歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

鹿児島県伊佐市・下鶴遺跡 県内初、銅戈が出土 北部九州との交流の証

2009年11月22日 | Weblog
 県立埋蔵文化財センターは19日、下鶴遺跡(同市大口下殿)で、弥生時代中期(約2200年前)の地層から青銅器「銅戈」の先端部分が出土したと発表した。県内初で、全国最南端の出土例。北部九州で同時期に多く出土しており、北部九州との交流を示すものとしている。
 出土した銅戈は長さ8cm、幅3・3cm、厚さ0・6cm、重さ39・7g。本体の長さは20cm前後とみられる。墓跡とみられる穴(長さ130cm、幅80cm)から出土した。中央部に「樋(ひ)」と呼ばれる溝が縦に2本施されている。
 銅戈は中国伝来で、木製の柄の先に取り付ける武器。国内では主に祭祀に使われたとみられる。従来、熊本県山鹿市が国内最南端の出土例だった。青銅器としては、県内では志布志市有明町野井倉の銅矛(弥生時代後期)に続き2例目。
 28日午前10時と午後2時、現地説明会が開かれる。(雨天決行)
[参考:2009.11.19 南日本新聞、毎日新聞]
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安芸高田市・甲立古墳 広島県内で3番目に大きい前方後円墳が見つかる

2009年11月22日 | Weblog
 安芸高田市教委は19日、広島大考古学研究室の踏査により同市甲田町上甲立(かみこうたち)江田地区の山林で、4世紀後半のものと見られる前方後円墳がほぼ完全な姿で見つかったと発表した。同日、現地でマスコミ向けの説明会が行われた。
 古墳のある菊山周辺には、中世の武将・宍戸氏の史跡が集中している。古墳は、菊山の山裾で江の川を望む南東側斜面(標高249m)にあり、100m南西、国道54号北側の南北朝時代・14世紀前半の宍戸氏の本拠・「柳ケ城(やながじょう」跡」の城郭の一部と見られていた。
 このほど調査の結果、全長75mの前方後円墳と確認、市教委は地名から「甲立古墳」と命名予定という。
 後円部が斜面上手の真北を向いていて高さは13mある。後円部は最大幅約42m、頂上の平らな部分の直径は約15m。古墳の斜面全体に川石を使った葺石が敷き詰められていた模様。
 埴輪を置くテラス状の段築(だんちく)が2段に築かれ、周辺からは円筒や舟形埴輪片約20点が出土し、その形状から前方後円墳としては、県内で最も古い神石高原町にある「辰の口古墳」と同じ4世紀後半のものとみられる。当時には、備後だけでなく安芸地方の江の川・太田川流域で最大の権力がこの地に存在したと考えられる。
 未盗掘でほぼ原型のまま残っており、後円部中央に竪穴式石室があると見られる。
 前方後円墳の規模は、東広島市の三ツ城古墳(全長92m、5世紀後半)、神石高原町の辰の口古墳(同77m)に次ぎ3番目。
 安芸高田市では、来年度から2年間かけて現地を試験的に掘って詳しい調査を行い、市史跡への指定を目指す。
 21日午後1時に地元の人を対象にした説明会があり、28日午前10時と午後2時の2回、一般向けの現地説明会が開かれる。
[参考:2009.11.19~20 RCC中国放送、HIV広島テレビ、中国新聞、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞]


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富山市・百塚遺跡 弥生時代後期~古墳時代の埋葬施設 ガラス玉が出土

