「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

【アウシュヴィッツ・ビルケナウへの旅で考えたこと(その1)】

2018-01-08 23:36:46 | 日常の一コマ
今年最初の旅はポーランドとドイツへ。

6日(土)、1月期「ふじのくにDIGセミナー」を終えたその足で羽田空港に向かい、
翌早朝の便で北京・フランクフルト経由、ポーランドの古都クラクフに着く。
時差ボケの抜けきらない今日8日(月)、当地は子雪交じり。
クラクフ駅前のバスターミナルから1時間半ほどで
世界遺産「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制・絶滅収容所」に着く。

午後イチから3時間ほど、アウシュヴィッツ博物館唯一の日本人公式ガイド、中谷剛さんの案内で、
アウシュヴィッツ強制収容所とビルケナウ絶滅収容所を見学する。
(注:広義には両者+αの総称がアウシュヴィッツなのだそうな。
狭義には前者をアウシュヴィッツ第1、後者をアウシュヴィッツ第2と呼び、
他にアウシュヴィッツ第3収容所と、中小の支所的収容所も数多くあったと教えてもらった。)

思うところは多々ある。本当に多々あるが、今日のところは、中谷さんの発言の中に、
つい先日このブログで書いたのと同じ主旨のものがあったので、その点について書く。

ヨーロッパでは、結果(例えばアウシュヴィッツ・ビルケナウ)を見せた上で、
その原因は何だったのか、を考えさせる授業をしているのだそうな。
原因の原因、さらにその原因と、どこまで遡ることが出来るかはさておき、
民主主義の制度に反することなくヒトラーが政権をとったことは歴史的事実。
(全権委任法以降はともかく首相指名に至る道筋は疑問の余地なく制度に違反していない。)

中谷さんは、案内の中で「責任の放棄が独裁者を生む」と語って下さった。
大衆迎合であり、みんな(多数派)が言っていることについていったからではないか、とも。
さらには、たとえ戦争に負けたとしても、多数派についていったほうが安全だ、とも。

ついていった者が多数派であれば、ついていった者一人一人に責任をとらせることは現実的には不可能なのだから。

この日の午後、我々と共にアウシュヴィッツを見て回った日本人は11名だった。
ここに来た、ということは、多数派ではない。
だが、民主主義には少数派が不可欠であり、少数派の意見もちゃんと聞く&受け入れる(少なくても検討する)のが民主主義なのだ、
とは、改めて民主主義の原点を確認させられた思い。

で、先日の「誰もが責任を取らなくなったらどうなるのか?」との話につながる。
アウシュヴィッツに比べれば、三郷町の造成宅地崩落などはかわいいもの。
それでも、自分の頭で考えるという責任を放棄した、その結果という点では相通じるものがある。
責任を果たすということはプライド(日本語で言えば「矜持」という言葉が相応しかろう)でもあるだろうに、
と「旅の坊主」は思うのだが……。

「責任の放棄」が最終的にはアウシュヴィッツをもたらしたとすれば、
責任を放棄した人々にはプライドは無かったということになるのか?
それとも、責任を放棄するような人々は、別の何かに責任を負ったというのだろうか。

この責任についての議論、もう少し続けたいが、今日のところはこの辺りで。

あけましておめでとうございます。

2016-01-04 23:25:33 | 日常の一コマ
あけましておめでとうございます。
いささか遅まきながらですが、新年のご挨拶を申し上げます。

昨年10月の中旬だったでしょうか、ちょっとガス欠気味&緊張感が切れてしまい、
1年以上続いていた拙ブログの連続更新が途絶えてしまいました。

昨年12月、数年ぶりに再会した友人から、
「最近、ブログ更新していないの?」「辛口のコメント、期待しているよ」と言われ、
やっぱりこれは、再開しないと、というように思うようになったものの、
日常に追われ、いつの間にか新しい年を迎えてしまった、そのような状況です。

年の初めは新しいことに取り組むには相応しいようで、
このタイミングに、(何度目かの)再開をしようではないか、と思いを立てました。
とはいえ、連日更新を行える状況には戻れそうにありませんので、
週2回くらいのペースで、その分、しっかりと続けられれば、
そのようなことを思っている、東日本大震災5年目を迎えようという年の始めです。

次回の更新からは、いつもの「である調」に戻り、危機管理・防災ネタで、
いろいろとお話しをさせていただければ、と思っています。

改めて、どうぞよろしく、お願いいたします。

処世術としての同調と、モノを考えなくなるということと

2015-09-18 23:50:47 | 日常の一コマ
日本は同調圧力の高い国(社会と呼ぶべきか?)と言われている。
個人的には、日本とか、日本社会とか、国民性とか、一くくりにする議論は乱暴すぎると思っているが、
それにしても、なぜここまで、異論を恐れるのだろう。

上に立つ者の知的劣化は、覆い隠すことの出来ないレベルまで来てしまっている。これは明らか。
一国の首相の、言論の府たるべき国会での議論が、聞くに耐えないものに堕してしまった。
あるいは、スピーチライターである官僚の質がそこまで下がってしまったということか。
「馬鹿に付き合ってられるか!」と、啖呵を切った者がいたかもしれないが、
不幸にして、権力者にすり寄る者が絶えることのないのが人の世。

