最近、岐阜県関市の円空館に行ってきた。
弥勒寺は円空さんが選んだ最後の地。
このお寺の近くに円空館がある。
しばらく歩いて竹藪を抜けると建物が見えてくる。
円空仏は昔はあまり興味無かったが、年を重ねるにつれてその良さがわかるようになってきた。若い頃は粗削りで未完成に見える作風が馴染めなかったのだが、今はその馴染めなかったところが良く思えてくるから不思議。
館内はお客さんは居ないが撮影は禁止。スケッチも出来なかった。円空仏は実物を観ると粗っぽさは感じられず完成度は高いという印象を持った。展示室の一番最初のところにあった聖観音像を記憶をもとに描いてみた。
丸太を半分に割って浮き彫りのように彫ってあり、光背のあるのが珍しいと職員さんが説明されていた。明治26年長良川の大洪水の時に関市に流れてきたのを川から引き揚げたらしい。足元に天邪鬼が彫ってあり、観音様が天邪鬼を踏みつける像というのは普通は無いようだが、円空さんは何らかの意図があってそうしたのだろうということだった。
円空仏は細部は省略または簡略化されたものが多く、無駄な表現を極削ぎ落したものが多い。言い換えれば必要なものだけを残したということか。仏様のフォルムとして大事なところがどこで、どこまで作ればそれを仏さまと認識できるのかをよくわかっているのだろう。余計な説明を省いたことで鑑賞者が想像力で補うことを促進させる。観る人が像を完成させる。観る人の想像力を活性化させる効果がある。口元をマスクで隠して目元だけを有名芸能人メイクをすることで全部を似せようとするよりも鑑賞者が脳内で補足することで多少難があってもソックリだと思わせるテクニックと似ているかも。円空仏を観ていて、洋画家の有元利夫さんの人物造形を連想した。有元さんの人物もある種の聖なるものの普遍的な造形を体現しているように思う。晩年の人物は仏画のようだった。人を感動させるのは「処理しきれないほどの情報量が引き起こす混沌だ」というような趣旨のことを大林監督がパンフレットに描かれていたのを覚えているが、「長岡花火物語」だったと思う。それとは対極にあるけれど、鑑賞者の想像力を活性化させる表現対象の簡略化も、人を感動させるもう一つの方法だということか。