「過去」は、「実体」としては終わっているのだから、悔やんでも意味がないのです。
「反省」をして、今後は、同じ間違いをしないようにすれば良いのです。
それが、「過去は、消えてゆく姿」の意味だと思うのです。
小泉首相が、8月15日に靖国神社に参拝したことの賛否が話題になっていて、
戦後の日中関係のいろいろな経緯なども含めて、NHKでも討論番組が放映されていました。
その番組を見ていて気付いたのは、賛否の分岐点は、先の戦争を「反省している」のか、
「肯定しようとしている」のかの違いだということです。
いまだに、共同体を維持する心情としての「国家」(ナショナリズム)という概念が幻想であることに気付かないことは、時代錯誤だと思うのです。「ナショナリズム」は20世紀の発想なのです。20世紀の「消えてゆく姿」なのだと思うのです。
21世紀の人類は、「人類の平和」を心に描く意識の存在なのです。
「人類の平和を願って、生きる」というと大仰に聞えますが、(^^;ゞ
それは、日々の心情のことなのです。
「人類の平和」を思って、「平和な心」を持つということは、自分のなかの「妬み」や「憎しみ」という感情と向き合うということです。
自分のなかの「妬み」や「憎しみ」という、他人を排除したいという心と向き合い、
そういう感情をコントロールできるようになってこそ、「平和な心」になれるのです。
戦争も平和も、自分の心の中の問題なのです。
石油のための戦争であっても、「敵に対する憎しみ」がなければ、戦争(殺戮)はできません。
政府は、「国家」という概念を使って、巧妙な方法で、国民に「他国に対する憎しみ」を植付けようとするので、注意しなければなりません。
不幸な戦争は、過去の因縁の「消えてゆく姿」でなのです。
私たちは、戦争を反省しながらも、「過去の記憶」に把われないで、
「今」に集中して、より良い未来を築いてゆける存在なのです。
このように考えられると、勇気が湧いてきます。
そして、「現在の戦争」を止めるために私たちに出来ることは、
自分の中の「妬み」や「憎しみ」と、向き合うことなのです。
「反省」をして、今後は、同じ間違いをしないようにすれば良いのです。
それが、「過去は、消えてゆく姿」の意味だと思うのです。
小泉首相が、8月15日に靖国神社に参拝したことの賛否が話題になっていて、
戦後の日中関係のいろいろな経緯なども含めて、NHKでも討論番組が放映されていました。
その番組を見ていて気付いたのは、賛否の分岐点は、先の戦争を「反省している」のか、
「肯定しようとしている」のかの違いだということです。
いまだに、共同体を維持する心情としての「国家」(ナショナリズム)という概念が幻想であることに気付かないことは、時代錯誤だと思うのです。「ナショナリズム」は20世紀の発想なのです。20世紀の「消えてゆく姿」なのだと思うのです。
21世紀の人類は、「人類の平和」を心に描く意識の存在なのです。
「人類の平和を願って、生きる」というと大仰に聞えますが、(^^;ゞ
それは、日々の心情のことなのです。
「人類の平和」を思って、「平和な心」を持つということは、自分のなかの「妬み」や「憎しみ」という感情と向き合うということです。
自分のなかの「妬み」や「憎しみ」という、他人を排除したいという心と向き合い、
そういう感情をコントロールできるようになってこそ、「平和な心」になれるのです。
戦争も平和も、自分の心の中の問題なのです。
石油のための戦争であっても、「敵に対する憎しみ」がなければ、戦争(殺戮)はできません。
政府は、「国家」という概念を使って、巧妙な方法で、国民に「他国に対する憎しみ」を植付けようとするので、注意しなければなりません。
不幸な戦争は、過去の因縁の「消えてゆく姿」でなのです。
私たちは、戦争を反省しながらも、「過去の記憶」に把われないで、
「今」に集中して、より良い未来を築いてゆける存在なのです。
このように考えられると、勇気が湧いてきます。
そして、「現在の戦争」を止めるために私たちに出来ることは、
自分の中の「妬み」や「憎しみ」と、向き合うことなのです。
過去が未来への障壁となるのなら、
そんな過去は捨ててしまえ!
と、常々思ってます。
「奇しくも」なのでしょうか。
NHKの討論番組でも、民放の番組でも、今回の靖国参拝問題も、過去の戦争の問題も、
「反省」という立場にたって、未来の向かっては、「雨降って、地固まる」にしなければいけないという結論でした。(*^_^*)
お互いに「消えてゆく姿」に気付いて、未来志向のより良い関係を築いていきたいですね。