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佐野眞一著の『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(集英社)の一部を引用したところ、太田昌秀元知事とドキュメンタリー作家上原正稔氏の「ハーバービューホテルの乱闘」について、知人友人からもっと詳しく知りたいという声があった。
詳しくは同書を読めば済むことだが、何しろ650頁を超す膨大な本ゆえ読破するにも覚悟がいる。
だが、沖縄に在住する者なら殆どの登場人物は新聞等でお馴染みの名前なので、その「書かれたくなかった」実像に触れると下手なコントよりよっぽど笑わせてくれる。
筆者が個人的に知る人物も複数登場する。 中には共に酒を酌み交わした仲の人も登場して笑いを誘ってくれる。
だが、夥しい数の登場人物の中にあって、太田元知事と上原氏という特にキャラの立った怪人の乱闘場面は圧巻で、喜劇の王様チャップリンもステッキを担いで逃げ出すほどである。
というわけで、お二人の絡んだ場面を抜粋して同書読破の手引きとして、引用する。
<太田に会った目的は、米留体験を聞く以外にもう一つあった。太田の知事時代の業績に、沖縄戦最大の激戦地の摩文仁の丘に「平和の礎」を建てたことがあげられている。
その「平和の礎」と、やはり琉球大学教授時代の太田が、アメリカの国立公文書館に出向き、同館に所蔵されていた沖縄戦の未公開フィルムを調査、発見したことから大きな記録運動のうねりとなった「沖縄記録フィルム1フィート運動」の二つのアイディアは、自分のアイディアが盗まれたものだと、抗議する男がいる。
この人物は上原正稔(まさとし)という1943年(昭和18年)生まれのドキュメンタリー作家である。 上原には太田に会うだいぶ前に会った。 上原を人目見て、この男は現代のキジムナーだな、と思った。 キジムナーとは、沖縄の人々に昔から愛される伝説の妖怪である。
黄色のシャツにピンクと紫というちぐはぐな靴下を履いたファッションの配色感覚だけでも、この世のものとは思えなかった。 その奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な出で立ちに小さな体を包んで登場したときは、立派な髭をたくわえた顔とも相まって、愛玩用の犬が二本足で立って現れたかと思った。 若者が被るようなキャップ、首のスカーフや茶色のサングラス、ポパイのようなパイプも、どこか現実離れしていた。
「1フィート運動も、“平和の礎”のアイディアも、最初に発案したのは僕です。 それを太田昌秀に盗まれた。 それ以来、太田とはケンカです。 僕は太田に首を絞められたこともある。 彼は知事失格というより、人間失格の酒乱男です。 売名欲の塊です」
ーー首を締められた? 穏やかじゃないですね。 どこで首を絞められたんですか。
「ハーバービューホテルです。 その件で僕は太田を告訴しました。
初めて聞く話だった。 後で入手した告訴状には、こう書かれていた。
〈被告人(引用者注・太田)は、告訴人(引用者注・上原)に対し、平成4年9月13日、午後9時頃、那覇市泉崎2-46の沖縄ハーバービューホテル二階「鳳凰の間」において、右手拳で告訴人の左わき腹を一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の左上腕部を痛みを感じるほど強く握り締めて、3メートルひきずるなどして暴行を加えた〉
告訴状に付随した陳述書には「太田氏が顔を上気させ、目を吊り上げ、恐ろしい形相で私に駆け寄り」といった、さすがはドキュメンタリー映像作家らしい臨場感あふれる記述もあった。>
著者の佐野氏が描く上原氏の描写が秀逸で思わず笑ってしまったが、対する太田知事もこれに決して引けをとらない。
筑紫哲也氏が「沖縄の良心」だと「大文字言葉」で紹介する太田元知事の素顔の怪人ぶりは、上原氏がキジムナーなら、太田氏は脂塗れのアンダケーボージャー(脂食い坊主)とでも言うべきか。
アンダケーボージャーとは沖縄の伝説の怪盗ウンタマギルの子分のこと。
元知事のことを怪盗の子分に例えるの礼を失するとも思えるが、上原氏のアイディアを盗んだというのなら怪盗の子分程度に例えられても仕方がないだろう。
それにしてもかつて今上陛下もご宿泊したことのある沖縄の最高級ホテルの宴会場で、満座注目の中現役の知事が上原氏の首を絞め3メートルも引きずる暴挙にでたとは通常では到底信じられることではない。
