【707】について、カンナさんが、とても良いコメントをしてくれましたので、考えてみたいと思います。(*^_^*)
★心情的に「死後の世界」を認めることが出来ないということは、
今現在における五井先生のお働きや、守護霊守護神の守りを認めず、信じれないということでしょうか、、、。
■重要な点なので、出来るだけ仔細に書いてみたいと思います。
まず、第一の問題は、「死後の世界」というのは、「客観的な事実」なのか、
それとも、心が作り出しているイメージ(想念)なのかということです。
「白光の教え」では、『人間はすべて心』であって、「外界」とは心の投影ですから、
論理的には、「客観的な存在」としての「死後の世界」は、無いということになると思うのです。
これが、【707】に書いたことで、「死後の世界」があると思う人には「ある」が、
「死後の世界」はないと思う人には「無い」ということです。
それで、今の私の心情での理解の範囲はというと、
『客観的な存在ではない「死後の世界」が、事実としてあるとは、断言できない。』
論理的には、そうなると思うのです。(^^;ゞ
これを私は、【心情的に、「死後の世界」を認めることが出来ない】と書いたのですが、
「心情的」ではなくて、「論理的な思考では」の間違いですね。(^^;ゞ
それで、もう少し詳しく書けば、
【私の論理的な思考で理解する範囲の心情では、「死後の世界」を認めることが出来ない】
となると思います。(ややっこしくて、スイマセン)(^^;ゞ
簡単に言ってしまうと、【哲学的には、「死後の世界」を認めることが出来ない】ということです。
池田さんは、「表象」という哲学用語で、輪廻転生を語っておられましたので、哲学的には、
「死後の世界」も、人間の魂の「表象」と表現ができるのかも知れませんが、
いまのところ、私には理解出来ていません。(^^;ゞ
それは、「想念(イメージ)」と「表象」の区別が、私にはよくわからないからです。(^^;ゞ
私は、「論理的な思考」を心情としていますので、
【心情的に、「死後の世界」を認めることが出来ない】という表現になったのです。(^^;ゞ
ただ、その【「死後の世界」を認めることが出来ない】という心情に留まっていてはいけないと思っていて、
その答えは、宗教性のなかにあると思うのです。
そして、もう一つ、(死後の世界を)「信じる」という問題があります。
「信じる」は、「確証は得てはいない」、けれども、「信じる」というように使われます。
歴然たる事実、例えば、「自分に両親がいること」を「信じる」とは言いません。
不明だという前提があって、「信じる」という言葉が使えるのですから、
「死後の世界を信じる」という言葉のうらには、『「死後の世界」があるのかどうかは不明である』という前提があるのです。
「神を信じる」とフレーズは、「神の存在の有無が、わからない」という前提があってこそ成り立つのです。
ですが、この「信じる」というのは、人間に与えられた特権でして、
別名、「大いなる意志」と「意欲」なのです。
「お金を、信じる人」もいますし、「神(全体性)や、死後の世界を信じる人」もいます。
その人が何を信じているのかが、その人そのものであり、
その「信じているもの」が、その人の「価値」なのです。
拝金主義の人は、拝金主義という価値の人であり、「神(サムシンググレート)がいる」と思っている人は、
そういう「価値」を生きている人なのです。
★心情的に「死後の世界」を認めることが出来ないということは、
今現在における五井先生のお働きや、守護霊守護神の守りを認めず、信じれないということでしょうか、、、。
■重要な点なので、出来るだけ仔細に書いてみたいと思います。
まず、第一の問題は、「死後の世界」というのは、「客観的な事実」なのか、
それとも、心が作り出しているイメージ(想念)なのかということです。
「白光の教え」では、『人間はすべて心』であって、「外界」とは心の投影ですから、
論理的には、「客観的な存在」としての「死後の世界」は、無いということになると思うのです。
これが、【707】に書いたことで、「死後の世界」があると思う人には「ある」が、
「死後の世界」はないと思う人には「無い」ということです。
それで、今の私の心情での理解の範囲はというと、
『客観的な存在ではない「死後の世界」が、事実としてあるとは、断言できない。』
論理的には、そうなると思うのです。(^^;ゞ
これを私は、【心情的に、「死後の世界」を認めることが出来ない】と書いたのですが、
「心情的」ではなくて、「論理的な思考では」の間違いですね。(^^;ゞ
それで、もう少し詳しく書けば、
【私の論理的な思考で理解する範囲の心情では、「死後の世界」を認めることが出来ない】
となると思います。(ややっこしくて、スイマセン)(^^;ゞ
簡単に言ってしまうと、【哲学的には、「死後の世界」を認めることが出来ない】ということです。
池田さんは、「表象」という哲学用語で、輪廻転生を語っておられましたので、哲学的には、
「死後の世界」も、人間の魂の「表象」と表現ができるのかも知れませんが、
いまのところ、私には理解出来ていません。(^^;ゞ
それは、「想念(イメージ)」と「表象」の区別が、私にはよくわからないからです。(^^;ゞ
私は、「論理的な思考」を心情としていますので、
【心情的に、「死後の世界」を認めることが出来ない】という表現になったのです。(^^;ゞ
ただ、その【「死後の世界」を認めることが出来ない】という心情に留まっていてはいけないと思っていて、
その答えは、宗教性のなかにあると思うのです。
そして、もう一つ、(死後の世界を)「信じる」という問題があります。
「信じる」は、「確証は得てはいない」、けれども、「信じる」というように使われます。
歴然たる事実、例えば、「自分に両親がいること」を「信じる」とは言いません。
不明だという前提があって、「信じる」という言葉が使えるのですから、
「死後の世界を信じる」という言葉のうらには、『「死後の世界」があるのかどうかは不明である』という前提があるのです。
「神を信じる」とフレーズは、「神の存在の有無が、わからない」という前提があってこそ成り立つのです。
ですが、この「信じる」というのは、人間に与えられた特権でして、
別名、「大いなる意志」と「意欲」なのです。
「お金を、信じる人」もいますし、「神(全体性)や、死後の世界を信じる人」もいます。
その人が何を信じているのかが、その人そのものであり、
その「信じているもの」が、その人の「価値」なのです。
拝金主義の人は、拝金主義という価値の人であり、「神(サムシンググレート)がいる」と思っている人は、
そういう「価値」を生きている人なのです。