1359話)私のこどものころ とうふ

 とうふ 村祭りのときなど、大量に必要なときは、豆腐(とうふ)も自分の家でつくっていました。ふだんは、鍋をもっていって、何軒か東にあった店から1個ずつ買いました。 いつもコメントをいただくいがさんは、疎開先で麦を粉にひくのに石臼を使ったそうですが、私のうちはモーターで動かす製粉機があったので、それを使いました。貧乏なのに、なぜかそういう作業機はひと通りそろえていました。そのためによけいに貧乏に . . . 本文を読む
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1358話)私のこどものころ 梨

 梨  ずっと食べ物のことを書いてきたのに、前回、かいこのことを書いたのは、それがないとうまくつながらなかったからです。かいこの飼育には桑が欠かせません。その桑の栽培に支障がでたのです。葉が萎縮して育たない伝染病です。かなりの収入を養蚕に依拠していた実家にとってはかなりの痛手だったと思います。    ダメになった桑畑の転作を迫られました。多少の空白があったと思いますが、つぎにはじめたのが梨です。 . . . 本文を読む
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1357話)私のこどものころ かいこ

 かいこ 私が幼いころは、蚕(かいこ)を飼っていました。壁も天井も土で固めた土室(どむろ)があり、そこで卵をかえし、小さいあいだを過ごさせます。エサは桑の葉ですけど、虫が小さなあいだは、特別の種類のやわらかい葉をやっていたと思います。ある程度の大きさになると、場所を移して、養蚕場という作業楝に移していました。 最初のころは、母親と祖母が桑の葉を一枚一枚、摘んできていました。手の指に鋭い刃のつい . . . 本文を読む
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1356話)私のこどものころ 豆

 豆 いろんな種類の豆を作っていましたけど、多いのはダイズ(大豆)です。畑に専門に植えたのは記憶になく、たいていは水田の畔(あぜ)に植えた畔豆です。水田に稲を植えますね。水がもれないよう、その底に粘土が敷きつめてあります。私たちの記憶を遠く超えた先祖たちがやったこと。 畔立ては毎年やります。水田の縁が畔ですが、そこから水がもれないように土を固めていくわけです。いまはプラスチックの板をつかったり . . . 本文を読む
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1355話)私のこどものころ 芋

 芋 芋もいろいろ作っていました。いちばん多かったのはサツマイモです。一帯の土は大山が噴火したときの火山灰土で、まっ黒で、軽いのです。サツマイモにはよかったようです。おいしい芋だったそう。蒸かしたり、焼いたりして食べていました。そして、以前にも書いたように芋飴をつくったり、澱粉をとったりしていました。 ジャガイモもつくりました。こちらはなににして食べたか、記憶にありません。芋は一生分を食べ終え . . . 本文を読む
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1354話)私のこどものころ 雑穀

 雑穀 黄土高原に通うようになってから、雑穀と縁が深くなりました。中国語で雑糧(ザーリャン)。毎日のように食べるものが、アワ(小米)、キビ(黄米)、そしてトウモロコシ(玉米)、ソバ(蕎麦)、そのままでは食べませんが、液体にして食べているのがコーリャン(高粱)。 でも、こどものころ、私が食べた雑穀は多くはないのです。アワもキビも、そしてヒエも、栽培していませんでした。ソバは栽培していて、うちで脱 . . . 本文を読む
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1353話)私のこどものころ 麦

 麦 田んぼの裏作に麦を栽培していました。小麦、大麦、裸麦、そしてビール麦がありました。燕麦は家畜の飼料用だったと思います。小麦は粉にして、うどんを打つのにつかっていたと思います。それから焼き餅のようなものにして食べていたのかな。麦茶もありましたが、うちではあまり飲みませんでした。 大麦、裸麦は名称は覚えていますが、それがどんな麦で、どのように使ったか、記憶にありません。ビール麦はそのすべてを . . . 本文を読む
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1353話)私のこどものころ 麦