まさに『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する人物の中でも際立つ千両役者である。
太田氏は琉球大学教授から県知事、そして参議院議員とエリートコースを歩む人物だが、一方の上原氏は組織に属しない一匹狼で、その名は知る人ぞ知る怪人である。
まるで接点のないように見えるご両人だが、沖縄戦記を発掘してそれを出版するという分野においてはご両人の活動分野は重なっている。
ここで佐野氏は上原氏が言う「乱闘劇」について裏付けのため再度太田氏にインタビューするのであるが、その部分を紹介する前にキジムナーこと上原氏について少し触れておきたい。
太田氏については「大文字言葉」のみで沖縄を語る筑紫哲也氏などによって「沖縄の良心」のように描かれているので、当日記の読者ならよく承知のことと思う。
一方、上原氏については沖縄人でも知る人は少数派であるが、古くからの当日記の読者なら、琉球新報に連載中の沖縄戦記を前日になって異例の突然発表中止という言論封殺の被害を被ったドキュメンタリー作家として、また係争中の集団自決訴訟でも原告側の証拠となった『沖縄戦ショウダウン』の著者として記憶に新しいだろう。
「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。
≪さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。
(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。
(略)
(4)太田氏(「鉄の暴風の筆者」ー引用者注)は沖縄タイムス上での論戦において、「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした。
上原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白しているのです。 さらに、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」と結論しています。
『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。
いま、上原氏の「沖縄の人々の責任は限りなく重い」という言葉に込められた沖縄の良心の叫びを、噛みしめる時が来ているのです。≫(沖縄集団自決冤罪訴訟・準備書面)
これに対する被告側は、
「『沖縄戦ショーダウン』は、赤松氏を一方的に評価する人物だけからの証言によって執筆されたもので信用性がない」と客観的反論を放棄し、「信用性がない」といった極めて情緒的文言で終わっている。
被告側は上原氏の著書は信用できないというが、上原氏は被告側のバイブルともいうべき『鉄の暴風』を出版した沖縄タイムス刊で、同じ沖縄戦を扱った 『沖縄戦トップシークレット』『1995年3月刊)を出版している。
同じ沖縄戦関連で同じ沖縄タイムスが出版した『鉄の暴風』はバイブル扱いして、他方では同じ沖縄タイムス刊で沖縄戦を出版する上原氏を自分の都合の悪い記述だから信用できないという。
これが「集団自決」訴訟を通じて被告側弁護団が取ってきたダブルスタンダード手法である。
■「一フィート運動」を始めたのは上原氏■
被告側が沖縄戦の実践的研究者である上原氏を論理的に反論できないので、情緒的に排斥した理由は上原氏の次のような調査姿勢にあると思われる。
上原氏は、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せて、記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきた。
上原氏は従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題に摩り替える手法をとらなかった。
上原氏は、当初は『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない多くの集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく沖縄戦の真実に気がついた。
そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、
「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白している。
彼は言う。
「反戦平和なんてボクには関係ない!」