2009年11月22日 | Weblog
 市埋蔵文化財センター(同市愛宕町)が19日、呉羽山丘陵の北端にあり神通川の西岸に位置する百塚遺跡(同市百塚)で木棺の周囲に川原石が敷き詰められた弥生時代後期~古墳時代初頭の埋葬施設が県内で初めて発見され、周囲の墳墓からはガラスの小玉約70個も見つかったと報道陣に公開した。
 調査は、県道富山八尾線の工事に伴い05年から実施。今年度は9月から約2100㎡を発掘。弥生後期~古墳時代初頭(約2000~1800年前)の墳墓や古墳が計11基見つかった。今回初めて、埋葬施設が2か所確認された。
 このうちの1基は、直径30cm程度の川原石が敷き詰められた埋葬施設で、長さ約2・5m、幅約1・2m、深さ約1m。石は木棺を固定するために敷かれたとみられるが、棺の下部にも積まれた珍しい構造で61個が確認された。神通川の河川交通を掌握していたことを示すため、意図的に川原石が使われた可能性もあるという。
 これまで棺の底部分に石を敷き詰めた埋葬施設は群馬県や長野県でも見つかっているが、周囲にも積まれていたものは珍しいという。さらに副葬品として鉄製の鏃(長さ約7cm)1点なども出土した。
 出土した他の古墳・墳墓は、■四隅が切れたタイプの方形周溝墓4基、■1辺だけが切れた方形周溝墓1基、■円形周溝墓4基など。いずれも一辺や直径が6~10mだった。
 このうち方形周溝墓の埋葬部分からは、直径3~5mmの美しい鮮やかな青色のガラス小玉が約70個見つかった。中央に糸を通す穴があり、首飾りなどの装飾品として遺体につけられたとみられる。当時、ガラスは北陸に伝わったばかりで、これだけ多くのガラス玉が出土したのも県内初という。1カ所からの出土例では、これまで同市杉谷の杉谷A遺跡の27個が県内最多だった。神通川の河川交通を掌握する有力な集団が富山平野に存在していたと推測されるという。
 呉羽山の北端に位置する同遺跡付近一帯は、長らく埋葬地区とされ、これが「百塚」の地名の由来とも考えられている。
 百塚遺跡は、初代富山藩主の前田利次が富山城を築く予定だった場所とされ、遺跡からは江戸時代の人骨と瀬戸焼も見つかった。
 富山平野では、国指定史跡「王塚古墳」がある羽根丘陵と、呉羽山丘陵南部で、有力な集団がいたとされていた。05~07年には、百塚遺跡の北側に隣接する遺跡から、弥生時代終末期~古墳時代初頭の円墳や方墳などが10基以上見つかっていた。呉羽山丘陵には複数の集団が存在したが、やがて統合されて「王塚古墳」ができたとみられる。
 調査は来年前半まで続く予定。
 21日午前10時~正午には現地説明会が開かれた。
[参考:2009.11.19~20 富山新聞、北国新聞、KNB北日本放送、北日本新聞、毎日新聞、朝日新聞]


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木津川市・恭仁宮跡 朝集殿院の区画が判明 平城宮と同形

2009年11月22日 | Weblog
 京都府教委は19日、恭仁宮跡の朝堂院と、朝集殿院を隔てる塀跡を確認し、朝集殿院の区画がほぼ判明したと発表した。
 恭仁宮は東西約560m、南北約750mの広さ。中央部には、平城宮から移築されたとされる大極殿が置かれ、その南に朝堂院と朝集殿院が続く。
 朝集殿院は過去の想定より北に47m拡大。南北125m、東西134mと分かった。
 これまで朝集殿院と同じ東西幅と考えられてきた朝堂院の西塀跡も確認した。朝集殿院より18~15m狭い「凸字型」と分かった。同じ形は奈良時代前半の平城宮東区朝堂院だけで、平城京の朝堂が恭仁京に移築された可能性もあると推測している。
 これにより、恭仁宮が、平城宮をモデルに築造されたことが明確になったとみている。
 現地説明会が21日に行われた。
[参考:2009.11.19~20 京都新聞、毎日新聞、読売新聞]