 麦 田んぼの裏作に麦を栽培していました。小麦、大麦、裸麦、そしてビール麦がありました。燕麦は家畜の飼料用だったと思います。小麦は粉にして、うどんを打つのにつかっていたと思います。それから焼き餅のようなものにして食べていたのかな。麦茶もありましたが、うちではあまり飲みませんでした。 大麦、裸麦は名称は覚えていますが、それがどんな麦で、どのように使ったか、記憶にありません。ビール麦はそのすべてを . . . 本文を読む
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1352話)私のこどものころ 米

 米 私んちは農業でしたが、田畑はあまり多くなく、小さな面積が7か所に分散していました。水田が3か所、畑が3か所、そしてサトイモ以外はつくれない湿地。それぞれのなかでも何枚にも分かれていました。 水田では米をつくっていました。苗代で苗を育てて、それを田植えします。父親が馬をつかって代掻きをし、近所の人に応援を頼んで植えていました。植えるのはたいてい女性たちです。お互いに手伝いあうんですけど、協 . . . 本文を読む
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1351話)私がこどもではなくなったころ

 私がこどもではなくなったころ  番外編のなかの番外です。私は18歳で家をでて東京にいき、学生寮に入りました。そして結局、寮にはずっといましたけど、教室にはゴールデンウイーク前までしかいかなかったのです。ですので、中退というのは学歴詐称で、ほんとは初退です。 ここまで読んできていただいて、こどものころ、食べるものにほとんどお金を使っていないことに気づかれたと思います。ほんとにそうだったのです。 . . . 本文を読む
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1350話)私のこどものころ 海藻

 海藻 海藻もよく食べました。たいていは浜でひろってきます。代表的なのはワカメで、本職の人が小舟の上から長い竹竿につけた鎌で刈るんですけど、すくい上げるのに失敗したものが、波によって海岸に打ち寄せられる。そうなったものは、もうだれが拾ってもよかったんですね。 もう10年も前でしょうか、北海道に行ったとき、コンブが海岸に打ち寄せられているのを私がひろったら、すぐに隠しなさい、と注意されました。漁 . . . 本文を読む
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1349話)私のこどものころ キノコ

 キノコ 私は父親っ子でしたので、馬車を引いて山にいく父親の尻によくくっついていました。で、この草は食べられる、こっちは毒だと教えられたのです。幼少時のその体験がいまに生きていると感じています。ザンネンに思うのは、キノコはこどもにはムリだといって、教えてくれなかったこと。 秋になると両親は、誰かのくるまに便乗したりして、大山の近くまでキノコ取りにでかけました。標高が800m前後の山のようで、ミ . . . 本文を読む
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1348話)私のこどものころ 秋の山

 秋の山 秋の山にはいろんな実がなりました。代表はクリですね。シバグリは、実は大きくありませんけど、甘くておいしかった。採ってきてすぐ食べるだけでなく、ゆでるか焼くかして、針で糸を通してつなげて乾燥したものを、カチグリと称して正月に食べました。ほんとにカチンカチン。 アケビもよく食べました。とにかく甘いものに飢えてましたからね。種がやたら多く、食べるところはちょっとしかないけど、見つけたらかな . . . 本文を読む
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1347話)私のこどものころ 山菜

 山菜 山菜採りにもよく行きました。いちばん熱心だったのはワラビです。ワラビの味噌汁が私は大好きで、それはいまでも変わりません。大人たちはゼンマイのほうに熱心だったと思います。ワラビも一部は干して保存して、煮て食べることもありましたが、それは例外で、たいていは一時期のものです。ゼンマイは下ごしらえに手間がかかりますが、長く保存して食べることができるので、それを大切にしたのだと思います。 それか . . . 本文を読む
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1346話)私のこどものころ お茶

 お茶 子どものころ、茶葉も自分の家でつくっていました。ずっと以前にだれかが植えたお茶の木が山にあり、その葉をつんで、乾燥させ、あぶって茶葉に加工していたのです。いま宝塚に住んでいて、山歩きを楽しむんですけど、けっこういろんなところにお茶の木が生えていますね。以前は多くの人が自分でお茶を育てていたのでしょう。 お茶以外のものも代用していました。アサドリと呼んでましたけど、アキグミのでたての軟ら . . . 本文を読む
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