歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

鹿児島県伊佐市・下鶴遺跡 県内初、銅戈が出土 北部九州との交流の証

2009年11月22日 | Weblog
 県立埋蔵文化財センターは19日、下鶴遺跡(同市大口下殿)で、弥生時代中期(約2200年前)の地層から青銅器「銅戈」の先端部分が出土したと発表した。県内初で、全国最南端の出土例。北部九州で同時期に多く出土しており、北部九州との交流を示すものとしている。
 出土した銅戈は長さ8cm、幅3・3cm、厚さ0・6cm、重さ39・7g。本体の長さは20cm前後とみられる。墓跡とみられる穴(長さ130cm、幅80cm)から出土した。中央部に「樋(ひ)」と呼ばれる溝が縦に2本施されている。
 銅戈は中国伝来で、木製の柄の先に取り付ける武器。国内では主に祭祀に使われたとみられる。従来、熊本県山鹿市が国内最南端の出土例だった。青銅器としては、県内では志布志市有明町野井倉の銅矛(弥生時代後期)に続き2例目。
 28日午前10時と午後2時、現地説明会が開かれる。(雨天決行)
[参考:2009.11.19 南日本新聞、毎日新聞]
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安芸高田市・甲立古墳 広島県内で3番目に大きい前方後円墳が見つかる

2009年11月22日 | Weblog
 安芸高田市教委は19日、広島大考古学研究室の踏査により同市甲田町上甲立(かみこうたち)江田地区の山林で、4世紀後半のものと見られる前方後円墳がほぼ完全な姿で見つかったと発表した。同日、現地でマスコミ向けの説明会が行われた。
 古墳のある菊山周辺には、中世の武将・宍戸氏の史跡が集中している。古墳は、菊山の山裾で江の川を望む南東側斜面(標高249m)にあり、100m南西、国道54号北側の南北朝時代・14世紀前半の宍戸氏の本拠・「柳ケ城(やながじょう」跡」の城郭の一部と見られていた。
 このほど調査の結果、全長75mの前方後円墳と確認、市教委は地名から「甲立古墳」と命名予定という。
 後円部が斜面上手の真北を向いていて高さは13mある。後円部は最大幅約42m、頂上の平らな部分の直径は約15m。古墳の斜面全体に川石を使った葺石が敷き詰められていた模様。
 埴輪を置くテラス状の段築(だんちく)が2段に築かれ、周辺からは円筒や舟形埴輪片約20点が出土し、その形状から前方後円墳としては、県内で最も古い神石高原町にある「辰の口古墳」と同じ4世紀後半のものとみられる。当時には、備後だけでなく安芸地方の江の川・太田川流域で最大の権力がこの地に存在したと考えられる。
 未盗掘でほぼ原型のまま残っており、後円部中央に竪穴式石室があると見られる。
 前方後円墳の規模は、東広島市の三ツ城古墳(全長92m、5世紀後半)、神石高原町の辰の口古墳(同77m)に次ぎ3番目。
 安芸高田市では、来年度から2年間かけて現地を試験的に掘って詳しい調査を行い、市史跡への指定を目指す。
 21日午後1時に地元の人を対象にした説明会があり、28日午前10時と午後2時の2回、一般向けの現地説明会が開かれる。
[参考:2009.11.19~20 RCC中国放送、HIV広島テレビ、中国新聞、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞]


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富山市・百塚遺跡 弥生時代後期~古墳時代の埋葬施設 ガラス玉が出土

