「アンチャ、チッター ヨウナッタカネ」(おにいちゃん、少しは 治ってきましたか)
「ハヨウ ヨウナッテ モラワントネ」 (早く 治ってもらわないとね)
近所のおばさんが やってきたようで、玄関先から いつもの大声が聞こえてくる。M男は 座敷の真ん中に敷かれた布団の中で、うつらうつらしながら、外の様子に耳をそばだてる。
昭和20年代後半頃、そんなことが よく有った。
小学生の頃のM男は 「アタマ デッカノ ボボ カジカ」、頭だけ大きく、痩せこけていて、しょっちゅう風邪を引いて寝込んだり、扁桃腺を腫らせ高熱を出したり、よく学校を休んだ ひ弱な子供だった。直ぐ近くに父親の実家(本家)の家が有り、同い年の従兄弟T男がいて 双子の如くにして育ったが、隣り近所からは、ガイな(頑強な)T男、か弱いM男と レッテルを張られていたように思う。
朝 熱が有ったりして急に学校を休む羽目になっても電話も無かった時代、父母が 近所の家の子供に M男が欠席する旨を学校に伝えてもらうよう頼みに行く。すると たちまち 隣り近所の知るところとなり 入れ替わり立ち替わり やってきて声掛けされることになるのだ。昼間、玄関先で応対するのは だいたい祖母であったが 座敷からでも 会話はよく聞こえてきて、寝かされているM男にとっては 大騒ぎされていることが なんとも有難迷惑なような 複雑な気持ちがしたものだ。
「コレ、タベサセテ セイツケテヤッテクンナイ」(これを食べさせて元気になるようにして下さい)
等と、それぞれいろんな物を持ってきてくれたりしたが、中には 生みたてのニワトリの卵を数個、持ってきてくれる人もあった。ニワトリの卵、今でこそ、大規模鶏卵生産、大量流通で 全国津々浦々、安定した価格で販売されているベーシックな食品であるが 当時は 特にほとんどが農家だった北陸の山村では、野菜中心、自給自足的な食糧事情の暮らしの中で ニワトリの卵さえ 貴重な食品だったのだと思う。
時には 折箱に籾殻を詰め、自分の家のニワトリが生んだ卵を並べて 病気見舞いや進物等にしてもいたような気がする。風邪や扁桃腺で寝込む位のことで、隣り町の病院まで診てもらいに行く等ということは皆無で、せいぜい富山の置き薬を服用、水枕で解熱、食が進まないと「おかゆ」と「梅干」が定番、そんな時代、卵は 上げても喜ばれ、貰っても有難い存在だったのではないかと思う。
子供の頃の暮らしが蘇ってくるような懐かしい情景画。
相互フォロワー登録しているたなのぶ様の作品。
ご本人からご了解いただき拝借。
(おわり)
子どもの頃、我が家で鶏を飼っていて、卵をタンスの引き出しに満たしたすりぬか(籾殻)の中に保存してました。
病気のお見舞いに使ってましたね。
学校から帰って、こっそりと鶏小屋に行って卵を盗んで、釘で穴をあけて中身を吸って飲んでました。
ドロッとした黄身が美味かったなぁ〜!
mirapapaさんの子供の頃の情景が浮かぶようです。
コメントいただき有難うございます。