田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

考える時の癖

2014年07月20日 | 日記
 無くて七癖、人には多かれ少なかれ癖がある。考える時の癖といえば、古畑任三郎の、親指と人差し指を顎の下に当てる仕草を思いつくが、書きたいのは思考の順序である。ここで書こうとしている『考える』とは、自分の脳で底辺から組み立てる思想のような事ではなく、見聞きしたことを考えることである。日常的にありふれたことで、自身も「考えたり」「考えさせられたり」「考えさせる」ことがある。近頃はネットの情報が多く、真偽を確かめようにも確かめられぬことが多い。そのような場合は『話半分、見てその半分』の例えに従い25%程度の真実として考えるようにしている私である。

 近頃、脳年齢の高齢化からか、一度読んだだけでは、聞いただけでは理解できないことが多くなった。また、読めない、意味が解らない漢字が多くなった。こればかりは、漢字変換でやたら難しい漢字を使う書き手が多くなったとも言えるのだけど、文章から文意を汲み取り、己の考えを組み立てる手法の順序が決まっていたように、ふと感じたのである。

 今までの私は、難解な文章は分解し短文にし、指示語は指示されるものを主語にして書き換える。意味の解らぬ語は解る語にして書き換える。短文を箇条書きで表す。このような作業をしたのだが、おおかたは途中で文意の理解は出来るようになる。しかし接続語などで文意が曖昧にされていることが多く、結論付けることを避けているように感ずることも多い。もしくは、結論は更に意見を取りまとめる必要があると、書き手が感じているからだと思うこともある。ならばそれを文中に書いてくれれば、いっそう文意が伝わると思う。

 話を聞く、講演を聴く場合、私はメモをとることが多い。メモはカタカナで意味の解らなかった語を書く半ば癖のようなものがある。漢字に弱い私にとって、意味の解らぬ語が入れば、その後の講演は皆目解らぬかと言えば、そうでもない。漠然とした意味は解るのである。かえってそのほうが良いかも知れぬ。話に迎合するのでもなく、疑って聴く耳を持たぬのでもなく、良く考えてから結論を出そうとするからである。帰宅してメモを見ながらキーボードを打つ。次々とディスプレーに現れる意味を講演に当てはめて、なるほどと感心すると同時に、いままでの勉強不足を恥じ入る私でもある。

 なくて七癖の例えのように、講演内容の全てを受け入れる人もいる。受け入れるからこそ、講演を聴きに行くからである。悪く言えば、考える努力を必要としない人々である。またある人は難解な言葉にとらわれ、考える力の大部分を言葉に向けてしまうような、言葉の講演に来た人々もいる。またある人は、解らぬ言葉を知りたくて隣の知人に質問する。隣の人に尋ねる行為が波状的に広がり、あっという間に講演は聴き辛くなる。このような行為は女性に多い。大学や塾においては『私語』という言葉で片付けてしまうが、実は話し手の問題である。

 講演の内容によっては、過去の歴史や過去の偉人についても触れられる場合がある。それらは当然諸説があるのだが、地方の歴史家にとって、決して譲れないこともある。講演の内容に譲れない説などが含まれると、とたんに目つきが険しくなり、以後の話を全て否定的に聴く高齢な男子も実に多いものだ。

 今までの私は斜めから見、斜めに聴く傾向が強かった。これからも決して鵜呑みせず、かといって嘘と決め付けず、結論が出せなくてもあきらめずに考え続けようと思う。暑い夏の午後に思いついたことを書いた。