座間コミニティー

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◆そこに主がおられた。

2015年02月17日 17時02分31秒 | 聖書

(エゼキエル三五・一〇)

エドムの王たちは国中が荒らされているのを見て、容易に征服できると思った。しかし、それには一つの大きな困難があった。彼らは全く知らなかったが、「そこに主がおられる」という事実であった。主がそこにおられるので、神の民の国土は安全であった。敵がどのような策略を巡らそうと、神の民はその裏をかくことができた。
聖徒は神のゆずりの地である。そして神は聖徒の中心にあって彼らを守られる。悩みの時に、戦いの時に、この確信はなんとすばらしい慰めであろうか。私たちは絶えず悩まされている。しかし私たちは常に守られている。サタンはなんとしばしば、私たちの信仰に火矢を射ることであろう。しかし私たちの信仰は、地獄の火矢の力をものともしない。火矢はそらされるばかりでなく、信仰の盾に触れる瞬間に消え失せる。「そこに主がおられる」からである。私たちのよいわざはサタンの攻撃の的である。かつて聖徒のよい行いで、地獄の弾丸の的とならないものはなかった。それが輝かしい希望であれ、また温かい熱烈な愛、一切を忍ぶ忍耐、燃える火のような熱心であっても。あらゆるよいものの敵であるサタンは、それを滅ぼそうと試みる。ただ「そこに主がおられる」という理由のゆえに、私たちのうちには高潔な愛すべきものが残っている。
主が生涯を通して共にいてくださるなら、信仰の消滅を恐れる必要はない。それは私たちが死に瀕する時にも、「そこに主がおられる」ことを見いだすからである。大波がさかまき、水が氷のように冷たくても、それがよいものであることを知り、川底を踏みしめるであろう。臨終の時にも、私たちは千歳の岩の上に立つであろう。
愛する友よ。信仰生活の初めから終わりまであなたが滅ぼされないのは、「そこに主がおられる」からである。永遠の愛なる神が急変し、選ばれた民を滅びに任せられるなら、神の教会は滅ぼされるかもしれない。しかし、そのようなことは決してない。なぜなら、「そこに主がおられた」と記されているからである。

 


『イエスは彼に言われた。

2015年02月17日 17時01分38秒 | 聖書

「起きて、床を取り上げて歩きなさい」』(ヨハネ5:8)

もし人が病気になっても、それが普通の状態、正常な状態だと思っているなら、病気が治ることはない。
病気が治るには、自分が病気だと認識しなければならない。
私達も癒されるためには、自分が病んでいる、この状態は正常ではないと認識することが重要だ。
自分の自我や自己中心には目を向けないで、相手の欠点ばかり責めているなら、いつまでたっても、その状態は改善されず、延々同じ事の繰り返しのままだ。
何の成長も無い。
相手の欠点ではなく、それに反応して相手を攻撃し、責める「自分の問題」だと気づき、認めて行く時、変えられて行く。
この人は「池の中に私を入れてくれる人がいない」と、人のせいにしていた。
助けてくれる介助人がいない、だから自分は良くならない。
人に依存してしまっていた。
人に依存すると無気力になる。
うまく行かないのは人のせい、人が悪い。
その、人依存が問題なのだ。
主は「起きて」と言われた、床を取り上げて、自分の足で歩けと。
人はいっさい関係なく、問題は、人に、病気に、依存している自分にあると気づき、認める時、主のみわざはすでに始まっている。
自分の床って何だろう。
自己憐憫、諦め、不満、不信仰、偶像に頼る心…その床を取り上げて、神を、御言葉を心底頼って歩く事を始めよう。
自立とは神だけに頼ることだ。
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前進を妨げているのは、人でも環境でもなく、自分の問題だ。
起きて自分の足で歩んで行く気は本当にあるのかどうかだ。
自分の弱さ、足りなさを認めよう。主が立たせて下さる。


今日の聖人の記念日

2015年02月17日 07時28分21秒 | キリスト教

聖母のしもべ会7聖人

13世紀中ごろ-14世紀

 7人はイタリア、フィレンツェの貴族であった。1233年8月15日(聖母マリアの被昇天の祝日)に聖母マリアが各人に現われ、ともに神に従って生活を始めるように言われたことを機に、修道生活を始めた。この生活はいつしか評判になり、多くの人々が教えを求めに訪れたので、彼らはモンテ・セナリオに行きそこで修行を続けた。アウグスチヌスの会則によるたく鉢修道会へと発展してゆき、聖母マリアへの信心を広めていたことから「聖母のしもべ」と呼ばれるようになった。