過去のニュース
2007.11.22 木津川市・恭仁京宮跡 大極殿院回廊跡の一部が出土 平城宮の8割の規模と判明
 府教委が22日、奈良時代の740~44年にかけて聖武天皇が都を置いた恭仁京宮跡(同市加茂町)で、国家的儀式を行う正殿・大極殿を囲む大極殿院回廊跡の一部が出土したと発表した。
 回廊の北西隅が確認できたことから、従来の遺構などと合わせて考えると、大極殿院回廊の東西幅は148・6mに達する。これは平城宮の約8割の規模にあたる。
 昨年見つかった回廊西側の礎石跡北側で、南北一直線に並ぶ直径1・2~1・5mの長円形の6か所見つかった。間隔は4・6mで、北端の3個は3・5mと短くなっていた。
 東の調査区でも、東西方向の4・6m間隔の穴を確認。西端の3個が3・5m間隔と仮定すると、位置が一致することから、北西端が2間分(約7m)柱間の短いことが分かった。穴は北西端から7m内側からも見つかり、回廊が7m幅であることが分かった。
 「続日本紀」は、平城京の大極殿と歩廊(大極殿院回廊)を恭仁京に移したと記述。礎石跡の間隔が、平城宮の大極殿院回廊跡の隅の部分と一致し、記述が裏付けられた。
 また、平城宮と同様に回廊が中央の土塀で仕切られた内外の2列に分かれていたことを示す穴も二つ見つかった。
 穴から約1.5mの位置に屋根から落ちた雨を受ける溝があったが、平城宮では溝の位置は穴から約3m。区域の狭い恭仁宮にそのまま移築できず、屋根を短くしたらしい。
 現地説明会は24日午前10時半から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞、毎日新聞]
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福島県国見町・阿津賀志山防塁 第6次発掘調査 二重堀が一重堀に変化する部分の解明

2009年11月19日 | Weblog
 国見町教委は、国指定史跡の「阿津賀志山防塁」第6次発掘調査の成果を発表した。
 二重堀構造のうち、部分的に堀が1本しかない場所の構造などを新たに確認した。
 地表の観察などでは、二重堀のうち片方が中間部分の同町大木戸遠矢崎から赤穂(あこう)まで約700m無くなっている可能性が指摘されてきた。
 今回発掘した結果、外堀が地形に沿って掘られており、下の段丘面が無くなる部分ではその下の河川の湿地に向かって落ち込んで行くのがわかった。河川と湿地帯が堀の役割を果たすのでもともと作られなかったとみられる。
11月14日に現地説明会が行われる予定であったが、下のぬかるみが大きいということで中止になったようである。
 [参考:2009.11.17毎日新聞、福島県文化財センターHP]

2009.5.21掲載分 福島県国見町・阿津賀志(あつかし)山防塁 第5次発掘調査現地説明会5/23
 国見町教委は7日から、森山地内で第5次阿津賀志山防塁発掘調査を行っている。6月2日までの予定。
 発掘場所は、文治5(1189)年源頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦の激戦地で、藤原氏側の防御線として阿津賀志山から阿武隈川まで約4kmにわたって堀と土塁が造られた。(国指定史跡)
 今回の調査は4号国道東側の旧国道付近、森山字東国見と西国見にまたがる平場(国見町森山字東国見地内)で、昨年の調査で発見された阿津賀志山防塁の出入り口(木戸口)や防塁に付属する溝と土塁で囲まれた防御施設らしきもの等の確認を行っている。
 町教委は23日(土)午後1時30分~2時30分に発掘調査現地説明会を行う。
 さらに10月後半からは遠矢先地区で第6次調査を行う計画。
[参考:2009.5.8KFB福島放送ニュース、福島県文化財センターHP]

過去のニュース・情報
 阿津賀志山防塁に切れ目


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西脇市・津万遺跡 平安末期の墓から化粧道具、烏帽子が出土

2009年11月18日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館が18日、西脇市津万の「津万遺跡」で平安時代末期から鎌倉時代の墓の中から、鏡や毛抜きなどの化粧道具一式と烏帽子が見つかったと発表した。化粧道具は県内では2例目、烏帽子は3例目。
 化粧道具がそろって見つかるのは稀で、当時の風俗を探る上で貴重な史料となりそうだ。
 周辺は平家一門が所有した荘園だったとされており、同博物館は管理を任された在地領主の女性の墓の可能性があるとしている。当時、女性の地位は高く在地領主も珍しくなかったという。
 化粧道具は棺には入れずに、縦166cm、横110cm、深さ20cmの土壙墓の隅で見つかった。骨はなかった。
 鉄製の鋏(はさみ)は長さ17cm、鉄製の毛抜きは長さ8・5cm、中国製の銅鏡は9cm四方の正方形だった。直径6cmの土師器小壺や青白磁の「合子」(直径5・7cm)もあった。
 壺には紅やおしろいを入れ、合子は紅などを使う際のパレットのような役割を果たしたらしい。同博物館は葬られた女性が生前に使用したとみており「対外的な儀礼で人前に出るときに化粧をしていたのでは」と推測している。
 烏帽子は13世紀ごろの木棺墓で、残存する棺の底板(縦144cm、横40cm、深さ30cm)の上に幅25cmの漆製品として確認された。人の歯の一部も残されていた。墓の隣に同じ時代の建物跡があることから、霊的支配を強めるためにこの土地の開発者か血縁者の成人男性が葬られたことが推測できる。
 23日午前10時から、現地説明会が開かれる。
[参考:共同通信、神戸新聞]




