自分が、「自分の天命」だと思っていることには、どれほどの信憑性があるのでしょうか?(^^;ゞ
【「自己イメージ」=「外界イメージ」=自己】なのですから、論理的には、「信憑性」の基準はなくて、
それを「問うこと自体」がナンセンスなのは、判っているのですが。(^^;ゞ
霊的には、「自分の天命」を問えそうです。(*^_^*)
【716】で、「私は、どのような天命(自己イメージ)を持ちえるのでしょうか?」と書きました。
これは、二つの内容を含んでいます。
ひとつは、「天命」の中味であり、もうひとつは、その「天命」を信じて、どれだけ継続できるのかです。
「天命」を、心底信じるということは、「神(サムシンググレート)」を信じることに通じます。
そして、その継続は、「信仰心の継続」というテーマですが、
落ち着いてみてみますと、「天命の中味」と「天命の継続」は、同じことなのがわかります。
「天命の中味」があるということは、継続しかないということなのです。
「天命の中味」を忘れてしまって、物質的な欲求や、三次元的な満足を望んだときには、
「天命の継続」できなくなっているのです。(^^;ゞ
「物質的な欲望」が、表面に出くると、自分の天命とその継続が困難になってきて、
「迷いの道」に入ってしまうという構図が、私の中にあることが分かりました。(^^;ゞ
【「自己イメージ」=「外界イメージ」=自己】なのですから、論理的には、「信憑性」の基準はなくて、
それを「問うこと自体」がナンセンスなのは、判っているのですが。(^^;ゞ
霊的には、「自分の天命」を問えそうです。(*^_^*)
【716】で、「私は、どのような天命(自己イメージ)を持ちえるのでしょうか?」と書きました。
これは、二つの内容を含んでいます。
ひとつは、「天命」の中味であり、もうひとつは、その「天命」を信じて、どれだけ継続できるのかです。
「天命」を、心底信じるということは、「神(サムシンググレート)」を信じることに通じます。
そして、その継続は、「信仰心の継続」というテーマですが、
落ち着いてみてみますと、「天命の中味」と「天命の継続」は、同じことなのがわかります。
「天命の中味」があるということは、継続しかないということなのです。
「天命の中味」を忘れてしまって、物質的な欲求や、三次元的な満足を望んだときには、
「天命の継続」できなくなっているのです。(^^;ゞ
「物質的な欲望」が、表面に出くると、自分の天命とその継続が困難になってきて、
「迷いの道」に入ってしまうという構図が、私の中にあることが分かりました。(^^;ゞ