『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【717】「自分の天命」の発見と維持(*^_^*)

2006-08-17 21:24:20 | 思索
自分が、「自分の天命」だと思っていることには、どれほどの信憑性があるのでしょうか?(^^;ゞ

【「自己イメージ」=「外界イメージ」=自己】なのですから、論理的には、「信憑性」の基準はなくて、
それを「問うこと自体」がナンセンスなのは、判っているのですが。(^^;ゞ

霊的には、「自分の天命」を問えそうです。(*^_^*)

【716】で、「私は、どのような天命(自己イメージ)を持ちえるのでしょうか?」と書きました。

これは、二つの内容を含んでいます。
ひとつは、「天命」の中味であり、もうひとつは、その「天命」を信じて、どれだけ継続できるのかです。

「天命」を、心底信じるということは、「神(サムシンググレート)」を信じることに通じます。
そして、その継続は、「信仰心の継続」というテーマですが、
落ち着いてみてみますと、「天命の中味」と「天命の継続」は、同じことなのがわかります。

「天命の中味」があるということは、継続しかないということなのです。
「天命の中味」を忘れてしまって、物質的な欲求や、三次元的な満足を望んだときには、
「天命の継続」できなくなっているのです。(^^;ゞ

「物質的な欲望」が、表面に出くると、自分の天命とその継続が困難になってきて、
「迷いの道」に入ってしまうという構図が、私の中にあることが分かりました。(^^;ゞ

【716】「自己イメージ」を生きている(*^_^*)

2006-08-16 06:36:35 | 思索
このごろ、よく考えるのは、「自己イメージ」ということです。
この「自己イメージ」というのは、とても重要なことだと思うのです。

自分が、自分のことをどのように思っているのかによって、自分の行動を決めるのですから、
「自己イメージ」というは、文字通り『自分』のことなのです。

それでいて、この「自己イメージ」とは、自分が外界をどのように「イメージ」しているのかの反映なのですから、
「自己イメージ」とは、「外界に対するイメージ」のことでもあるのです。

自己とは、外界との関係であり、自分と外界は「コインの裏表」です。
外界をどのようにイメージしているのかが、「自己イメージ」なのです。

「8時間の統一」も、自分に良き結果をもたらすという「イメージ」があったからこそ、実行できたのです。
しかも、その「イメージ」を継続できたから、達成できたのです。

やっていると、面倒に思えてきます(笑)。8時間続けるには、意志が必要のようです。

昌美氏は、8時間瞑想を2年間もされたのですから、「自分の天命」という自己イメージを、
しっかりと持っていないと、並大抵の意志では、挫折してしまうと思うのです。

さてさて、私は、どのような天命(自己イメージ)を持ちえるのでしょうか?(^^;ゞ

普通に考えれば、8時間の「統一」をしても、目に見えた結果を期待できるわけではありませんから、
なかなか、続けられないと思うのです。

ですが、「白光」の人と話したり、講話テープを聴いたりすると、
その「目に見えない効果」にも関わらず、「やってみよう」という意欲が湧くから不思議です。(^^;ゞ

私たちは、「イメージ」のなかで生きて、「イメージの死」を迎える存在のようです。

【715】8時間の「世界平和の祈り」体験(*^_^*)

2006-08-15 19:18:55 | 経験
時間があったので、長時間の「世界平和の祈り」(統一)をしてみました。
昌美氏の法話や、シニアメンバーの講話には、8時間続けて「世界平和の祈り」をした話が出てくるので、
どのようになるのか、やってみたいと思っていたのです。(^^;ゞ

まったくの切れ目なしではなかったのですが、かなりの長い時間「世界平和の祈り」ができて、
いまは、午後7時ですが、とても気持ちが落ち着いて、気持ちが良いです。

「世界平和の祈り」をしていると、空腹を感じません。
思考停止をしているからなのか、宇宙エネルギーが入ってきているのかのどちらかですね。(*^_^*)

