歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

府中市・ツジ遺跡(備後国府跡) 役人官舎跡とみられる建物跡を確認

2010年07月08日 | Weblog
 府中市教委は7日、ツジ遺跡(同市元町)で、備後国府の役人官舎「館(たち)」などとみられる奈良~平安期の建物跡3棟分を新たに確認したと発表した。
 3棟は別の時期に建てられ、そのうち中期の建物の柱穴が1m四方と大きく、規模の大きな館か役所施設の「曹司(ぞうし)」ではないかとみられている。
 また銅製のベルトの端飾り「蛇尾」や緑釉陶器なども出土した。
 現地説明会が10日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:中国新聞]

過去の関連ニュース、情報
 2010.3.3ツジ遺跡(備後国府跡) 平安時代の区画溝や国司の官舎跡が出土

備後国府の役人官舎跡?(中国新聞) - goo ニュース
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ソウル・牛眠洞で百済支配層の大型石室墓を発見

2010年07月08日 | Weblog
 ハウル(한얼)文化遺産研究院は6日、昨年5月から行っていたソウル瑞草区牛眠洞(우면동)牛眠山麓の発掘調査で、初期百済時代末(5世紀中~後半)の横穴式石室墳(횡혈식 석실분)2基と、これより早い時期に造成された百済人家の遺構などを確認したと発表した。
 発掘された大型石室墓の大きさは2号墳が374×445×H112cm、7号墳が297×272×H105cm。
 2号墳は割石を縦に積み上げた墓槨の壁面が基礎部分に残っているが、7号墳はこれらが取り壊されていた。ともに、墓槨の平面形状が方形で、中心軸は南北方向であった。また、ともに周溝痕がみられた。
 割石を積んだ墓の様相は、楽浪・高句麗石室墓などの影響を受けたと見られる初期百済石室墓で、最も規模が大きい部類に属するという。特に2号墳では鉄製鋤(살포)が出土して、墓主人は王族か最高位級貴族であるものと推定されている。
 発掘場所は、漢江の南側、ソウル市庁舎からは南に10km、風納土城からは西南に10kmに位置し、初期王城付近でも石室墓を造ったことに意義があるとしている。
 また、5世紀初めの漢城首都期の百済人家の跡地から全9棟が発見された。家の跡地が墓より下層から発見されたことから、住居地が先にできて廃棄された後に、墓が作られたとみられる。住居地では石臼、장군形土器などと共にガスレンジのノズルと同じ特異な姿の用途不明の異形土器が出土した。
 他に、これら百済墓の上の層から7世紀の遺構と見える新羅時代横口式石室墳(앞트기식굴방무덤、횡구식석실분)全7基が発見されたのをはじめ、旧石器時代の石器類と新石器時代の火を炊いた石跡、統一新羅時代の畑など多様な時代の遺物・遺跡が発掘された。
[参考:聨合ニュース]
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蔚山・薬泗洞で新羅時代貯水池堤防を確認

2010年07月08日 | Weblog
 ウリ文化財研究院は7日、蔚山市中区薬泗洞(약사동)の発掘調査で三国時代末期~統一新羅時代初期に作ったと見られる貯水池堤防遺跡が見つかったと発表した。
 堤防最下層から陶質土器(도질토기)と短脚高杯(단각고배)、軟質土器(연질토기)が多数確認され、6世紀末~7世紀頃に築造されたと見られるとしている。
 堤防の盛土には敷葉工法(부엽공법)が採り入れられている。堤防満水位は海抜21.42mであり、貯水池周囲長810m、面積約2万5千㎡とみられる。
[参考:聨合ニュース]



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名古屋市・平手町遺跡 昨年2月に見つかった舟形木棺はヒノキ製

2010年07月06日 | Weblog
 昨年2月に見つかった弥生時代中期後半(約2000年前)の日本最古の舟形木棺が、市教委の分析でヒノキ製だったことが分かった。廃材の転用でなく、初めから丸太を刳り抜いて木棺として作られた可能性が高いという。
[参考:中日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.2.21 平手町遺跡 日本最古(約二千年前)の舟形木棺が出土
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下関市・要須(ようづ)遺跡 奈良時代から平安時代初めの銅杓が出土

2010年07月06日 | Weblog
 市教育委員会が6日、要須遺跡(下関市伊倉町)で奈良時代から平安時代初め(8~9世紀)のものとみられる、青銅製鋺(直径約19cm)と鉄製の柄(長さ45cm)を接ぎ合わせた杓(しゃく)が見つかったと発表した。銅杓の出土は全国で6例目という。
 17日から下関市立考古博物館で展示される。
[参考:共同通信]



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福岡市・元岡・桑原遺跡群 元岡古墳群で7世紀初頭の装飾付圭頭大刀など出土