「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」
そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていた。
そして彼はフィルムに封印されていた沖縄戦の真実の物語を追求している異色の沖縄戦研究家でもある。
「1フィード運動」は、その後同運動に大田昌秀元知事や、新崎盛暉、安仁屋政昭、石原昌家等のサヨク学者が運営委員として加わり、運動がイデオロギー化していく。
創始者の上原氏は「一フィート運動」がイデオロギー化するのを嫌ったのか、組織を離れて独自の活動をするようになる。
第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-330.html
続く
テレビ芸者のエセ経済学者たちが必死になって反対していた定額給付金も支給が始まって、各地域で活気が出始め、この度は弁解に四苦八苦していますね。
潮の目はここに来て完全に入れ替わりました。
経済政策に民主党が反対するのはともかく、国防に反対する党に未来はないでしょう。
私も定額給付金が出たらオイシイ焼き鳥屋で豪遊?したいです。
◆涼月さん
例の人物鼻つまみなんでしょうね。これまでの例だと痛い所を突かれると這い出してくるようです。
どうぞ相手にしてやってください。(笑)
◆縁側さん
上原氏と面識があったのですか。
太田元知事と上原氏の「決闘」は単に奇人の対決を通り超して、沖縄戦研究がどのようにイデオロギー化していくかを知る上で大変興味不快のでしつこく連載します。
後、痛いところを突かれると這い出してくるお方に適当に付き合ってやってください。
沖縄戦で多勢に無勢で打つ手もないような日本軍とパニック状態になった住民の心理を自分の都合のよいように推量するのが趣味のようですので・・・。仲間内でやるのは寂しいのですかね。
◆涼太さん
>実際に沖縄で生活してみると、露骨に恨みをぶつけてくる人もいました。ただそういう人達は日本本土に就職して挫折した人だったり、何らかの左翼運動に関わっている人達でした。
こういう人物はヒガミ根性が昂じて、何かというと「差別された」というのが特徴ですが、そういう人に限ってプライドは人一倍高く、地元に戻ると他人を差別するのが常です。
明治時代に差別されたと今でも恨み節を唄い続けるのにはあきれ返ってしまいます。
またそういうヒガミ根性の沖縄人を扇動する「大文字言葉」の左翼にも困ったものです。
>「これで交戦して、これで玉砕しろ」だったわけですが、
:根拠はあるのですか?
>赤松隊は自分たちの玉砕後には住民に対してどうしろと言ったのですか? あるいは、どうしてほしいと願ったのですか?
:どうしろと言ったか?それがわかれば私は裁判で重要な参考人でしょう。どうしてほしいと願ったか?戦闘してほしいとは思わなかったでしょうね。まして集団で自決してほしいなどと考えるとは思えません。
大本営まで出てきましたが、そんなの関係ないですね。大本営は渡嘉敷にはありません。渡嘉敷住民と数ヶ月を過ごした赤松隊と、大本営では住民に対する感情は違うでしょ?フツーに考えれば。
レスありがとうございます。
>赤松隊は「交戦」ではなく「玉砕」しにきたのよ。なんで自分たちは交戦しないのに出撃後に上陸してくるであろう米軍に対して「一般住民」に「これで交戦しろ!」と言えるのでしょうか?頓珍漢はどちらでしょうね。
「これで交戦して、これで玉砕しろ」だったわけですが、そうではないと主張する縁側さんは、赤松隊は自分たちの玉砕後には住民に対してどうしろと言ったのですか? あるいは、どうしてほしいと願ったのですか?
サイパン陥落においては、通信が途絶えて去就が分からない住民に対して大本営は、「玉砕するをねがう」としていますね(『週報』)。
私も沖縄に赴任するまでは、沖縄の左翼マスコミが発信する、玉砕の島沖縄、日本軍悪の「大文字言葉」にすっかり洗脳されていました。上原正稔氏の気持ちもよく理解できます。
実際に沖縄で生活してみると、露骨に恨みをぶつけてくる人もいました。ただそういう人達は日本本土に就職して挫折した人だったり、何らかの左翼運動に関わっている人達でした。
でも、多くの県民は、金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、知念朝睦氏と同じ立場でした。ただ左翼団体の圧力などがあり公には発言できないタブーにもなっているようです。狼魔人様がブログで書かれた大城立裕さんなどもそうですね。