自分でも、なぜ、8時間の「世界平和の祈り」をしたのか分からないのですが、
状況と自己イメージが、「やってみたい」という思いを形成して、実践をしたのだと思うのです。

それで、「統一」と「印」の違いも、ちょっと考えが浮かんだのですが、
これは、長時間の印を組むことが未体験なので、今はなんとも言えません。(^^;ゞ

「統一」は、頭(思考)のチカラが抜けて、頭がスウスウとして、「頭」が天と繋がっている感じがします。

そして、もう一つ分かったことは、「世界平和の祈り」をしていると、「自分」が消えるので、
「相手からみた自分」に気付けるということでした。(*^_^*)

【714】「世界平和の祈り」は、並大抵の「祈り」ではない(~o~)

2006-08-15 08:22:55 | 「白光」の教え
お盆休みで時間があるので、藤井寺のSさんにお借りている十数年前のテープを聴いています。
昨日聴いたテープは、藤井寺集会での、武田きみよさんのお話です。

録音テープというのは、凄いですね。あたり前のことですが、十数年前の声が残っていて、
縁があって、それを聴いた私が、その内容に感動して、今日、ブログ日記に書いているのですから。(*^_^*)

といいますか、何に価値があるのかというと、話されている内容が、話している人にとっても、
話を聴いている人にとっても、真理であり真実だから、感動するのでしょうね。

私の手元には、まだ聴いていないテープが200本ぐらいありますので、楽しみです。(*^_^*)

■ 武田きみよさんは、彼女なりに「神」を知覚されているようでして、
「祈り」についても、 とても深い見識をお持ちです。

白光の講師の方々は、「白光の教え」の理解や表わし方が、とても個性的で、
それぞれに深くて独自な表現をされます。

テープを聴いたり、お目に掛かったりするたびに、「白光の教え」に対しての、私の固定観念が崩れます。(^^;ゞ 
 武田きみよさんも、とても不思議な方で、私の「固定的な理解」のウロコが落ちました。(^^;ゞ
お話の内容を、箇条書きにしてみます。

★ 肉体は、神を関知するために必要なもの

★ 「世界平和の祈り」は、並大抵の「祈り」ではない

★ 「消えてゆく姿」は、明るいこと。 暗いことではない。

★ 不都合な現象は、消えるために表れているのだから、良いこと。

★ 「消えてゆく姿」はうれしいことで、決して、恥かしいことではない。(*^_^*)

自分が今、ケガをして「痛い思い」をしているとしても、
今の自分が味わっている「この痛み」を通して、「その痛み」を体で知ることによって、
他人の精神的、肉体的な痛みをわかってあげることができるようになれるのだから、
今度、「痛み」を持った人にあったら、同じ立場に立って、愛し祈ってあげることができる。

そう思うと、今の「この痛み」をもっとしっかりと、味わっておこうと思うので、
「痛み」が苦にならない、不幸だと思えないということになるのだそうです。(*^_^*)

★ 自分の「天命」を意識できる人は、最高レベルの人であり、今世で悟るために、
五井先生とのご縁で「白光」に繋がった人なのです。

★ 「天命」を知るためには、意識を覚ますことが必要です。
「真理の言葉」を聴ける人でないと、自分の意識を「天命」に向けることは出来ません。
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■ このテープを聴いてだけでも、武田きみよさんは「愛」があふれている方だということが、伝わってきます。

私の「真理の理解」は、まだまだ実践を伴わない、「頭での理解」だけのような気がします。(^^;ゞ
もっと、自分の行動で、「真理を表わせる人」になりたいです。(^^;ゞ

たった一本のテープで、相手に勇気を与えるて、やる気にさせるというのは、凄いですね。
何が伝わったのでしょうか?

