市教育委員会が25日、筒井城跡(同市筒井町)で、敵の侵入を防ぐために造った14世紀末-15世紀前半の土塁と堀が見つかったと発表した。
筒井城は豪族、筒井氏の居城。土塁は砂と粘土を交互に突き固めた堅固な造りで、中世の城郭としては例がないといい、築城様式の変遷を研究する上で貴重な史料。
土塁は、本丸に当たる主郭を取り囲む堀(幅約8・5m)に沿って出土した。地面を約50cm掘り下げ、砂と粘土の層(厚さ6~20cm)を交互に重ねて埋め、さらに約80cmの高さまで積み上げていた。上面に削られた形跡があり、当初はもっと高かったらしい。寺社の築地塀の技術を応用したとも考えられるという。
堀跡は幅8・5m、深さ1・5mが東西7mにわたって見つかり、堀の底には、両岸を結ぶように高さ最大約30cm、幅約40cmの土手のような障害物が築かれていた。西側の平面から約10cm盛り上がり、東側とは約30cmの段差があった。「畝堀」の可能性が高いという。畝堀は、後北条氏が小田原の山中城(16世紀後半)に設けたことなどで知られている。
堀内からは土器のほか、15世紀前半の頃と見られる茶釜の銅製の蓋(直径14cm、高さ3・5cm)なども出土した。筒井氏が茶の湯に親しんだことを示すという。
現地説明会は28日午前10時から。(小雨決行) 問合せは市教委生涯学習課。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞]
備考:
●筒井城
筒井城の創築時期は不明だが、僧侶・満済(まんさい、1378~1435)が残した「満済准后日記」』(まんさいじゅごうにっき)に永享元(1429)年の条に、筒井館と記載されるのが初見である。当時の主は筒井順覚(?~1434)。
今回出土した遺構が14世紀末-15世紀前半とすると、筒井順覚の頃(あるいは下って筒井順永の頃)が濃厚か。
●筒井氏
筒井氏の出自について藤原氏の一族、近衛氏の分かれとする説、あるいは大神神社の神官・大神氏とする説など諸説あるらしい。
筒井氏は筒井庄(大和国添下郡筒井)を本拠とし、興福寺に属する僧兵から身を興した武士であるといわれる。
今は、生駒市にある圓證寺(えんしょうじ、真言律宗)は筒井氏のゆかりの寺院だとされ、もとは筒井庄のあったといわれる。ここには順覚の4代後となる、順昭(1523-1550)を供養する五輪塔(重文)があり、天文19年(1550年)の銘がある。
筒井城は豪族、筒井氏の居城。土塁は砂と粘土を交互に突き固めた堅固な造りで、中世の城郭としては例がないといい、築城様式の変遷を研究する上で貴重な史料。
土塁は、本丸に当たる主郭を取り囲む堀(幅約8・5m)に沿って出土した。地面を約50cm掘り下げ、砂と粘土の層(厚さ6~20cm)を交互に重ねて埋め、さらに約80cmの高さまで積み上げていた。上面に削られた形跡があり、当初はもっと高かったらしい。寺社の築地塀の技術を応用したとも考えられるという。
堀跡は幅8・5m、深さ1・5mが東西7mにわたって見つかり、堀の底には、両岸を結ぶように高さ最大約30cm、幅約40cmの土手のような障害物が築かれていた。西側の平面から約10cm盛り上がり、東側とは約30cmの段差があった。「畝堀」の可能性が高いという。畝堀は、後北条氏が小田原の山中城(16世紀後半)に設けたことなどで知られている。
堀内からは土器のほか、15世紀前半の頃と見られる茶釜の銅製の蓋(直径14cm、高さ3・5cm)なども出土した。筒井氏が茶の湯に親しんだことを示すという。
現地説明会は28日午前10時から。(小雨決行) 問合せは市教委生涯学習課。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞]
備考:
●筒井城
筒井城の創築時期は不明だが、僧侶・満済(まんさい、1378~1435)が残した「満済准后日記」』(まんさいじゅごうにっき)に永享元(1429)年の条に、筒井館と記載されるのが初見である。当時の主は筒井順覚(?~1434)。
今回出土した遺構が14世紀末-15世紀前半とすると、筒井順覚の頃(あるいは下って筒井順永の頃)が濃厚か。
●筒井氏
筒井氏の出自について藤原氏の一族、近衛氏の分かれとする説、あるいは大神神社の神官・大神氏とする説など諸説あるらしい。
筒井氏は筒井庄(大和国添下郡筒井)を本拠とし、興福寺に属する僧兵から身を興した武士であるといわれる。
今は、生駒市にある圓證寺(えんしょうじ、真言律宗)は筒井氏のゆかりの寺院だとされ、もとは筒井庄のあったといわれる。ここには順覚の4代後となる、順昭(1523-1550)を供養する五輪塔(重文)があり、天文19年(1550年)の銘がある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます