2010年8月1日、倉敷ホーリネスチャーチの礼拝メッセージ『弱い人を受け入れる』のメッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマ人への手紙14章1~12節
抜粋:1:信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
<要約>
主の御名を賛美します。
茶碗で一番大切な事は何でしょう? 作られた窯でしょうか? デザインや素材でしょうか? いえ、一番大切な事は、中が空っぽということです。
食べ物の事、聖日の事が記されています。弱い人は野菜ばかり食べるとあります。なぜ弱いと表現されているのでしょうか?
当時、肉の流通は偶像に供えられた肉が市場に並び、それを買って食べる習慣があったようです。その偶像に一時供えられた肉を食べるか食べないか、それが記されているのです。肉を食べないのは、信仰が弱いからだと言う人があり、またある人は受け入れる事ができないと言っています。週の初めの聖日も同じ事のようです。
14:1に、信仰の弱い人を受け入れなさい(もてなしなさい)とあります。主イエスがこの私を受け入れてくださったのだから、弱い人を受け入れ(もてなし)なさいと伝えています。きちんとした理由があって記されているのです。
マザーテレサにボランティアとして同行した青年がいました。口もきけず、道へ横たわっていた老人を施設に運び世話をします。老人は感謝しているのかどうなのか伝える事が出来ません。しかし涙をもって青年を伝える目がすべてを物語っていました。
ブドウ園で主人から雇われ働く僕が聖書に登場しています。ある僕は朝早くから終わりまで1デナリで契約しました。まだ人が足らないので、昼に追加しました。まだ足らないので終わりの少し前に追加しました。そして作業が終わり賃金を主人は払います。
結論は、朝早く働いた僕も、少しだけ働いた僕も同じ1デナリを受け取りました。朝早くから働いた僕は、「少ししか働かない者と同じでは納得できない」と主人を裁きます。しかし主人は自分のしたい様に行った事がなぜ悪いのか。と不平を言う僕に話します。
契約し働いた僕はいったいだれのものでしょう? そう主人、神様のものです。神様がどうされるか受け入れるしかないのです。人と比べて、あの人の方が良いとか、これだけ奉仕したのになど、心にいっぱいある暗いものを捨て、空っぽにする必要があるのです。
「では、早くから神様を信じた人も、亡くなる直前に信じた人も同じではないか!」と言われる方もおられると思います。結論は、そう同じです。が、決定的な事は、直前に自分の都合で信仰を作るなど出来ないと言う事です。直前の悔い改めも神は見られますが、そのような神がかりは人にはできません。
主のために生き、主のために死ぬ事。すべてを私たちは託されているのです。
最後の日、裁きがあっても私たちは主にかがみ、賛美を捧げる事が出来るのです。その日にビビる事など、必要ないのです。
時に、主のご計画に疑問を感じる事もあるでしょう。しかし人知を越えたご計画がそこにあると確信し、信じる事ができれば幸いです。
今週も、主にあり素晴らしい日をお過ごしください。
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聖書:ローマ人への手紙14章1~12節
抜粋:1:信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
<要約>
主の御名を賛美します。
茶碗で一番大切な事は何でしょう? 作られた窯でしょうか? デザインや素材でしょうか? いえ、一番大切な事は、中が空っぽということです。
食べ物の事、聖日の事が記されています。弱い人は野菜ばかり食べるとあります。なぜ弱いと表現されているのでしょうか?
当時、肉の流通は偶像に供えられた肉が市場に並び、それを買って食べる習慣があったようです。その偶像に一時供えられた肉を食べるか食べないか、それが記されているのです。肉を食べないのは、信仰が弱いからだと言う人があり、またある人は受け入れる事ができないと言っています。週の初めの聖日も同じ事のようです。
14:1に、信仰の弱い人を受け入れなさい(もてなしなさい)とあります。主イエスがこの私を受け入れてくださったのだから、弱い人を受け入れ(もてなし)なさいと伝えています。きちんとした理由があって記されているのです。
マザーテレサにボランティアとして同行した青年がいました。口もきけず、道へ横たわっていた老人を施設に運び世話をします。老人は感謝しているのかどうなのか伝える事が出来ません。しかし涙をもって青年を伝える目がすべてを物語っていました。
ブドウ園で主人から雇われ働く僕が聖書に登場しています。ある僕は朝早くから終わりまで1デナリで契約しました。まだ人が足らないので、昼に追加しました。まだ足らないので終わりの少し前に追加しました。そして作業が終わり賃金を主人は払います。
結論は、朝早く働いた僕も、少しだけ働いた僕も同じ1デナリを受け取りました。朝早くから働いた僕は、「少ししか働かない者と同じでは納得できない」と主人を裁きます。しかし主人は自分のしたい様に行った事がなぜ悪いのか。と不平を言う僕に話します。
契約し働いた僕はいったいだれのものでしょう? そう主人、神様のものです。神様がどうされるか受け入れるしかないのです。人と比べて、あの人の方が良いとか、これだけ奉仕したのになど、心にいっぱいある暗いものを捨て、空っぽにする必要があるのです。
「では、早くから神様を信じた人も、亡くなる直前に信じた人も同じではないか!」と言われる方もおられると思います。結論は、そう同じです。が、決定的な事は、直前に自分の都合で信仰を作るなど出来ないと言う事です。直前の悔い改めも神は見られますが、そのような神がかりは人にはできません。
主のために生き、主のために死ぬ事。すべてを私たちは託されているのです。
最後の日、裁きがあっても私たちは主にかがみ、賛美を捧げる事が出来るのです。その日にビビる事など、必要ないのです。
時に、主のご計画に疑問を感じる事もあるでしょう。しかし人知を越えたご計画がそこにあると確信し、信じる事ができれば幸いです。
今週も、主にあり素晴らしい日をお過ごしください。
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