「真理」と「思い」なのでしょうね。

一冊の本との出会いが、人生を変える話もよく聞きます。
ほんとうに人間は、「思い」の生き物ですね。(*^_^*)

【713】「おトイレの掃除で、世界平和を!」一燈園の平和運動

2006-08-14 02:58:16 | 宗教的思索
14年前に、一燈園でWPPCをした時のテープを聞きました。
天香さんのお孫さんの西田多丈止(たけし)氏のお話が、良かったです。
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拝む(祈る)というのは、自分をなくすることで、
自分をなくすと、全体が自分になる。それで、一燈園では、
だれも財産を持たないで、無所有の生活をしているそうです。

「出来るだけ、自分を無くしてゆく」という無所有奉仕の生活を目指しておられるそうです。

自分が、『天が、求めている人間の姿』を表わすには、どうすれば良いのかと考えたら、
「自分は、生きてゆきたい」という生存権を主張しないことが、大切だということに気付かれました。

生存権を主張しますと、生存競争になります。

「自分が、生きてゆきたい」という気持ちを捨てるというのは、
「死にたい」ということではなくて、「許されて生きる」ということです。

「許されて生きる」とは、どういう姿かといえば、へりくだる姿、下座の生活であり、
それが.一燈園の平和運動なのです。

簡単にいいますと、
★生活を低くすることが、「世界平和への道」
★ おトイレの掃除で、世界平和を
なのです。(*^_^*)

「戦争反対」と言うよりは、ご縁のある家の「おトイレの掃除」をする方が、
世界平和に寄与できるという考えです。

『おトイレの掃除で、世界平和を』と言いますと、意外な顔をされて、「えっ」と言われますが、
よくよく、考えてみますとそうなのです。

自分の生存権を主張して、他国に兵隊を送って、物を奪おうとする戦争とは反対に、
身の回りのもので、与えられているもので、満足して暮らそうという「下座の生き方」「知足の生き方」を
一人ひとりがすることによって、世界に平和がもたらされるのです。

戦後の、今の私たちを見てみても、物にあふれて、物質的に豊かな生活をしていても、心豊かな人は、少ないのです。

少ない物の中で、奪いあうことなく、工夫して生活している人々の方が、心豊かなのです。

西田さんは雲仙のふげん岳の噴火の後に、仮設住宅をバケツを持って、お見舞いに行かれたそうです。
「おトイレの掃除をさせてください」とお願いすると、多くの方が、家にあげてくれて、
お掃除が終わると、お茶を出してくれたそうです。

不便な生活のお話を伺っているのに、「感謝」という言葉を口のされる方が多いそうです。(*^_^*)
山を呪っている人はいなくて、こんなによくしてもらってと、感謝されるのです。不幸なはずなのに、感謝されるのです。

お見舞いとして、お金を上げることも出来る。その時は、嬉しくて感謝されるけれども、きっとその後で、
「いつまでも、頭を下げてもらい続けなければならないのか」という寂しい思いをされると思う。

「おトイレの掃除」をして、色々な話を伺ったほうが、被災者の方々の心に届くお見舞いになりますし、
勇気付けることができると思いますというお話でした。

西田多丈止さんは、世界中を「おトイレの掃除」しながら回っていて、板門店にも、
ピースポールが立っているのを見たことがあるそうです。

ピースポールも下座の生活と同じで、ひたむきに建てることが大切だと思いますと話されていました。

■知れませんでしたが、もののほんによりますと、
西田天香氏は、昭和22年の参院選で当選されたそうです。

一燈園では、「自然にかなった生活をすれば、人は何物も所有しないでも、
また働きを金に換えなくても、許されて生きられるという信条のもの、
懺悔の心を以って、無所有奉仕の生活をする」のだそうです。

【712】「自分の意識」を意識する(^。^?

2006-08-13 13:04:14 | 哲学的思考
今日から、4日ほど、お盆休みなので、日頃疑問に思っていることなどを、
ゆっくりと考えて、書きたいと思っています。ご意見がありましたら、コメントをください。(*^_^*)
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①「自分」が、「この意識」で生きていることは確かなようです。

②そして、「この意識」は、「今」という一瞬のなかにあります。

③その「今の意識」が、積み重なって「人生」になります。

この3つは、真実(間違いのない事実)のように思えますが、
こうして、言葉になった時点で、「概念」になってしまいます。(^^;ゞ

■①「自分」が、「この意識」で生きていることは確かなようです。

★ 「この意識」のことを、 客観視している「別意識」がないと、
「自分の意識」のことを、「この意識」とは呼べませんよね。

この「別意識」は、誰の視点なのでしょうか?
神? 大いなる自分? 大生命? 宇宙意識?

「自分の意識」の範疇を、超えた意識だと思うのです。
どなたか、説明してください。(^^;ゞ  ねもっちさん、どうですか  (^^;ゞ
「普遍意識」なのかも知れません。

■②「この意識」は、「今」という一瞬のなかにあります。

★ 「私の意識は、いま、この一瞬にある」と思ったと同時に、消えてしまいます。

「意識」は、起こっては消えてゆくのですから、「意識」は、「消えてゆく姿」なのかも知れません。
その「自分の意識」を観察している「別意識」は、自意識(本心?)であると思うのです。

■ ③「今の意識」が、積み重なって「人生」になります。

★ 「今の意識」が、積み重なって「自分の人生」になるのかどうかは、
どうでもよいことなのかも知れません。(^^;ゞ

だって、「意識」は、今この瞬間のものですし、その積み重ねを「人生」と呼ぶのは、
人間の概念によるレッテル張り(比較)に過ぎないと思うからです。
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「自分の意識」に気付かなければ、「自分の意識」は次々に消えていってしまうばかりです。(^^;ゞ

そして、私も含めて多くの人たちは、「自分の意識」に無自覚です。(^^;ゞ

自分の「思い癖」に気付くということは、「自分の意識」に気付くことです。

「自分の意識」に気付けなければ、私たちは、成長することができないように思うのです。

私たちは、なんのために、ここに存在しているのでしょうか?

【711】心が、「暑い」と思っている(*^_^*)

2006-08-13 06:16:40 | 思索
この猛暑の時期に、「私は、暑いと思わない」などと書きますと、反感(笑)を買いそうですが、
このごろの私は、あまり「暑さ」を感じないのです。(^^;ゞ

正確に言いますと、事実としては気温が高くて、世間的には「暑い」のでしょうが、
この頃の私は、「暑さ」はマイナスのことで、嫌なことだとは思わないので、「暑さ」で心が騒がないのです。

「夏なのだから、暑いのは、あたり前。生きているうちに(笑)、この暑さを味わったみよう。世界人類が平和でありますように!」と思うと、「暑さが、苦にならない」のです。(^^;ゞ

2,3年まえは、弁当作りの仕事をしながら、「氷入りのお茶」をたくさん飲んでいましたが、
最近は、氷さえ口にしません。

このように、「暑さ」はあるけれども、「暑さ」に把われるないことは、、最高に自由なことだと思うのです。
「不食」の精神と一緒ですね。(*^_^*)

「行」とは、自分の「思い癖」を消すことかも知れません。

PS・「暑い」というのも、「消えてゆく姿」だと、この文章を書いたあとに思いました。

【710】「殿様や王様」は、苦しい修行(^。^?

2006-08-12 23:22:08 | 思索
『オーラの泉』で、美輪さんが言われていましたが、「殿様や王様」は、とても不自由で束縛された存在なのだそうです。
「紫(高貴)の囚。黄金の鳥篭」という言葉があって、儀式やしきたりなど、
自分の行動を、他から決められることが多く、自分の意志で自由に街中を歩くことも出来ない、
嫌だからといって、辞めることも出来ない役目であり、それが修行なのだそうです。(^^;ゞ

私は、社長さんや、タレントさんやミュージシャンなどの職業は、充実していて良いなあと思っていましたが、
そういわれてみると、やらなければならないことが、たくさんありそうですね。
今の私の職業は、とても自由で気楽だと気付かされました。(^^;ゞ

人間が、幸せかどうかは、財産や地位の有無ではなくて、
「精神の自由さ」にあるような気がしています。

もちろん、しがらみの多い多忙な職業でも、精神の自由な方はおられます。

私は気が小さく、周りからの評価を気に掛けてしまう性格なので、今の職業が、あっているようです。

ただし、あまり「修行」にはなっていませんが。(^^;ゞ

【709】なにが、思っているのか?本当の私は、どこのいるのか?