 多くの人が入会し、1250年にはトスカーナ市に「聖母のお告げの教会」聖堂を建てた。7人は生誕、死去も異なるが、みな同じ墓に葬られた。

 7人の名前
  ボンフィリオ・ディ・モナルディ
  ヨハネ・ディ・ボナジュタ
  ベネディクト・デル・アンテラ
  バルトロメオ・デリ・アミディ
  リコヴェロ・ディ・ウグチオネ
  ジェラディノ・ディ・ソステショ
  アレキシオ・ファルコニエリ


◆まっすぐに前を見よ

2015年02月17日 07時26分30秒 | 聖書

偽りを言う口をあなたから取り除き、
曲がったことを言うくちびるを
あなたから切り離せ。
あなたの目は前方を見つめ、
あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。(箴言四24―25)

きょうのことばは、私たちからうそ偽りを取り除け。そして、まっすぐ前を見よ。――こういうことです。
なぜ私たちは、ばかげたほどにうそをつくのでしょうか。偽りは人格をだめにし、いつかそれが割れて人生そのものをだめにするものです。それなのに、私たちの毎日の生活に、うそ・偽りが多すぎるのはどうしてでしょうか。
私たちが、実は全くいやになるほど自分の利害得失にこだわっているからではありませんか。人によく思われよう、人よりえらく見られたい、人よりきよいと見てもらいたい、自分のほうがいくらかでも他人より得をしたいと思うので、真実が見えてきません。自分にとって真実によいことが分かりません。ほんとうにためになることはこれだと、見分けることができないのです。
「岡目八目」と言われるように、自分の利害得失がからまない第三者には、物事がよく見通せます。目先の利害得失にとらわれた際限のないエゴエゴの生き方を捨てましょう。そして、高く遠くまで見ているお方・最終的に善と幸福を与えてくださる神を見つめることです。
人は、後ろ姿が寂しくてはいけません。自分のことにばかりかまけて、下を向いてトボトボ歩くのはいけません。神をまっすぐに見て、神が見るとおりに、神が私たちに立てていてくださる人生のご計画を知り、前方を見つめ、胸を張ってまっすぐに前進したいと思います。
「しかし、主よ。あなたは……私のかしらを高く上げてくださる方です」(詩篇三3)。

 


◆イサクはベエル・ラハイ・ロイの

2015年02月17日 07時25分28秒 | 聖書

近くに住みついた。(創世二五・一一)

かつてハガルはここで命拾いをし、イシュマエルは、生きて人の子らを守っておられる神の手引きによって、この泉から飲んだ。しかしこれは、世の人々が困った時にだけ神にすがるような一時的なものにすぎなかった。彼らは困った時には神に向かって叫び求めるが、繁栄の時になると神を捨ててしまう。しかしイサクはそこに住み、生ける全知の神の泉から不断に供給を受けていた。
人間の生涯の方向、たましいの現住所はその人の真の状態を示している。ハガルが摂理に導かれてここに来たことが、イサクの心を打ち、この場所をあがめるようになったのかもしれない。その神秘的な名のために、イサクがこの場所に親しみを覚えたのかもしれない。また彼が夕方になると毎日泉のそばで黙想にふけったことが、その場所をなつかしく思わせたのかもしれない。最初リベカにここで会ったので、この場所を好んだのかもしれない。しかし、最大の理由は、ここで生ける神と交わったということである。それだから、彼はこの聖なる地を住居に選んだのであった。
生ける神の御前に生活することを学ぼうではないか。この日も、後の日も、「あなたはご覧になる神」と感じることができるように祈ろうではないか。
人間の作った水がめはひびが入って水もれがする。しかし、創造者の泉は決して涸れることがない。この泉の近くに住み、豊かな不断の供給を親しく受ける者は幸いである。
主は多くの人々の確かな助け手であられた。その名はシャダイ、すなわち「全能者」である。私たちの心は、しばしば神と喜ばしい交わりをもった。神を通して私たちのたましいは、私たちの栄光の夫である主イエスを見いだし、今日も主によって生き、動き、また存在しているのである。最も親密な交わりのうちに住もうではないか。
栄光の主よ。あなたを離れることなく、生ける神の泉の近くに住むことを得させてください。

 


