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木津川市・恭仁宮跡 朝集殿院の区画が判明 平城宮と同形

2009年11月22日 | Weblog
 京都府教委は19日、恭仁宮跡の朝堂院と、朝集殿院を隔てる塀跡を確認し、朝集殿院の区画がほぼ判明したと発表した。
 恭仁宮は東西約560m、南北約750mの広さ。中央部には、平城宮から移築されたとされる大極殿が置かれ、その南に朝堂院と朝集殿院が続く。
 朝集殿院は過去の想定より北に47m拡大。南北125m、東西134mと分かった。
 これまで朝集殿院と同じ東西幅と考えられてきた朝堂院の西塀跡も確認した。朝集殿院より18~15m狭い「凸字型」と分かった。同じ形は奈良時代前半の平城宮東区朝堂院だけで、平城京の朝堂が恭仁京に移築された可能性もあると推測している。
 これにより、恭仁宮が、平城宮をモデルに築造されたことが明確になったとみている。
 現地説明会が21日に行われた。
[参考:2009.11.19~20 京都新聞、毎日新聞、読売新聞]

過去のニュース
2007.11.22 木津川市・恭仁京宮跡 大極殿院回廊跡の一部が出土 平城宮の8割の規模と判明
 府教委が22日、奈良時代の740~44年にかけて聖武天皇が都を置いた恭仁京宮跡(同市加茂町)で、国家的儀式を行う正殿・大極殿を囲む大極殿院回廊跡の一部が出土したと発表した。
 回廊の北西隅が確認できたことから、従来の遺構などと合わせて考えると、大極殿院回廊の東西幅は148・6mに達する。これは平城宮の約8割の規模にあたる。
 昨年見つかった回廊西側の礎石跡北側で、南北一直線に並ぶ直径1・2~1・5mの長円形の6か所見つかった。間隔は4・6mで、北端の3個は3・5mと短くなっていた。
 東の調査区でも、東西方向の4・6m間隔の穴を確認。西端の3個が3・5m間隔と仮定すると、位置が一致することから、北西端が2間分(約7m)柱間の短いことが分かった。穴は北西端から7m内側からも見つかり、回廊が7m幅であることが分かった。
 「続日本紀」は、平城京の大極殿と歩廊(大極殿院回廊)を恭仁京に移したと記述。礎石跡の間隔が、平城宮の大極殿院回廊跡の隅の部分と一致し、記述が裏付けられた。
 また、平城宮と同様に回廊が中央の土塀で仕切られた内外の2列に分かれていたことを示す穴も二つ見つかった。
 穴から約1.5mの位置に屋根から落ちた雨を受ける溝があったが、平城宮では溝の位置は穴から約3m。区域の狭い恭仁宮にそのまま移築できず、屋根を短くしたらしい。
 現地説明会は24日午前10時半から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞、毎日新聞]

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