2006-08-11 22:07:25 | 思索
考えてみますと、人間の「思う」と「信じる」は、とても不思議なことなのです。

私たちは、「自分が、思っている」と思っていますが、その根拠は、とても曖昧です。(^^;ゞ

第一、「自分が、何を思うのか」を、自分では選べていません。
自分の脳が勝手に思って、行動している場合がほとんどです。

私たちは、ほとんど無意識な状態で、他動的に思考させられ、行動しているのです。

多くの人たちは、他動的に思考させられた「自分の思い」に引っ張りまわされて、人生を生きているのです。

「信じる」とは、意識的に的をしぼって、それが「在る」ことを前提にした価値観で生きるということです。
たとえば、「神を信じる」「守護霊を信じる」「死後も、意識が消えないことを信じる」など。

ですから、「信じる」とは、、「大いなる意志」であり、「意欲」であると思うのです。

人間は、無意識的に何かを信じている場合もあります。
信じることなくしては、人間は社会のなかで生きられません。
「お金」を信じていなければ、社会のなかでは生きられません。

「何を思うのか」は、そのときの自分の精神状態や、環境によっても変わります。

「その時の状況が、私に何かを思わせている」と云ってもよいほどに、
私たちは、「自分が何を思うのか」を、選択できていません。

生かされているのと、同じように、「思わされている存在」なのです。

いったい、「何」が私に、思わせているのでしょうか?

付和雷同しない「ほんとうの私」は、どこにいるのでしょうか?

【708】「死後の世界」を信じる(^。^?

2006-08-10 22:41:50 | OSHO
【707】について、カンナさんが、とても良いコメントをしてくれましたので、考えてみたいと思います。(*^_^*)

★心情的に「死後の世界」を認めることが出来ないということは、
 今現在における五井先生のお働きや、守護霊守護神の守りを認めず、信じれないということでしょうか、、、。

■重要な点なので、出来るだけ仔細に書いてみたいと思います。

まず、第一の問題は、「死後の世界」というのは、「客観的な事実」なのか、
それとも、心が作り出しているイメージ(想念)なのかということです。

「白光の教え」では、『人間はすべて心』であって、「外界」とは心の投影ですから、
論理的には、「客観的な存在」としての「死後の世界」は、無いということになると思うのです。

これが、【707】に書いたことで、「死後の世界」があると思う人には「ある」が、
「死後の世界」はないと思う人には「無い」ということです。

それで、今の私の心情での理解の範囲はというと、
『客観的な存在ではない「死後の世界」が、事実としてあるとは、断言できない。』
論理的には、そうなると思うのです。(^^;ゞ

これを私は、【心情的に、「死後の世界」を認めることが出来ない】と書いたのですが、
「心情的」ではなくて、「論理的な思考では」の間違いですね。(^^;ゞ

それで、もう少し詳しく書けば、
【私の論理的な思考で理解する範囲の心情では、「死後の世界」を認めることが出来ない】
となると思います。(ややっこしくて、スイマセン)(^^;ゞ

簡単に言ってしまうと、【哲学的には、「死後の世界」を認めることが出来ない】ということです。
池田さんは、「表象」という哲学用語で、輪廻転生を語っておられましたので、哲学的には、
「死後の世界」も、人間の魂の「表象」と表現ができるのかも知れませんが、
いまのところ、私には理解出来ていません。(^^;ゞ

それは、「想念(イメージ)」と「表象」の区別が、私にはよくわからないからです。(^^;ゞ

私は、「論理的な思考」を心情としていますので、
【心情的に、「死後の世界」を認めることが出来ない】という表現になったのです。(^^;ゞ

ただ、その【「死後の世界」を認めることが出来ない】という心情に留まっていてはいけないと思っていて、
その答えは、宗教性のなかにあると思うのです。

そして、もう一つ、(死後の世界を)「信じる」という問題があります。

「信じる」は、「確証は得てはいない」、けれども、「信じる」というように使われます。
歴然たる事実、例えば、「自分に両親がいること」を「信じる」とは言いません。

不明だという前提があって、「信じる」という言葉が使えるのですから、
「死後の世界を信じる」という言葉のうらには、『「死後の世界」があるのかどうかは不明である』という前提があるのです。

