新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

はれのひ問題

2018年01月27日 | 日記

 奥牧野、日影原の市民農園はすっかり雪に埋まっています。30センチぐらい積もったのでしょうか。いまはその表面がすっかり凍りついて厚い皮膜をつくっています。駐車場に入ろうとしても、雪の表面がかちかちで、車が傷つきそうで、やめました。つまり駐車する場所がありません。
 福寿草のようすを見にいったのですが、道路に長い間、駐車するわけにもいかず、あきらめました。
 温泉病院入り口から奥牧野までの道路状況もよくありません。4輪駆動車以外の走行は危険です。

「はれのひ」の社長がついに姿を現したようですね。困ったものです。「困ったものとはどういう意味か」を書いてみます。
 私が二十歳になったのは昭和40年代半ばでした。親元を離れて暮らす学生でした。成人の日は1月15日と定まっており、当時住んでいた板橋区の3畳一間の下宿にも、区役所から成人式の案内(たしかはがき一枚)が届きました。しかし成人式に出席する気などさらさらなく、平々凡々と1月15日を過ごしたように思います。おカミが主催する催しなどに参加するものか、という意気込みというか生意気な感情がありました。周りの同年代の友人たちとの会話にも成人式の話など出ませんでした。投票権がもらえること、酒、たばこが正式に飲めることなどを通じて、社会の責任ある一員になったことの重みは実感していたはずです。重みを実感し、社会で責任を果たすことは成人式に出席することとは別ものだ、という強い意識をもっていました。
 昨今はどうでしょう。成人式とは晴れ着姿で写真を撮り、その姿を友人知人たちに見せびらかすことを意味するかのようです。成人式に出席することより、晴れ着を着ることが優先されているかのような報道ばかりで、だから成人式をもう一度してあげよう、と呼びかける人たちがでる始末です。この成人式とはまさに着物姿で写真を撮り、しゃなりしゃなりと町を歩くことでしょう。成人式の意味に大きなズレが生じていることがわかります。
 私たちの時代の成人式からすれば、二重にズレていることになります。「社会の責任ある一員になること」「成人式に出席すること」「晴れ着姿で写真を撮り、見せびらかすこと」の間のズレが、意識されなくなっているのではないかと危惧するしだいです。