2010年07月03日 | Weblog
 福岡市教委は1日、九州大学移転予定地内(同市西区元岡)の元岡・桑原遺跡群内にある元岡古墳群G1号墳(方墳)から、7世紀初頭の製作とみられる装飾付きの大刀や金製の耳飾りなど保存状態の良い副葬品約120点が見つかったと発表した。
 発見された方墳は、一辺約18mで、内部に糸島半島では最大級の花崗岩を利用した幅2・1m、長さ3・6mの横穴式石室があった。石室の床面から見つかった副葬品は、刀5振、馬具、銅鏡1面(鏡式不明)、胡籙(ころく、胡ろく)、純金製などの耳環、銅釧、須恵器の土器、水晶製切子玉、勾玉、翡翠製勾玉など。
 出土した刀のうち1本は、金銅製の飾りが付いた「装飾付圭頭大刀」と呼ばれ、当時の大和政権から下賜された可能性が高いという。長さは約90cm、高度な冶金技術が用いられ、銅に金を張り付けた装飾がある柄の部分が特徴。黒漆に金箔が施された鞘も一緒に出土した。
 副葬品の豊富さから判断して墳墓の主は当時の朝鮮半島の王権に対する防衛を担った地方の有力豪族とみられる。
 市民向け現地説明会が、3日(土)午前10時-午後1時に発掘現場で開かれる。
 出土品の一部は同市埋蔵文化財センター(同市博多区)で6日から8月1日まで公開される。
[参考:西日本新聞、日本経済新聞、福岡市HP]

備考:日本書紀・推古10年(602) より
 二月(略)、来目皇子為撃新羅将軍。授諸神部及國造伴造等、并軍衆二萬五千人。
 夏四月(略)、将軍来目皇子、到于筑紫。及進屯嶋群、而聚船舶運軍粮。
 六月(略)、大伴連囓、坂本臣糠手、共至自百済。是時、来目皇子、臥病以不果征討。

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.29 元岡・桑原遺跡群 弥生時代中期のシカ、建物などが描かれた琴の側板が出土
  2008.9.16 元岡遺跡群 弥生時代中期末の翳形木製品が出土
 2008.8.26 和歌山市・岩橋千塚古墳 胡ろくかたどった埴輪 全国初出土
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ソウル市・ソウル城郭 南山公園白凡広場発掘現場から土築跡、逆さに埋めた陶器鎮壇具を確認

2010年07月03日 | Weblog
 現存するソウル城郭は全体区間が石で積んだ石築であるが、土で積んだ区間があったことが発掘調査で現れた。
 ソウル城郭の南山区間は、朝鮮王朝実録をはじめとする文献では、太祖李成桂(1335-1408)時代には全羅道民が築き、世宗(1397-1450)時代には慶尚道民約5万人を動員して建て直し、この中一部低く平坦なところでは土城で築造したという記録が実録に見える。実際に確認されたことは今回が初めてという。
 また、城郭底一区間では、口緣部を互いに交錯して埋めた白磁瓶2点と口緣部は土地に打ち込んで底は空に向かった陶器瓶3点が出土した。遅くとも3世紀以前には完成されたと考えられるソウル松坡区風納土城の1988年の城壁調査で、深鉢形土器がこのような形で城壁の中で確認されたように、土地から出る悪い気運により城郭が崩れることを防ぐ意図を込めて城壁中に陶磁器や土器を逆に埋める鎮壇、あるいは地鎮具の習俗があったとみられる。
[参考:聨合ニュース]
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東大阪市・池島・福万寺遺跡 弥生時代前期の土偶が出土

2010年07月03日 | Weblog
 大阪府文化財センターが2日、池島・福万寺遺跡で、弥生時代前期(約2300年前)の土偶が見つかったと発表した。この時期の土偶は全国で数例しか確認されていないという。
 土偶(人形土製品)は幅5.1cm、高さ3.3cmで、溝から頭部だけが割れた状態で出土。眉や目、鼻が立体的に表現され、口や顎の部分は失われていた。切れ長の目で、すました表情に見える。
 土偶は縄文時代中期(約5千年前)以降に東日本を中心に広まるが、弥生時代になると急激に減少。大阪府のほか島根県や香川県などでしか確認されていないという。
 一緒に、男性器をかたどったとみられる石棒4本も出土。石棒は結晶片岩製で、残存の長さ9・5~19・5cm。
 土偶と石棒はセットで祭祀に使われた可能性もある。石棒は祖霊崇拝や多産などの祭り、土偶は農耕の祭りに使われたとされる。
 ほかに杵や鍬などの木製農具や、網に付けた石や土製の錘も出土。これまでに水田跡が見つかっており、水田稲作をしながら漁労もしていたとみられる。
 土偶と石棒は和泉市の府立弥生文化博物館で8日から8月1日の間、展示される。
[参考:産経新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.2.16 池島・福万寺遺跡 弥生時代中期の水田跡や水路跡などが出土
 2009.7.1 池島・福万寺遺跡 弥生時代前期~中期初めの洪水跡
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三重県多気町・相可出張遺跡 鎌倉時代の鍋が墓の副葬品として出土

