ダビデ王のために忠実な者でした。やり方は時に大胆すぎる程でしたが、その奥底には、ダビデ王を「たてあげる」という思いでした。ダビデ王に様々な意見を伝えました。反逆したアブシャロム王子にとどめを刺すことで、アマサさんに将軍の座を奪われましたが、それでもダビデ王がしてもらいたいと願っていることに耳を傾けていました。ダビデ王が謀反者シェバを追うことに、兄弟アビシャイに伝えた命令を聴き、従っていきました。どこまでもダビデ王についていく者でした。最終的には、ダビデ王の全軍の長へと回復していきました。イエス様とペテロさんの関係に似ているかもと思いました。

イエス様は、どこまでも天のお父さんに忠実でした。天のお父さんの思いを聴き、聖霊様に従うことの見本を見せてくださいました。僕らが負うべき十字架の重荷を、イエス様が背負ってくださったのです。忠実な聖霊様が僕らの内側に住んでくださるのです。そして、イエス様は、忠実なペテロさんを祝福し、イエス様をキリスト(救い主)と告白する信仰のうえに教会をたてあげると宣言されました。だから、重荷を主の前にもっていき、主と共に歩んでいきましょう。


■A:考えてみよう
主の前に、自分の主に忠実になれない甘さをもっていきましょう。自分の重荷を主の十字架の前にもっていきましょう。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月23日(月)のつぶやき

2015年02月24日 01時52分08秒 | キリスト教

サムエル記 第二 18章29節(サムエル記 第二 17章) goo.gl/QIFXrP


◆わたしは決してあなたを離れず、 goo.gl/XVpj7G


洒落ですが、、、、、/Twitterより goo.gl/ECcHSF


新基地ノー 思い一つ/辺野古県民集会 民意無視は許さない・・ goo.gl/lkiQBz


「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、 goo.gl/l3nKQZ