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木津川市・高麗寺跡 国が管理を裏付ける文字瓦が出土 21日に現地説明会

2009年11月18日 | Weblog
 木津川市教委は17日、7世紀初頭に渡来系氏族が創建した氏寺とされる高麗寺跡(同市山城町上狛)で、製作者の名前が刻まれた文字瓦が見つかったと発表した。
 恭仁宮式文字瓦と呼ばれ、略字を交えて刻印した「太万呂」「乙万呂」。同じ名前が刻まれた瓦が恭仁宮跡と平城宮跡でも見つかっている。制作者を特定することで管理していたとみられ、市教委は高麗寺が国営の寺院に極めて近い重要な寺だったことを裏付ける史料としている。
 このほか播磨で制作した唐草模様の瓦も出土。加古川市の古大内(ふるおうち)遺跡で見つかったものと同じ作り方という。
 いずれの瓦も12世紀末から13世紀初頭の土器とともに寺の排水溝跡から出土。市教委は高麗寺がこの時代に廃寺になったと結論付けた。
 1か月前のニュースでは、高麗寺から出土した「均整唐草文」の軒平瓦(長さ32cm)が古大内遺跡で生産され、運ばれてきたものと判断していたが、あらためて裏付けられた。
[参考:2009.11.16共同通信]

過去のニュース
  2009.10.15高麗寺跡 出土した瓦が古大内遺跡の瓦と版型が一致

飛鳥時代の寺院跡から文字瓦 制作者名刻み品質管理?(共同通信) - goo ニュース

■高麗寺の廃絶時期 碗の製作手法で特定、11月21日に現地説明会
 高麗寺が廃寺になった時期について、京都新聞よりあらたなニュースがあった。
(回廊外の排水)溝から出土した土器や瓦から、高麗寺が平安時代末期から鎌倉時代初期の間に廃絶したことが分かった。
 高麗寺はこれまで、文献や出土品から9世紀初頭に最後の瓦の葺き替え修理があったことが判明し、平安期に廃絶したとされていたが、明確な時期は不明だった。
 今回の調査では、溝内から見つかった大量の土器のうち、碗の製作手法が、12世紀末から13世紀初頭にかけてのものと一致。西回廊の瓦とともに出土していることから、同時期に回廊が倒壊し、溝の排水機能も失われ、寺が廃絶したとみている。
 調査を行った溝は、西回廊と平行して南北に走り、回廊内への雨水の浸入を防ぐ役割があったとみられる。長さ約40mあり、北に進むに従い細く浅くなり、最大で幅約3m、深さ約1・7mあった。過去の調査で見つかった西辺築地外の溝や南回廊の下を潜る地下水路と合わせ、境内の排水システムが明らかになった数少ない例という。
 現地説明会が21日午前10時と午後1時に開かれる。
[参考:2009.11.17京都新聞]

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明日香村・阿部山遺跡群 方墳石室からミニチュア土器セットが出土

2009年11月17日 | Weblog
 奈良県の明日香村教育が17日、の阿部山遺跡群(同村阿部山)で、6世紀中頃~後半とみられる方墳2基(ともに約10m四方)と、それぞれの埋葬施設から、かまどや鍋、羽釜を模したミニチュアの土器セットが見つかったと発表した。
 同遺跡群はキトラ古墳の直ぐ南側にある。村教委は「大和政権を支えた大陸系の大豪族で、この一帯に勢力を誇った東漢氏(やまとのあやうじ)の有力者が葬られたのだろう」としている。
 ミニチュアの土器は素焼きで重ねると高さ約25cm、幅約18cmになる。ほかに鉄製の馬具なども発掘された。
 石室は後世に大半の石材が抜き取られ、原形をとどめていなかった。鉄くぎが残っていたことから、被葬者は木棺で葬られたとみられている。墓で最大のものは、約4m四方の穴を掘り、長さ約1・6m、幅約80cmの木棺を置いていた。
 また、中世(12~13世紀)の墓3基が見つかり、中国の宋や元の時代に浙江省で作られたとみられる龍泉窯青磁碗(直径約16cm)が副葬品として出土した。村教委は、中世に大きな寺域があった子嶋寺(高取町)に関連する人物の墓とみている。
 11月21日(土)13時から明日香村中央公民館(明日香村大字川原)で「明日香村発掘調査報告会2009」が開かれ、同遺跡の調査などが報告される。(先着順)
[参考:産経新聞、毎日新聞、明日香村HP]
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北九州市・城野遺跡 九州最大級の「方形周溝墓」が発掘 11/21現地説明会

