劇作家の井上ひさしさんには大学を休学し、故郷の岩手県で国立療養所の職員になっていた時期がある。ある日、療養所の所長さんから、こんな質問を受けた▼「二人の患者さんがいる。一人はボロボロの身なりで子どもを抱いている母親らしき女性。もう一人は見るからにお金持ちそうな威張り腐った態度の男性。君はどちらを先に医者へ案内しますか」-。「それは貧しい人です」。井上さんは答えた。返ってきたのは「君はだめだねえ」だった。「病気の重い方を先に案内するんだよ」。病人に貴賤貧富はなく、考えるべきは病状の重さである▼比べたくもない別の話だが、その看護師は容体の悪い患者を選んでいたという。だが、それは医療に身を置く者の判断としてではなく、身勝手な殺人のためだったとは身の毛がよだつ。横浜市での点滴連続中毒死事件である▼殺人容疑で逮捕された元看護師が、自分の勤務時間中に亡くなる可能性のある容体の悪い患者を狙って点滴に消毒液を混入していた疑いが出てきた▼自分の勤務時間に亡くなると遺族に説明が必要となる。それが「面倒だった」という理由で、誰に混入するか、病状の重さを量っていたとは冷酷さに言葉を失う▼医が存在するのは、「人の為(ため)のみ、おのれがために非(あら)ず…」。緒方洪庵の「扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)」。曲がった己のため、人の為を忘れさせたものが憎い。