歴歩

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源氏物語 多様な姿を現す 標準本と異なる展開を映す「大沢本」 外伝「巣守帖」の断簡を発見

2009年11月02日 | Weblog
■源氏物語「大沢本」 標準的な写本「青表紙本」との違い2000字、異なる展開も
 源氏物語の写本の一つで、昨年約70年ぶりに全54帖の存在が確認された「大沢本」(鎌倉-室町時代)に、標準的な写本「青表紙本」の本文と大きく異なる展開の内容が含まれていることが、大阪大名誉教授・国文学研究資料館(東京都立川市)伊井春樹館長の研究で分かった。異なる部分は約2千字分。
 藤原定家が編纂した青表紙本の本文と大きく違う部分が見つかったのは、主人公光源氏の死後の物語「宇治十帖」の中の「蜻蛉巻」(かげろうのまき)。 薫と匂宮という2人の男性との三角関係に悩んでいた美女・浮舟が宇治で行方不明になってしまった後のくだりだ。
 青表紙本では、匂宮に命じられた従者の時方が夕方都を出て、雨が上がったころ宇治に着く。やがて時方が帰った後に、浮舟の母君が葬儀を行うという展開。だが大沢本では、先に雨の中で母君が宇治に着き、葬儀を計画。小降りになったころに時方が着くという展開に変わっている。
 大沢本は主に、鎌倉―南北朝時代に作られたとされるが、蜻蛉巻は室町時代に補充して作られたとされる。
 作者の紫式部による自筆本は現存していない。代わりに書写され、少しずつ内容が変化した様々な写本が伝承。鎌倉時代、藤原定家はそれらを整理、以後、研究が途切れることなく続いてきた。
 大沢本はこのほか、前半の「花宴巻」の巻末にも源氏の心境をつづった部分があるなど、標準本と違う部分が数多く見つかっている。
[共同通信、朝日新聞]

■源氏物語 外伝「巣守」か 断簡を発見
 現代に伝えられる「源氏物語」54帖には存在せず、古い注釈書などに巻名だけが残る「巣守巻」とみられる写本の一部が見つかった。これは源氏物語の後半「宇治十帖」の続編を紫式部の死後に別人が書いたとされてきたもの。これまで実態がわからなかった幻の写本で、源氏物語の変遷を探る貴重な資料となりそうだ。
 源氏物語研究で知られる池田和臣・中央大教授(中古文学)が古書店から入手した15・5cm四方の古写本の断簡2枚が、筆跡や紙質の鑑定により鎌倉末期から南北朝時代のものと判明した。源氏物語には現在知られている54帖のほかに、平安末期の故実書「白造紙」(はくぞうし)に「巣守」「桜人(さくひと)」「狭蓆(さむしろ)」などと巻名目録に記されており、人物紹介などを記した「源氏物語古系図」にも「巣守」の名前が挙げられている。
 池田教授が1葉目を入手したのは、15年ほど前。屏風に張られた多くの断簡の中から見つけた。さらに昨年、古美術品市場に出た手鑑(てかがみ)(断簡を集めたアルバム)から、もう1葉を発見。筆跡や紙の特徴により、同じ写本から切られた断簡だと判断した。
 さまざまな資料を総合すると、「巣守帖」は、薫の誠実さにひかれた「巣守の君」(光源氏の甥・源三位の娘で中君の姉)が若君を産み、求愛する匂宮の執着から逃れようと山中に隠れてひっそりと暮らす内容。
 見つかった断簡には、山に沈む月を見ながら隠とん生活を送る「巣守の君」の心情を思わせる、現存の資料には見られない和歌が記されていた。
  「うき世をも かけはなれなは いる月は 山こそついの すみかなるらめ」
 執筆年代や人物の関係などから、散逸した写本にほぼ間違いないと結論づけた。
 この写本については、21日に東京・実践女子大で開かれるシンポジウムで発表される。
[参考:朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

昨年発見 源氏物語写本「大沢本」標準本と異なる展開も(産経新聞) - goo ニュース
源氏物語の写本に新展開部分 80年ぶり確認の「大沢本」(共同通信) - goo ニュース
源氏物語“続編”見つかる 「巣守帖」写本の一部か(共同通信) - goo ニュース
源氏物語、幻の続編「巣守帖」か…写本確認(読売新聞) - goo ニュース

過去のニュース・情報
 2008.7.22源氏物語「大沢本」鎌倉中期の写本全54帖 70年ぶり確認


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奥州市・長者ヶ原廃寺跡 第12次調査の成果を発表、11月3日に現地説明会

2009年11月02日 | Weblog
 奥州市世界遺産登録推進室は31日、国史跡「長者ヶ原廃寺跡」(同市衣川区田中西)の本年度の発掘成果で、遺跡西側(衣川に近い場所)から寺院建設以前とみられる溝跡を発見したと発表した。
 遺跡を囲む土の塀「築地塀」の建設のために、溝は人為的に埋められたと考えられる。奥州藤原氏の祖先、安倍氏が約千年前に建てたとみられる寺院以前に、何らかの施設が同じ場所にあった痕跡となる。
 遺跡東側では一部で土色の異なる(初めは黄色っぽい土、後から黒っぽい土の)築地塀を確認した。地震などによって倒壊した塀を造り替えた跡とみられる。塀が補修されながら一定期間使用されていたことを示す。
 遺跡内に確認されている本堂跡と西建物跡以外に、東側に建物跡がある可能性もあったが、調査の結果、礎石も掘立柱建物跡の痕跡も確認することはできなかった。束稲山(たばしねやま)の眺望を確保するための狙いだったとのことを裏付ける結果につながっている。
 遺跡北門の外側でも、現時点で建物の痕跡は発見されていない。
 現地説明会が11月3日(火・祝)午後1時から行われ、今年度の発掘調査の成果などが報告される。
[参考:岩手新聞、岩手日日新聞、奥州市世界遺産登録推進室HP]

写真は、復元された紫波城址築地塀。(参考)

過去のニュース・情報
 2008.9.26 奥州市 長者ヶ原廃寺に北門跡確認
 長者ヶ原廃寺跡



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