2009年11月17日 | Weblog
 弥生時代の集落跡「城野遺跡」(同市小倉南区城野一丁目)で九州最大級の「方形周溝墓」が発掘され、今日、報道陣に公開された。
 今年度から発掘調査が行われ、これまでに弥生時代中期から末期の堅穴住居跡9か所、方形周溝墓、石棺、貯蔵穴、などが見つかっている。
 方形周溝墓は縦23m、横17mほどで、弥生時代の終わりごろとしては九州で最大級の有力者層の墓と考えられ、この地域に大きな勢力をもった集落があったことがうかがえるという。
 そのほか、旧石器時代の剥片石器、や、貯蔵穴からは炭化した米も出土している。
 今月21日(土)午前10時に現地説明会が開かれる。
[参考:TNCテレビ西日本放送、RKB毎日放送]

■2009.11.18 追記
 方形周溝墓1基の中心のやや北側で箱式石棺2基を発見。石棺2基は並んで出土。いずれも縦約1・7m、幅約1m、高さ約75cmで、白色粘土で密閉されていた。18日に蓋を開ける予定。副葬品が残っている可能性がある。
 竪穴住居跡のうち1棟から鉄刀の破片(長さ約10cm、幅約3cm、厚さ約3mm)が出土した。遺跡近くには、銅矛が出土した重留遺跡や重住遺跡があり、この三つが紫川中流域の拠点集落を形成していたのではないかとしている。
[参考:毎日新聞]

2009.11.21 追記
 石棺から人骨や副葬品が見つかった。人骨は骨の大きさなどから、身長0・9m程度の子供が埋葬された可能性が高いという。副葬品は首飾りの管玉など。
 石棺の内部は朱色の顔料で塗られていた。
[参考:読売新聞]
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釜山・長安邑 朝鮮時代の粉青沙器窯跡を発見、蔚山長興庫銘を確認

2009年11月16日 | Weblog
 釜山市立博物館は16日、釜山機張郡長安邑(부산장안읍)に陶芸村造成のために行われていた発掘調査で、朝鮮時代粉青沙器(분청사기)を作る窯があったことが確認されたと発表した。
 粉青沙器窯1基、廃棄場1基、竪穴遺構1基のほかに、念珠、粉青沙器平鉢(대접)、皿、軟質の白磁破片、各種陶磁器製作道具などの遺物が出土した。
 特に窯跡では国内陶窯跡発掘史上初めて、僧侶らが使う念珠(염주)と念珠陶枕(도짐이、焼き物のための焼台)が発見された。念珠は近隣の長安寺の影響を受けたためと推測する。
 粉青沙器皿の下の部分に、蔚山の行政官庁の長興庫で製作したという印の「蔚山長興庫」銘が彫られていて、長安一帯が朝鮮時代貢納用磁器を生産する地域と推定された。
[参考;聨合ニュース]

備考: 佛光山長安寺 (釜山広域市機張郡長安邑長安里598)
 長安寺は新羅文武王13年(673年)に元暁大師が創建して双渓寺と呼んだ。新羅哀莊王10年(809)に長安寺と改称した。壬辰倭乱の時(1592)に兵火で全焼し、仁祖16年(1638)に再建したとされる。

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福岡市・鴻臚館 北館の北側20m地点から、築地塀跡の遺構が出土