2010年07月02日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターが5月から発掘を進めていた、多気町相可の県立相可高校の敷地内「相可出張遺跡(おうかでばりいせき)」から弥生時代前期(2,500年前)の土器や、飛鳥時代(1350年前)・鎌倉時代(900年前)の生活の跡などが見つかった。
 鎌倉時代後期の地域の有力者と見られる墓の副葬品として出土した鍋は直径22cm、高さ13cm。煮炊きに使われた。飛鳥時代末期につくられた川に水を流す大きな溝や、平安時代末期の石積みなども見つかった。
 現地説明会は3日午後1時半から3時まで開かれる。
[参考:朝日新聞、三重県教育委員会HP]



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橿原市・藤原宮跡 国内最古の大嘗宮の建物跡などを発見

2010年07月01日 | Weblog
 奈良文化財研究所は1日、藤原宮跡(694~710年)で天皇の即位に伴う重要儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」が行われた「大嘗宮(だいじょうきゅう」の一部とみられる建物跡などが見つかったと発表した。大嘗宮は過去に平城宮跡で確認されているが、藤原宮跡では初めてで、国内最古となる。
 発掘調査は4~6月、朝堂院の広場「朝廷」の約1500㎡で実施。東西12m(5間)、南北3m(1間)の建物跡と、それを取り囲む外塀跡、内部を区画する四つの内塀跡、二つの門跡が確認された。
 大嘗宮は、東側の悠紀院(ゆうきいん)と西側の主基院(すきいん)の2つの斎場からなり、見つかった遺構は悠紀院の北半分にあたる。建物跡は儀式用の穀物を準備する膳屋(かしわや)にあたるという。
 天皇は毎年11月、神に新穀を供えて収穫を感謝する祭り「新嘗祭(にいなめさい)」を行っていた。天皇が即位後に最初に行う「新嘗祭(にいなめさい)」を「大嘗祭」とし、儀式を行う仮設建物の大嘗宮が造られ、終了後は解体された。
 日本書紀などから、大嘗祭の儀式は天武~持統朝(673~697年)に整備されたと推定され、藤原宮では文武天皇(697年即位)と元明天皇(707年即位)が即位し、大嘗祭を営んだことが続日本紀に記されており、今回の遺構は、いずれかの大嘗宮だった可能性が高い。
 一方、平城宮跡(710~784年)の朝廷では、6代の天皇の大嘗宮跡が確認されている。
 現地見学会は3日(土)午後1時半に開かれる。
[参考:産経新聞、毎日新聞、時事通信]
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稲沢市・一色青海遺跡 着色されたシカが描かれた弥生時代の土器が出土

2010年07月01日 | Weblog

一色青海遺跡出土「鹿の絵画土器」。 2011.6.14「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて撮影。

 愛知県埋蔵文化財センターは1日、稲沢市の一色青海遺跡(いっしきあおかいいせき)で、着色したシカが描かれた弥生時代中期(紀元前100年前後)の土器が出土したと発表した。出土したのは昨年の平成21年12月15日。それ以降、奈良文化財研究所により鑑定を行っていた。
 砲弾の形をした筒形土器の一部で、幅約4cm(復元径5.2cm)、残存高さ約9cm。本来は、口縁部を斜めに切り落としたような形状で、底部はおそらく丸底であったと推定している。
 鹿は外面に描かれ、6頭が右を向いて縦に並んでいる。最も鮮明な鹿は幅3.3cm、高さ2.5cm。赤色の顔料ベンガラで塗られており、顔料を用いた弥生時代の絵画土器としては、福岡県筑前町の大木遺跡92号甕棺(弥生中期前葉)で出土した黒色の鹿に次いで2例目という。線刻が通常の線刻土器よりかなり浅いため、下書き用で、最初から色を塗ることを想定していたとみられるという。筆のようなものを使った可能性があるとしている。顔料のベンガラは地下水に含まれる鉄分を精製して作ったのではないかとみている。
 同遺跡では平成15年度の調査で、線刻で鹿を描いた土製垂飾が出土しており、鹿の絵としては今回が2例目となる。
 弥生時代の絵画土器はこれまで600例ほどあり、そのうちの4割が鹿の絵という。ただし、鹿に限らず、これまで出土している絵画土器のほとんどは、線刻による。
[参考:時事通信、毎日新聞、朝日新聞、愛知県埋蔵文化財センター]

着色されたシカの絵=弥生時代の土器出土―愛知・一色青海遺跡(時事通信) - goo ニュース



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