過去ブログで最近アクセスが急上昇の記事を、一部編集の上再掲します。
今回はこれ。
続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一2009-08-11 06
なお、本稿の前編は追って再掲の予定です。
■究極の逆転向者ー富村順一■
沖縄タイムスは、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』に記載の「不都合な」記事を人目を避けるように削除し、その歴史に致命的汚点を残した。
口止め料として沖縄タイムスから50万円を脅し取った上、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。ちなみに沖縄タイムスの御用作家として、沖縄タイムスから複数のサヨク書籍を出版している富村氏が沖縄タイムスを恐喝した理由は『鉄の暴風』で「不明死した」と記述された座間味村の元戦隊長梅澤裕氏が生存しているという事実の口止め料だ。
現在大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、係争中の「集団自決裁判」には不自由な車椅子で大阪地裁まで来て、沖縄タイムスの「軍命説」を180度変更し、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。
それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。
富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。
富村氏は、左翼集団の暴力により、足のみならず手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。
■富村氏が極左作家になった経緯■
富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。
15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。
以後全国を放浪するがその間も犯罪を重ね、各地の刑務所の出入獄をくり返す。
1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。
その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。
「日本人よ、君たちは沖縄のことに口をだすな」
「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」
「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」
結局富村は、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成されり。
獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄』(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。
『わんがうまりあ沖縄』は、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。
理由は、出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそったのだろう。
ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。
<○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。
○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。
○送りガナはあえて統一しませんでした。
○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。
○原文中、「 」の部分を傍点をつけ、「 」をはずしました。>
支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。
富村は、同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続けた。
沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。
富村氏の著作を拾ってみると、沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。
『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書
『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。
『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。
『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。
『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。
『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。
『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。
『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。
『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。
『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。
◇
富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。
毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。
*
03/11: 東京タワー事件
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。
私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある。若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html
沖縄タイムス 唐獅子
意識した熱狂を
わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。
60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。
マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。
ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。