2009年11月16日 | Weblog
 市教委と専門委員会は13日、鴻臚館跡(福岡市中央区城内)北館の北側約20mの地点で、東西に伸びる土製の外壁「築地塀」の基礎部分とみられる遺構が見つかったと発表した。
 今回、北館の北側約20m地点で、当時は砂丘だった溝から発見されたのは、築地塀(高さ不明)を支える基礎部分とみられる赤土と粘土を重ねた層(厚さ計50cm)と、築地塀の屋根に使われていたと推定される9世紀ごろの瓦。
 これまでは南北約200mと推定されていた鴻臚館の規模が、高さ4mの台地上にとどまらず、崖下の砂丘までに及ぶ北側に約20m大きかった可能性を示している。
 14日午前10時-午後3時、市民向けの現地説明会が開かれた。
[参考:西日本新聞]

過去のニュース
 2008.11.22 福岡市・鴻臚館 1‐3期は東側に門 遺構の柱穴を確認



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茅ケ崎市・下寺尾七堂伽藍跡 第15次調査 大型掘立柱建物跡を確認 11/14現地説明会

2009年11月14日 | Weblog

下寺尾官衙遺跡群出土瓦類と懸仏。 2011.6.14「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて撮影。

 茅ヶ崎市教育委員会は、古代寺院の遺跡・七堂伽藍跡(同市下寺尾149-2)の調査で大型掘立柱建物跡を確認した。伽藍配置を考える上での重要な建物の確認であり、仏像を安置する金堂など主要な建物の可能性があるという。
 これまでに、計15の穴の跡が確認され、うち建物を支える柱の穴の跡は9、庇を支えるものは6。穴の跡は約1m四方で、深さ70cm前後。東西に長い建物と推測されるという。
 また、今年の夏に行われた調査では、建物が「掘り込み地業」と呼ばれる、寺院建築などで行われる工法で造成されたことが確認された。掘り込み地業は東西方向約18m、南北方向15.6mの大きさで、規模の大きな建物であったことがうかがえるという。このことから、基壇があり、礎石の上に建つ瓦葺の建物であったと推測されている。
 現地見学会が、11月14日(土)午前10時および午後1時から開かれる。(小雨決行)
[神奈川新聞、茅ヶ崎市HP、神奈川県教育委員会HP]

過去のニュース
 2008.10.25下寺尾七堂伽藍跡 伽藍跡遺構見つかる



2013.2.27追記
 茅ヶ崎市のHPに「ちがさき丸ごと博物館」(第12号201.7.1)特集・下寺尾遺跡群が掲載されていた。
 約80m四方の大きさの範囲に主要な建物が配置された七堂伽藍跡とすぐそばに七世紀後半から8世紀前半にかけて営まれた高座郡衙が描かれたイラストがあり、その関係がわかる。
 高座郡衙は七世紀後半から8世紀前半にかけて営まれたとしているが、伽藍の方は奈良時代初期(7世紀末)の創建期となっている。創建の前後関係が微妙である。
 高座(こうざ)郡は、『日本書紀』に「高倉郡」の名が見え、後の平安時代に『和名抄』で「太加久良」と記されていることから、「たかくら」と呼ばれていたことがわかる。
 ちなみに、相模国一宮である寒川神社は高座郡の最も西にあり、雄略天皇の時期からあったとか、社殿が8世紀前葉に造られたとか。

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横須賀市・乗越遺跡 相模原国分寺創建期の瓦と同一文様の瓦が出土

2009年11月13日 | Weblog
 横須賀市教育委員会の調査で12日、奈良時代に建立された相模国分寺(海老名市)の屋根瓦と同じ文様の瓦が乗越遺跡(のりごしいせき、横須賀市秋谷)で見つかり、8世紀の中頃に市内に本格的な瓦の生産拠点があったことが明らかになった。
 当時の相模国分寺付近には瓦に適した粘土がなかったため、同寺の瓦は横須賀市内で生産され、相模川などを伝って約40km先まで船で運ばれていたとみられる。
 乗越遺跡は、相模湾に面した海浜部の低丘陵地帯にあり、2007年度と2008年度の発掘調査で瓦窯跡8基が見つかった。発掘後、出土した瓦の破片3000点を洗浄して調べたところ、破片の一つ(縦約5・3cm、横4・7cm、最大厚3・75cm)がハスの花の模様があり、特徴から相模国分寺の金堂や七重塔などの屋根の軒下先端に付けられた軒丸瓦(注1)の一部と分かったという。
 乗越遺跡では、相模国分寺跡から出土したものと同じ平瓦や丸い瓦が見つかっていたが、軒丸瓦が見つかっていなかった。
 横須賀市内では7世紀後半から瓦が焼かれており、瓦技術者を抱える豪族が相模国分寺建立に積極的に協力したと考えられるという。
 発見された軒丸瓦の破片は11月20日から12月6日まで、同市深田台の市自然・人文博物館の特設コーナーで展示する。
[神奈川新聞、読売新聞、TVKニュース]