第1列王記20章19-22節

2015年02月17日 07時24分01秒 | 聖書

20:22 その後、あの預言者がイスラエルの王に近寄って来て言った。「さあ、奮い立って、これからなすべきことをわきまえ知りなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るから。」



 アハブの下から遣わされた若者たちとその軍隊は、アラムの王ベンハダデの軍隊を襲って打ち破り、彼らを追放することができました。

その戦いによって、敵は大損害を受けてしまいました。

 こうしてベン・ハダデの軍に勝利を収めたアハブ王に対して、再び預言者が近寄って、彼に告げました。

彼らが来年の今頃、再び侵入してくるので、そのための備えをして成すべきことをしなさい、と告げたのです。

 この預言者は、先に告げたように、この戦いの勝利は主によっているということをアハブが悟り、その認識に立って、これからの事のために備えなさいということを告げたのです。

 1つのことに勝利したからといって、まだ戦いが終わっていない現実がある時に、同じ主によって導かれて、備えをすることが必要なのだ、と告げたのです。



サムエル記第二 5章20,21節

2015年02月17日 07時21分19秒 | 聖書

★それで、ダビデはバアル・ペラツィムに行き、そこで彼らを打った。そして言った。「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。」それゆえ彼は、その場所の名をバアル・ペラツィムと呼んだ。
彼らが自分たちの偶像を置き去りにして行ったので、ダビデとその部下はそれらを運んで捨てた。

サムエル記第二6章7,8節
★すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。
ダビデの心は激した。ウザによる割り込みに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。


■O:今日のコラム
2月17日の朝です。今日1日も主に期待して、主を正しく知ることができるように、主を求めていきましょう。主の御心、御言葉、主御自身を正しく知るときに、僕らは、正しくペレツすることができるからです。

ペレツは「割り込む」という意味です。僕は、割り込むと聞くとあまり良い印象を受けませんでした。しかし、割り込むことにも、良い割り込みがあるのだとわかりました。

5章では、敵の侵入に対して割り込んだダビデ王を知ることができます。ダビデ王は、戦う前にまず主に聞きました。そこからスタートです。そして、確信をもって戦いに出て行くことができるのです。

勝利を得た時、ダビデ王は、申命記の御言葉を実行します。敵が置いていった偶像を「捨てた」のです。御言葉を知って、実行しました。人の考えではなく、主の御言葉を選択しました。主は勝利を与えてくださいます。

6章は、神様の箱(主の臨在)を運ぶ大切な働きを知ることができます。前半の運び方は、主がモーセに伝えた方法ではありませんでした。そして、ウザさんは、神様の箱を自分で制御しようとしました。「自分が押さえなければ、自分の力がやらなければ、神様の箱が落ちてしまう!!」と。神様は、神様だから、僕らの助けはいらないのです。神様は、罪以外の全てができるお方です。このお方を、僕らが押さえてはいけないのです。そして、主の御言葉を知って選択する必要があります。

『熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。』(箴言19:2)

熱心なウザさんに知識があったなら。民全体に御言葉を知って選択しダビデ王に伝える者がいたならば。

イエス様は、僕らの人生に割り込んできました。イエス様の家系にユダさんのタマルさんによる息子ペレツさんがいるほどです。創造主が、僕らと共に歩むためにこの地に下ってこられたのです。僕らと天のお父さんとの間に割り込み、赦し、僕らを解放し、回復させ、癒し、いのちを与えるために、十字架に架かられたのです。

聖霊様は、僕らの内側で、肉の欲と天のお父さんの御心との間に割り込んでくださいます。イエス様を主と告白する信仰を与えてくださいます。御言葉に理解を与えてくださいます。御言葉を実行する力を与えてくださいます。

ダビデ王は、ここで悔い改め、神様の箱を運ぶ方法を知り、供え物をし、力の限り賛美し踊り、神様の箱をエルサレムまで運ぶことができました。主の臨在を運ぶことができたのです。

僕らも、悔い改め、主に正しい割り込みをしていただき、主の臨在を運ぶ者となっていきたいです。今日1日、主の割り込みを求めていきましょう。


■A:考えてみよう
主の割り込みがあるならば、あなたはどの様な態度をとることができるだろうか?主の割り込みを読み取れるように目を開き、耳を開いて備えていきましょう。主の臨在を自分の行く場所に運ぶ者となっていきましょう。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月16日(月)のつぶやき

2015年02月17日 03時47分54秒 | キリスト教