家々の入り口に「子供るす」と書かれた半紙が、なぜか逆さまに張り付けられている。はしかの流行期になると、京の町でそんなおまじないがよくみられたという。医師で評論家だった松田道雄さんが随筆で回想している▼半紙の言葉は、疫病神へのメッセージだ。子どもは今、家を空けていますので、どうかお引き取りください。まだはしかにかかっていない子を守りたいと願う親の切実な心のあらわれだろう▼松田さんは後日、病魔が空に逆立ちし、病人に熱湯をかけている古い絵をみつけた。半紙がひっくり返っていたのは、病が空からやってくると恐れられていたからのようだ▼逆さまの半紙に書く言葉は、さしずめ「身重の人るす」であろうか。首都圏を中心に患者数が昨年の十二倍近くになった風疹である。五年ぶりに、大流行の恐れがある。三日ばしかとも呼ばれ、古来怖がられた感染症だ。何より、おなかの赤ちゃんへの影響が怖い。妊娠初期に感染すると、心臓疾患など先天性の病気や障害が起きる恐れがあるという▼予防にはワクチン接種が有効だ。ただ、世代ごと接種をしていない男性も、多いようだ。家庭内で男性から感染する例もあろう▼松田さんは、張り紙を家から患者を遠ざけるための京都らしい外交術ともみた。予防接種で疫病神に遠慮してもらうとともに、身重の人にうつさない配慮が必要だろう。
大昔からぐらぐらと揺れてきた国土にあって、法隆寺の五重塔は千年以上、立派に立っている。地震で倒壊したという記録もない。法隆寺の宮大工棟梁(とうりょう)だった西岡常一さんはその秘密を「がっしりとした大木」のような設計にあると見た。力を受けて大きく揺れても、しなって元に戻る。今なお驚嘆される柔構造などとよばれるつくりだ▼寸法がばらばらで、くせのある木を巧みに組み上げ、そんな構造の建物を実現した。飛鳥時代の棟梁と大工たちの腕、共同作業を成し遂げた力もまた末永く残る建物を実現した要因として称賛している。口伝で先人から伝わった「木組みは人の心組み」を感じるのだという▼地震多発の国で、末永く安全な建物を残そうという意識が、この企業の中では軽くなっていたのであろうか。油圧機器メーカーKYBと子会社による免震・制振装置のデータ改ざん問題である▼建物の揺れを少なくするためのオイルダンパーで、改ざんが判明した。製品は全国各地の公共施設や病院などにも、数多く設置されている▼人命に影響はないというが、業界大手で起きた問題だ。世の中にもたらす建物の安全への不信感は大きい▼不正は十数年にわたって続いていたようだ。似たような問題は東洋ゴムでもあった。先人から伝わり、息づいているはずの耐震への意識は廃れてきているのではないか。不安が募る。
作家の安岡章太郎さんは旧制高校受験に三年失敗している。いわゆる三浪である。何年も浪人した経験のある人とない人では「顔つきまでちがうように思われる」と書いていらっしゃる▼「何年も浪人したことのある人はどこかに“落第生”の雰囲気を漂わせている」という。この場合の「落第生」はそんんなに悪い意味ではなかろう。詳しく説明していないが、愚直でちょっと虚無的な匂いが幾つになっても残るそうだ。挫折や長い苦労が人としての味や深みのようなものを与えるのか▼安岡さんとちがってこちらの「浪人観」はただ悲しい。二浪以上の学生は「(授業内容に)ついていけないことが多かったり、国家試験に受からなかったり…」。そう語ったのは昭和大学の医学部長である▼この大学、医学部の一般入試で現役と一浪に限って加点し、二浪以上が不利になる不正な調整を行っていた。試験は公平と信じて挑んだ二浪以上の学生やその家族にとっては許せぬ話であろう▼現役と一浪だけにゲタをはかせた理由を聞いて開いた口がふさがらぬ。「将来性への評価」という。それは現役と一浪の他に将来性はないと言っているのに等しい▼慰めにもならぬが、二浪生以上の受験生に声をかけるとする。厳しい「浪(なみ)」を乗り越えた分、他人の痛みや悲しみを理解しやすくなるはずである。きっと良いお医者さんになれる。
落語の「真田小僧」に出てくる金ちゃんはずる賢い。こづかいをくれぬおとっつぁんにおっかさんの「秘密」を教えてやると持ちかけ、まず一銭、巻き上げる▼「おとっつぁんのいないときに白い服を着て色眼鏡をかけたキザな男が来た」「おっかさんが手を取って家に上げた」。おとっつぁんの気になるところで話を切ってはそのたびに「ここから先が聞きたきゃ、もう少し出しなよ」「ここから先を話すのは子どもとしてはとってもつらいんだ。もうちょっと…」。おとっつぁんは言われるがままにおあしを出してしまうが、結局、おっかさんのところに按摩(あんま)さんが来たというだけの話だった▼「真田小僧」にしてやられている気がしてならぬ。安倍首相は十五日、消費税率を来年十月一日に現行の8%から10%へ引き上げる方針を正式に表明した。導入以来5%、8%と三度目の引き上げとなる▼「財政の危機だから」「社会保障制度を守るためだから」と言葉巧みに説得され、その度引き上げをがまんしてきたが、ついには10%である▼しかもこれで将来の社会保障制度は安泰かといえば、そんな話では毛頭なく、最近の政府税調では先細りしていく年金を背景に国民の「自助努力」を促す方針という▼消費税率を引き上げる上に、老後のことは自分でも何とかしなさいよでは無策と無責任さに真田小僧も顔を赤らめるだろう。