沖縄は独特の文化、言葉を持ち日本国に組み込まれた過程も、他の地方とは少し異なります。
日本には、表現の自由があり、何を発言しても構いませんが、一つだけ条件があります。
真実に基づく発言であるべきです。
そして、もう一つだけ意識して欲しいです。
沖縄県も日本の一つの県です。けして中国の属州ではないのです。
私が若い頃、そーあれは19歳の頃バイトしてた喫茶店に上原氏はよくコーヒーを飲みにきてました。あのテレードマークのパイプタバコがそりゃあ臭くて臭くて閉口(閉鼻?)したのを覚えています。
ni0615さま
>仮に、「本島上陸の前に敵の慶良間上陸はないだろう」と軍当局や赤松らが思っていたとしても、舟艇出撃後のために島民に手榴弾を配るのは当然です。「もうお前たちの庇護は出来ないよ! これを渡しとくから出撃のあとは任せるぞ!」というメッセージでもあったでしょう。
:そーいう解釈しかできませんか?どーして舟艇出撃後のために手榴弾配る必要があるのですか?全くわかりませんな。赤松隊は渡嘉敷で「交戦」する予定はありませんでしたよ。米軍が慶良間を攻撃しようがしまいが、赤松隊は「交戦」ではなく「玉砕」しにきたのよ。なんで自分たちは交戦しないのに出撃後に上陸してくるであろう米軍に対して「一般住民」に「これで交戦しろ!」と言えるのでしょうか?頓珍漢はどちらでしょうね。
自分に適したコミュ二ティはいくらでもある、自分でも作ることが出来るのにわざわざここに来て袋叩きにあいに来るなんてよほどのマゾなんでしょうかねni0615は。
ああそれとni0615さん、mixiのあのコミュ二ティで話題にしてた白燐弾の件はどうなったんですか?
すぐばれる嘘までついて自己保身に走るのもいけど、みんな説明待っているんだぜ。
早速のレスありがとうございます。
>3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。
いえいえ、引用経路はしらないと仰っても引用したあなたが同調した見解なのですよ。他人事のようにバックレては困りますね。
「挺進隊出撃後は米軍に逆らわず降伏せよ」と軍は住民に命令していたのですか? それなら、手榴弾を配ることもなかったでしょうね。
引用の部分は本文でも明記の通り、裁判に提出の「原告準備書面(要旨)」よりの抜粋です。
私は裁判をブログという手段で原告側を応援していますが、裁判の当事者ではなく、当然
準備書面の作成にはかかわっておりません。
従って、どの発言を誰が引用したかについて正式に答える立場にはありません。
下記に、引用部分のウェブサイトを記して置きますので、どうぞお仲間で充分に検証してください。
原告準備書面(5)の要旨 第6回口頭弁論H18.11.10(金)
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/25/
秦、上原両氏が詐話師かどうかはおいても、総じて全く見解の異なるあなたと、「こうしたら、こういったはずだ」とか推量で不毛な議論を戦わすのは勘弁して欲しいです。
推量による議論はお仲間内で存分にどうぞ1
おはようございます
>日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。
これは上原正稔氏が言ってたことなのですか? 秦郁彦氏がしりきに協調するから、「軍事史研究家」のクセに頓珍漢なことをいうものだな、と常々思っていたのです。
昭和20年3月20日前後といえば「敵上陸間近」。島民動員による舟艇庫の建設もようやく終わったときだと赤松手記は書いていますね。とき来たらば「海上挺進隊」は出撃するのです、それも間近なのです。
出撃すれば、留守となった「海上挺進隊」基地が敵米軍に攻撃されるのは必然です。島民は戦うか自決するか、2つに一つなのです。
仮に、「本島上陸の前に敵の慶良間上陸はないだろう」と軍当局や赤松らが思っていたとしても、舟艇出撃後のために島民に手榴弾を配るのは当然です。「もうお前たちの庇護は出来ないよ! これを渡しとくから出撃のあとは任せるぞ!」というメッセージでもあったでしょう。
<だから地上戦も予定していませんでした。>
確かに、誰も出撃しないで地上戦を行うことは誰も予定していませんでした。それは事実でしょう。ですが、どうしてそれが、手榴弾を配らなかったことになるのでしょうか?
「挺進隊出撃後は米軍に逆らわず降伏せよ」と軍が住民に命令していたという事実があれば、条件付で納得することも出来ますが。
上原正稔氏も秦郁彦氏も、狼魔人さんが伝えてくださるとおりなら、とんだ詐話師ということになります。