先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。
さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。
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昨日、人口が日本の3倍で在るアメリカのコロナ感染死者数がたった一日だけで1851人も在ったこと。
日本の死者数が昨日で、今年一年間のコロナ感染累計死者数が2014人で在ること。この、日本とアメリカの極端な違いってなにが原因なのだろうか。
アメリカの膨大なコロナ感染死者数の理由が判らないが、人口的に日本の累計感染数13万人に対してアメリカの累計感染数は40万人と推計されるのだが、実際には千万人以上になっている。
あれだけの感染数なのに、アメリカ国民に耐性が付いていないのだろう。
それと、日本で3月~6月初の第一次感染流行と、6月下旬からの第二次感染流行と、10月下旬からの第三次感染流行が、それぞれ今までのコロナ変異種でもたらされたこと。
第一次が武漢S型コロナウイルスで後に同じ弱毒性K型に変異したこと。第二次が欧州以来の種が東京での変異種で在り、第三次が武漢別型変異種で在ったこと。
因みに、在日米軍基地内感染の種はアメリカ本国から隊員が持ち込んだもので在り、日本国内のコロナ変異種とはDNAが別であると国立感染症研究所が9月に公表したこと。
即ち、「コロナ感染爆発の米軍基地」と根拠もなく罵った玉城知事だが、未だに謝罪の一つもないこと。
沖縄県の市中感染のコロナ菌も、内地と同じく東京発の欧州由来変異種で在り、米軍基地がなんら関係が無かったこと。
そのために、琉球新報と沖縄タイムスの在沖縄米軍に対しての今までの悪質な情報操作に、【中傷(この言葉を在日海兵隊本部サイトが使用した)】に耐えた来たとして、国立感染症研究所の公表をサイトに援用したこと。
そもそも、情報操作の匠は軍隊で在ること。軍隊が有事の際に偽札ばら撒き工作やフェイクニュース投入で敵の民情を混乱させる機能を持っていること。
その一部の敵地工作を担うのが、アメリカ軍が持つ世界に6つの海外基地の中で在沖縄読谷村陸軍トリイステーションに唯一所在する特殊部隊のグリーンベレーだけで在ること。
そう言う情報操作のプロが、琉球新報と沖縄タイムスの報道に【中傷】との漢字を使用したこと。軍隊顔負けの仰々しい印象操作新聞で在ること。
昨日の結果、国内累計感染が13,6万人で在り、現在感染数がたったの19000人で在ること、こんな国を世界に例を観ません。
第一次・第二次で新たな変異種に国民が耐性が付いていることが想像出来ます。だから、第三次で無自覚陽性者が多い理由になっていること。
日本の第三次新型コロナウイルス流行感染が、昨日の連続した新規感染(昨日の新規感染数)の減少で、現在感染数(累計感染数ー回復・死亡数=現在感染数)まで時系列感染流行曲線が低下に転じたこと。
明らかに、昨日迄の新規感染流行曲線に局面変化が見て取れること。
この様な場面では今後良いも悪いも数値の変動が出て来ること。数値のプラスマイナス変動こそが局面変化の合図で在ること、統計学ではそう視ます。
①新規感染数21日土曜が2592人でピーク。
②22日が2169人で土曜比423人減少した。
なお、日曜日の感染カウントは少ない、念のため。
③23日が1518人でピーク比1074人減少。
④24日が1229人でピーク比1518人減少。
これが、この土曜~火曜の4日間で起きた新たな変動で在ること。
ゆえに、25日の新規感染数が24日に比べてプラスマイナスの変動が観られる予想が立つ。
そして、ピーク21日土曜の2592人に届かないものと察することが出来る。
なぜなら、今日の25日新規感染数が26日に発表されるが、この一週間の変動で17日が963人でボトムで在ったことに在る。
仮に、25日の新規感染結果が爆発感染としても2458人で在り、21日のピーク新規感染数2592人を超えないことが判ります。
然し、いま、官民TV報道で現在感染数(除、回復・死亡数)の累計結果数と重篤数380人余にスポットを当てることばかり周知していること。
結果的に累計感染数よりも大事なものは累計の先行数値で在る毎日の新規感染数の動向を『診る』ことに在るのです。医学と違い統計学ではそう診る。
又、昨日累計死亡数が予想通りに2000人台に乗り2014人で在ったこと。
だから、今時点の累計感染数135874人X今までの死亡率1,46%=1984人の死亡数と推測されるから、実数死亡数2014人とそう変わらない。
想い出して下さい、昨年のインフルエンザ感染死亡数が12000~13000人(=厚労省が正確に掌握出来ていないこと)も在った事実。
それに対して、11月24時点のコロナ感染累計死亡数が2014人で在り、12月末までの死亡数が2350~2450人と推測が出来ること。
なぜなら、今までの累計感染数の死亡率が1,46%で在るから、新規感染数が増えない限り死者数が増加することがないと見做されるからだ。
TVで色々とコロナ感染の“恐怖”を毎日喧伝しているが、数値解析の分野は医者ではなくて統計学者のテリトリーで在り、予測が出来ること。
予測が出来ない見地は科学ではないこと。TV野球解説者の様に結果だけを云々するが如しで在り、解説者なら次の一球を言い当てるのが仕事だ。
東京都が6月23日から第二次感染勃発で全国津々浦に感染が蔓延したが、それが東京の統計学教授が半月前から予測した数値で在ったこと。
今、新型コロナワクチンが12月~1月に世界的に接種開始になること。日本のコロナ感染数と死亡数が世界的に見て極稀な低位実数の国で在ること。
然し、現実の日本は行政と医学界とマスコミが連日盛んに“危機を煽る”ことに精魂を込めていること。枝葉だけを観ることに専念する理由が判らない。
だから、どんなに関心がない人でも連日の様にマスコミがコロナ感染数を仰々しく喧伝したら、次第にコロナ危機を信じ出して来る危険性が在ること。
その状態を、政治学で『マスコミに因る洗脳が成功した』と指摘します。裏で恣意的に操るのが政治家です、民情を操作するのが仕事でも在るからだ。
この様にして印象操作報道にて、突っ走って来たのが戦争機運と言う敵愾心を醸成させる在りもしない妄想だったのです、その80年前の報道の在り方が今と似ている。とにかく、マスコミの大げさな喧伝には要注意です。
わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。
主人公は府立前原高等学校三年生の博治くんである。この頃から、「くるさりんどー」が口癖であった。学生大会や政治集会においてもそうであったし、参議院議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。
そんな自分に酔い、フェンスに寄り添い<われわれみな酔い、衆人醒めたり>と、結果はやはり狂気じみたものであった。赤頭巾ちゃん気をつけて(庄司薫)との忠告を無視し「黄色のライン」を越えた。もう「どうにもとまらない」のである。マックス・フィーバーが「食業としての政治」で述べている。
さて、沖縄タイムスの民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、黄色い線引き意識しながら、熱狂であろうではないか?