ミッキーマウスなどの生みの親であるウォルト・ディズニーは休日が嫌いだったそうだ。休日によって仕事のペースが狂わされるのをおそれ、週末が来るたびに「いやになる」とため息をついたという▼休日の観光客でにぎわうディズニーランドをお考えになった人とは思えぬ逸話だが、理由がある。若いとき、占い師に見てもらったところ、三十五歳で死ぬであろうと言われてしまった。占いは大はずれだったが、ディズニーはそれ以降も自分には残された時間が少なく、休んでいられないと思い込んでいたようである▼ディズニーほどの「休み嫌い」は珍しいだろうが、十連休の新しいカレンダーにとまどう方もいるかもしれない。安倍首相は新天皇即位の二〇一九年五月一日を祝日とし、これによって来年の黄金週間の連休を十連休としたい意向を表明した▼十連休は祝日法制定の一九四八年以降で過去最長と聞く。ありがたいと思う一方で長期の休みを後ろめたく感じる傾向が残る日本人のこと。異例の十連休を心置きなく楽しみ、活用できるか、少々心配なところもある▼時代を見送る連休でもある。過ごし方の一つとして悪くないのはやはり故郷で思い出話を語り合うことか。昭和、平成を生きてきた人たちがそこでお待ちだろうて▼十連休が終わった翌日の五月七日のことを考えると、早くも気が重くなるのだけれど。
随分空気が澄んだと、夜、空を見れば、火星の輝きが弱々しくなっている。大接近していた夏の間ずっと、燃えるようだった。あの赤い光の記憶は異様な暑さとともにある。列島は災害に見舞われ通しだった。被災地の空に輝くのを思い出す方もおられようか▼火星はどんどん遠ざかる。次の大接近は二〇三五年九月になるという。古くは凶星とも言われた星らしいが、長い別れを思えば、名残惜しくもある▼早ければ二〇三〇年の話だというから、次の火星大接近より、前になるのかもしれない。平均気温が、産業革命の前よりも一・五度上がっている恐れがあるという地球の暑さである。国連の気候変動に関する政府間パネルが、特別報告書にまとめた▼それ以上上がれば、干ばつや豪雨、熱波などの気象災害、海面上昇は深刻化するという。事態の切迫を感じさせる内容の報告書だ▼温暖化対策のパリ協定が採択されたフランスでは、報告書の発表後、大統領が「すべての人が今行動を起こさなければならない」とメッセージを発している。過酷な暑さと異常気象の夏に、気温上昇の影響が、いよいよ迫ってきていると多くの人が、実感したであろうわが国にとっても、当然、重く響く報告書だろう▼あと十数年である。再び火星が明るく輝いているころまでに、われわれは、行動できているか。知恵を発揮できているだろうか。
ミステリーの女王、アガサ・クリスティは、まるで自分がミステリーの主人公になったかのような事件を起こしている。よく知られる十一日間の失踪事件だ▼乗っていた車が、田舎道に捨てられ、車内に身の回りの物もあった。そのころ夫には愛人がいて…。殺害説も浮上し、大騒ぎになる。クリスティはホテルで見つかるのだが、真相について多くを語らずに世を去った。謎解きに挑んだ書籍や映画がつくられることになる▼こちらは一見、第一級のサスペンス劇である。国際的な犯罪対策に取り組む国際刑事警察機構のトップが突然行方知れずになる。妻の携帯電話にナイフの絵文字を残して…▼ただ、中国から総裁に選ばれた孟宏偉(もうこうい)氏をめぐるこの話、どうも中国国内の権力闘争、政治闘争劇の色が濃い。他国には理解が難しい要素が多くて、映画やドキュメンタリー向きではないかもしれない▼予想されたとおり、孟氏は母国で拘束されていた。収賄容疑で取り調べられているという。失脚だろうか。国際的な人気女優が、公の場から突然姿を消し、数カ月行方不明になったのも、話題になったばかりだ。異質の論理で動く国。そんな不気味なイメージがここに来て強まっている▼「誰もが何か隠してるものです」。クリスティの作品で活躍する名探偵ポワロの言葉だ。世界の経済大国に隠れたものが多すぎては困るのだが。
米国の心理学者が卒業アルバムを使い、変わった研究をしている。卒業アルバムの写真を何百枚と集めて、その笑顔を分析する。笑っているかどうか。それは満面の笑みか▼笑顔の度合いと写真の人物の結婚生活を検証してみたところ、あまり笑っていなかった人の離婚率は満面の笑みの人の五倍に上ったそうである。あくまで、米国人を対象にした調査で日本人に当てはまらぬだろう。卒業写真などを撮る際、日本人は米国人ほど歯を見せて笑わないものだ▼そこに満面の笑みはあるのか。心配しているのは、二〇二一年春以降に卒業する今の大学生たちの卒業アルバムの顔である。経団連は新卒学生の就職活動の解禁時期などを定めた指針を二一年卒業の学生から廃止することを正式に決めた▼新たな指針は今後、政府主導の協議で決定するが、突然、ルールが変わると宣言されても大学生や家族は戸惑うばかりだろう。何といっても基本的には六十年超続いたルールである▼将来的には新卒一括採用制度の見直し論議が起きる可能性もある。功罪半ばする日本独特の制度で時代に合わぬところもあるが、極端なことをすれば、学生から笑顔を消しかねないだろう▼新ルールが適用される学生の負担が増えるようなことはやめていただきたい。関係者はアルバムを開くべきだ。自分が就活に奔走した不安な日々を思い出されたい。