2009年11月22日 | Weblog
 市埋蔵文化財センター(同市愛宕町)が19日、呉羽山丘陵の北端にあり神通川の西岸に位置する百塚遺跡(同市百塚)で木棺の周囲に川原石が敷き詰められた弥生時代後期~古墳時代初頭の埋葬施設が県内で初めて発見され、周囲の墳墓からはガラスの小玉約70個も見つかったと報道陣に公開した。
 調査は、県道富山八尾線の工事に伴い05年から実施。今年度は9月から約2100㎡を発掘。弥生後期~古墳時代初頭(約2000~1800年前)の墳墓や古墳が計11基見つかった。今回初めて、埋葬施設が2か所確認された。
 このうちの1基は、直径30cm程度の川原石が敷き詰められた埋葬施設で、長さ約2・5m、幅約1・2m、深さ約1m。石は木棺を固定するために敷かれたとみられるが、棺の下部にも積まれた珍しい構造で61個が確認された。神通川の河川交通を掌握していたことを示すため、意図的に川原石が使われた可能性もあるという。
 これまで棺の底部分に石を敷き詰めた埋葬施設は群馬県や長野県でも見つかっているが、周囲にも積まれていたものは珍しいという。さらに副葬品として鉄製の鏃(長さ約7cm)1点なども出土した。
 出土した他の古墳・墳墓は、■四隅が切れたタイプの方形周溝墓4基、■1辺だけが切れた方形周溝墓1基、■円形周溝墓4基など。いずれも一辺や直径が6~10mだった。
 このうち方形周溝墓の埋葬部分からは、直径3~5mmの美しい鮮やかな青色のガラス小玉が約70個見つかった。中央に糸を通す穴があり、首飾りなどの装飾品として遺体につけられたとみられる。当時、ガラスは北陸に伝わったばかりで、これだけ多くのガラス玉が出土したのも県内初という。1カ所からの出土例では、これまで同市杉谷の杉谷A遺跡の27個が県内最多だった。神通川の河川交通を掌握する有力な集団が富山平野に存在していたと推測されるという。
 呉羽山の北端に位置する同遺跡付近一帯は、長らく埋葬地区とされ、これが「百塚」の地名の由来とも考えられている。
 百塚遺跡は、初代富山藩主の前田利次が富山城を築く予定だった場所とされ、遺跡からは江戸時代の人骨と瀬戸焼も見つかった。
 富山平野では、国指定史跡「王塚古墳」がある羽根丘陵と、呉羽山丘陵南部で、有力な集団がいたとされていた。05~07年には、百塚遺跡の北側に隣接する遺跡から、弥生時代終末期~古墳時代初頭の円墳や方墳などが10基以上見つかっていた。呉羽山丘陵には複数の集団が存在したが、やがて統合されて「王塚古墳」ができたとみられる。
 調査は来年前半まで続く予定。
 21日午前10時~正午には現地説明会が開かれた。
[参考:2009.11.19~20 富山新聞、北国新聞、KNB北日本放送、北日本新聞、毎日新聞、朝日新聞]


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木津川市・恭仁宮跡 朝集殿院の区画が判明 平城宮と同形

2009年11月22日 | Weblog
 京都府教委は19日、恭仁宮跡の朝堂院と、朝集殿院を隔てる塀跡を確認し、朝集殿院の区画がほぼ判明したと発表した。
 恭仁宮は東西約560m、南北約750mの広さ。中央部には、平城宮から移築されたとされる大極殿が置かれ、その南に朝堂院と朝集殿院が続く。
 朝集殿院は過去の想定より北に47m拡大。南北125m、東西134mと分かった。
 これまで朝集殿院と同じ東西幅と考えられてきた朝堂院の西塀跡も確認した。朝集殿院より18~15m狭い「凸字型」と分かった。同じ形は奈良時代前半の平城宮東区朝堂院だけで、平城京の朝堂が恭仁京に移築された可能性もあると推測している。
 これにより、恭仁宮が、平城宮をモデルに築造されたことが明確になったとみている。
 現地説明会が21日に行われた。
[参考:2009.11.19~20 京都新聞、毎日新聞、読売新聞]

過去のニュース
2007.11.22 木津川市・恭仁京宮跡 大極殿院回廊跡の一部が出土 平城宮の8割の規模と判明
 府教委が22日、奈良時代の740~44年にかけて聖武天皇が都を置いた恭仁京宮跡(同市加茂町)で、国家的儀式を行う正殿・大極殿を囲む大極殿院回廊跡の一部が出土したと発表した。
 回廊の北西隅が確認できたことから、従来の遺構などと合わせて考えると、大極殿院回廊の東西幅は148・6mに達する。これは平城宮の約8割の規模にあたる。
 昨年見つかった回廊西側の礎石跡北側で、南北一直線に並ぶ直径1・2~1・5mの長円形の6か所見つかった。間隔は4・6mで、北端の3個は3・5mと短くなっていた。
 東の調査区でも、東西方向の4・6m間隔の穴を確認。西端の3個が3・5m間隔と仮定すると、位置が一致することから、北西端が2間分(約7m)柱間の短いことが分かった。穴は北西端から7m内側からも見つかり、回廊が7m幅であることが分かった。
 「続日本紀」は、平城京の大極殿と歩廊(大極殿院回廊)を恭仁京に移したと記述。礎石跡の間隔が、平城宮の大極殿院回廊跡の隅の部分と一致し、記述が裏付けられた。
 また、平城宮と同様に回廊が中央の土塀で仕切られた内外の2列に分かれていたことを示す穴も二つ見つかった。
 穴から約1.5mの位置に屋根から落ちた雨を受ける溝があったが、平城宮では溝の位置は穴から約3m。区域の狭い恭仁宮にそのまま移築できず、屋根を短くしたらしい。
 現地説明会は24日午前10時半から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞、毎日新聞]
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