「神を信じる」とフレーズは、「神の存在の有無が、わからない」という前提があってこそ成り立つのです。

ですが、この「信じる」というのは、人間に与えられた特権でして、
別名、「大いなる意志」と「意欲」なのです。

「お金を、信じる人」もいますし、「神(全体性)や、死後の世界を信じる人」もいます。

その人が何を信じているのかが、その人そのものであり、
その「信じているもの」が、その人の「価値」なのです。

拝金主義の人は、拝金主義という価値の人であり、「神(サムシンググレート)がいる」と思っている人は、
そういう「価値」を生きている人なのです。

【707】今の「意識」が、『私』である

2006-08-09 22:25:55 | 哲学的思考
昨日の続きですが、
考えてみれば、『いまの思い』がすべてでして、それしかないのす。(*^_^*)

スピリチュアルな話として、人間には死後があると言われていますが、
『いまの思い(意識)』しかないのですから、『死後の世界』はないのです。(^^;ゞ

また、『人間は死後に、自分の思った通りの世界に行く』と言われていますが、
これも、「死後に行く」という話ではなくて、「今、思っているままの意識」が、
それがそのまま「アナタ」であるのだから、死後もその「思い」が続くと云う意味なのです。

別の言い方をすれば、「死後の世界」があると思っていれば、「死後の世界」を意識することができますし、
「死後の世界などは無い」と思っていれば、「死後の世界は無い」という「自分の思い」で、
迷い苦しむことになるという話なのです。

「アナタ」は、「死後の世界」があると思いますか、無いと思いますか?
どちらの世界観に基いて生きますか(^。^?

「私」は、肉体の死とともに、この「私」という意識が消ないという確証が実感としてはないので、
まだ、心情的に「死後の世界」を認めることが出来ません。

今は、「死後の世界」があるとした場合には、人生にどのような価値の転換があるのかを、検討中です。(^^;ゞ

【705】人間は「思い癖」の塊

2006-08-07 21:31:28 | 「白光」の教え
『オーラの泉』では、江原さんがよく「思い癖」の話をされます。
今回の放送でも、過去世で城主だった松岡修造さんの「思い癖」の話をされていました。

松岡さんの場合は、「自分が率先して行動できていないことに負い目がある」という「思い癖」なのだそうです。

考えてみますと、人には色々な「思い癖」があります。
いや、人間とは「思い癖」の塊です。(^^;ゞ

その「思い癖」は、何処から来たのかというと、「過去世からの継続(因縁)」だというのが、スピリチュアルな見方のようです。突然に、降って湧いたものではないのです。(^^;ゞ

その「思い癖」を「世界平和の祈り」の中の入れてしまって、「いつも清純でいましょう」というのが、「白光の教え」だと思うのです。そして、私は、「世界平和の祈り」を2年半ぐらいやっているので、自分の「思い癖」の多くが、多少消えてきたと思うのです。

世界中の人たちの「思い癖」が、「世界平和の祈り」の中の投げ込めれば、個人も人類も平和になるでしょう。(*^_^*)

世界は『思い』で出来ていますし、人間はすべて『思い・心』です。

自分の『思い』を浄め、清らかにすることが、世界を浄め、清純にすることだと思うのです。

【704】結果は、後で、判るわかること(^^;ゞ

2006-08-06 15:25:22 | 思索
【703】の『結果は、後でわかること』というのは、先日聴いた「白光」の古い講話テープにありました。

これは、「神(全体性)がいるかどうかは、後でわかる」という意味だと思うのです。(*^_^*)