(注1):記事の写真から「珠文縁単弁五葉蓮華文(じゅもんぶちたんべんごようれんげもん)軒丸瓦」と名づけられた軒丸瓦と思われる。
写真は、相模国分寺跡(H21.11.20撮影)


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韓国金海市・大成洞古墳群 4世紀後半の伽耶時代箭筒が出土

2009年11月12日 | Weblog
 金海市大成洞古墳博物館は11日午後、金官伽耶王族と貴族らの集団墓地である慶南金海大成洞古墳群(김해 대성동고분군)の発掘現場で、専門家たちが参加する指導委員会を開いて、先月12日から現在まで大成洞古墳のある丘陵に位置する木槨墓などを対象に行った5次発掘調査の成果を発表した。
 大成洞博物館は今回、68号(長さ610㎝、幅330㎝)、70号(長さ540㎝、幅410㎝)と71号(長さ560㎝、幅310㎝)の3基の木槨墓を中心に発掘調査を行った。まだ調査中である70号を除いて、68号と71号木槨墓から4世紀後半の土器類と鉄器類、漆器類、サメの歯などが出土した。
 特に68号木槨墓では冑(투구)、胴札(요찰)、鉄矛(철모)、鉄轡(재갈)、箭筒(화살통、盛矢具)等の鉄器類が発掘され、中でも、伽耶時代の箭筒の出土は、現存する実物資料中で最も早い時期(350~370年の間)に製作されたとみられ、当時強力な軍隊を保有したことを示す証拠と評価されて学界の大変な関心を集めている。
 これまで、5世紀前半釜山福泉洞(부산 복천동)22号で出土した箭筒が最も早い時期の実物資料として知られていた。
 大成洞古墳群は1990年から2001年間4回にかけて発掘調査が行われ、伽耶時代最高の遺跡として国家史跡 第341号に指定されている。また、来年は最初の発掘調査から20周年を迎える。
[参考:聯合ニュース]
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大垣市・荒尾南遺跡 弥生-古墳前期の遺跡としては岐阜県内屈指の規模を確認 11/14に現地説明会

2009年11月11日 | Weblog
 県文化財保護センターは10日、「荒尾南遺跡」(同市荒尾町と桧町)が弥生-古墳時代前期の遺跡としては県内屈指の規模であると発表した。今年9月末現在で、弥生中期の方形周溝墓144基や、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての竪穴住居跡211カ所が発見されており、当時の集落の広がりや変遷、さらに住居群や方形周溝墓群の分布位置などを裏付けた。
 今年度の調査では、9月末時点で方形周溝墓20基、竪穴式住居跡52カ所を発見した。
 方形周溝墓は、ほとんどが弥生時代中期で、遺跡の北西部から南に流れていた当時の川を挟んで東側にまとまっていた。川の南西側でも一部、弥生時代後期から古墳時代のものが確認された。遺跡東部の方形周溝墓の周溝底から、弥生時代中期の土器もまとまって出土した。
 遺跡北部から中央部に広がる住居群を確認。重なり合った状態で見つかった竪穴式住居もあり、同じ場所を居住域として何世代にもわたって利用していたと考えられるという。
 遺跡東部に広がる弥生時代後期から古墳時代前期の水田域を確認した。
 竪穴住居跡の床面と河川跡からは、土器の彩色などに使われる赤色顔料のベンガラがまとまって出土した。
 荒尾南遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての濃尾平野北部に位置する遺跡。東西200~300m、南北約650m、面積17万㎡と推定される。
 現地説明会が14日午後1時半から開かれる。
[参考:中日新聞、毎日新聞、岐阜県文化財保護センターHP]

過去のニュース
 2008.11.11 荒尾南遺跡 現地説明会 11/15
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