「後で、解かる」ということは、「今は、解からない」ということです。
「今は、解からないけれども、後で、解かる。その時に、神(全体性)がいることが判る」ということなのでしょう。

そして、このことの全体、つまり「神(絶対者)」が居るのだから、「後には、善くなる」「祈っているのだから、良くなる」と、出来事の途中で思えることが、「神を信じている」ことなのです。

けれども、「万事は、塞翁が馬」ですから、「良い」と思えた後にも、また別の不都合がやってきます。

ですから、「人生」とは、継続的に「神(全体性)」を信じて、日々を過ごしてゆくこと。
これが信仰心を持った人の生き方のようです。(*^_^*)

遠藤周作さんの『沈黙』もこのようなテーマだったと思います。

私たちは、「『神(全体性)』とは何か?」と問う存在ではなくて、
神(全体性)から、『あなたとは何か?』と問われている存在のようです。(^^;ゞ

【703】私は、「神」を信じているか(^。^?

2006-08-05 22:15:14 | 宗教的思索
今日の午前中は、さっぱり売れませんでした。(笑)
そんなときは、「今日は、どうなっているんだ。朝、あんなにお祈りをしたのに、その甲斐がないじゃないか(^^;ゞ」と思ってしまう私ですが、こういう精神状態は嫌なものです。(^^;ゞ

考えてみますと、「神」のことをこのように思う私は、「神」を信じていないと思うのです。

そのことに気付いた時には、ほんとうにビックリしました。(^^;ゞ

【私は、お祈りをしているのに、『神さま』を信じていなかったのです。】

これは、『神』は人格であって、人間の価値に基いた判断をする存在だと思うことから生じた間違いです。
『神』とは、人格ではなくて、調和的な全体性であり、意図を持った宇宙エネルギーなのです。

ですが、私は「今、神を信じていない」と思えたときに、逆に、救われた思いがしたのです。
そのすぐあとに、「信じればよいのだ」と思えたのです。

そして、「把われない」という態度が、私にやってきました。(*^_^*)

『結果は、後でわかること』なのです。実際に、この日も午後には、まずまずは売れたのです。

問題なのは、「今」の段階で、「神などいない」と思って憂うことなのです。
このことは、解ってはいるつもりなのですが、ついつい心配してしまいます。

本当になんにも心配しないで、「全体性(神)」に任せればよいのですが、
ついつい、「神」を人格神のように考えてしまって、「神の意図」を考えてしまうのです。(^^;ゞ

【702】「不食」のリスク(^^;ゞ

2006-08-04 21:20:13 | 思索
「不食のリスク」について、考えてみました。
「不食」は未知なる分野なので、将来的に問題が起こる可能性はあります。

将来の病状も「消えてゆく姿」ではあるのですが、「不食」に把われることによって、
「業」を創る必要はないと思うのです。

なにを言いたいのか(笑)といいますと、
強制的に「不食」をすると、不要なトラブルが生じることもあると考えておくことが必要だと思うのです。
「各人のいのちが、活き活きと輝くこと」が大切なことであって、人生の目的は「不食」ではないのです。(笑)

【701】では、私たちの体は本質的に「不食」という構造になっていると書きましたが、
未だにチャクラが開いたり、遺伝子が目覚めていない私の体は、「不食」が機能していないのです。

極端な「不食」を実行していて、将来に骨粗鬆症になるかも知れませんし、その時に後悔しても遅いと思うのです。

それで、『不食実践ノート』には、あまり乳製品は摂らない方がよいと書いてありましたが、
私は、牛乳やチーズや玉子はよく食べます。(*^_^*)

「食に把われない」という視点から、「不食」を考えることが大切だと思うのです。
むやみやたらに、「不食であればよい」ということではないのです。

山田鷹夫さんも書かれているように、
「食べてもいい。食べなくてもいい。最高に自由だ」という心境になれてこそ、
「不食」を実践できているのだと思います。

「不食」の出来ていない今の自分を卑下することはないのです。
自分のできる範囲で、「不食」を実践してみませんかというお誘いが、『不食実践ノート』なのです。