「旅の坊主」としても、異論を受け入れられなくなったら終わりだな、というところ。
もって他山の石とすべき、ではある……。

そういえば、で思い出したことがある。
かつて、とある国会議員の私設応援団の一員として、いろいろと議論をさせてもらっていた時のこと。
その御仁曰く、「国会議員に、なぜ党議拘束をかけなくてはならないのだろうか」と。
(唯一の例外として、首班指名の投票のみ、党議拘束をかける必要がある、とも言っていたが。)
国会議員が国会において何を発言しても、罪に問われることはない、と、憲法で明記されているのだから、
投票行動についても、党議拘束などというつまらないことはせず、本人の意志に任せ、
ただ、選挙前に「あなたは○○法案については賛成(反対)しましたね?」と成績表をつきつければよい、
大意はそんなような話だったように思う。

甲論乙駁の中で落とし所を探っていく、あるいは、議論の中で何か新しいものを作っていく、
こういう経験が日常茶飯の身としては、議会は何をやっていることやら、と言いたくもなる。
もっとも……。
議会での討論は立法過程の最後のセレモニーである、と、現実政治の追認をするならば、
書生じみた政治論and/or言論の力についての議論など、言うだけむなしい、ということなのかもしれないが……。

話が脱線してしまった。

本学のような底辺レベルにある地方私大の学生では、
程度の差こそあれ、過去にいじめの被害を受けた経験を持つ者が少なくない。
そのような体験を持つ者に言わせると、合わせることは一つの処世術なのだそうな。
これについても同調圧力と言うのだろうか……。
目立たなくてナンボ。目立たないためには思ったことを言わないのが当たり前。
そんなこと、らしい。

これは学生の議論ではないが、日本では「空気」が支配する、だったか、そんな議論もあった。
ただ、空気に合わせることが日常になってしまうと、当然のことながら、モノを考えなくなる。
世の動きと共に、後期が始まり学生との対話が戻ってきた昨今、そんなことを考えていた。

モノを考え続けるには力がいる。
流されたほうが楽、という状況は、常に存在している。
何か言うと「生意気なんだよ!」と、議論そのものを否定する雰囲気は、この国の中の至る所にある。
(この国だけではない、程度の差こそあれ、人間社会におしなべてみられる現象なのかもしれない。)
しかし、それを続けていくと、結局のところ、モノを考えない人間が生まれる。
それは、この国にとって幸いなことか?学生の将来にとって望ましいことか?

国政と学生対応、いささかレベル差があり過ぎることは百も承知で、
そんなことを考えてみたりしている秋の夜であった。
議論を交わす中で、お互いの人となりを理解する。
A案でもB案でもない、シンテーゼ―としてのC案を導き出す。
それは、人として、当たり前の行為、ではないのだろうか……。

旅の終わりに

2015-09-09 23:41:46 | 日常の一コマ
原稿書きのためのカンヅメとして始まった今回のカンボジア・シェムリアップへの旅だが、
本当に良い時間を過ごすことが出来た、と思っている。

学生のみを送り込んだ第1回スタディーツアー以来、ずっとお世話になっていたラーヴォさん。
スナダイ・クマエ孤児院の卒業生であり、今回の旅の企画をして下さったピース・イン・ツアー・アンコールで働いていた。
今年、無事に大学も卒業し、新たにビジネスを立ち上げるべく独立、結婚もして、年末には親になると言う。
縫製のビジネスに取り組み、すでに40名ほどの従業員を雇っているとのことだから、素晴らしい。
短い時間ではあったが、帰国前日の夜、毎度おなじみ、ロイヤルクラウンホテルのルーフバーで、
語り合うことが出来た。
ラーヴォさんの前途に幸多からんことを願っています。

旅の間にぜひやりたかったのが、
マダムサチコことアンコールクッキー創業者の小島幸子さんと、一献酌み交わすこと。
残念ながらマダムの都合が合わず、近況報告は次の機会に持ち越しとなった。
己に「喝!」を入れなくては、と、最終日午後、マダムのお店「アンコールクッキー」を訪問、
マダムの活躍ぶりを見つつ(店には10年余の歩みが畳3畳分にわたって掲示されている)
カフェ「Puka Puka」にて、アンコールビールを一杯(ではなく二杯)。

マダムの店では、クッキーや黒胡椒に混じって、
西村清志郎氏による『カンボジアで出会いたい100人』が売ってあった。
知り合いの数名分+αに目を通しただけであるが、「この本は何かが違う」と直感で思えるような、
そのような本だった。学生に読ませたい、とも思った。
好き嫌い・出来る出来ないは別として、そのような方々の生き様に関心を持ってもらえれば、
そんな思いでいる。来年のスタディーツアー前の必読書であるな、と。

講師役を務めて下さった福富友子先生は、「旅の坊主」と同世代。
50代には50代の、積み重ねてきたものと判断力、将来の世代への期待等々を求めたい、と、
勝手に思っているところだが、この御仁はなるほど、ただ者ではなかった。
古典芸能の復活にかける生き方は、「旅の坊主」の生き方とは方向性の違うもの。
それでも、20年以上、この国に携わり、影絵や舞踊に没頭する姿には頭が下がる。

このような方々との出会いや再会、影絵や舞踊さらには白骨との出会いというモノを思う機会を得て、
いろいろなことを考えることが出来た。

明後日からは後期が始まる。
非日常の日々・旅の思い出を抱えつつ、
50代前半の者に相応しいメッセージを発信していかなくては、と、思うのみ。


スナダイ・クマエ孤児院施設長のメアス博子さんのこと

2015-09-08 23:46:23 | 日常の一コマ
昨日9月7日は、まぁ、ともかく歩いた一日であった。

まずはアンコールワットで日の出を見るべく5時に行動開始。
雨季にはまず望み薄と言われているが、前日、スバエク・トムの帰りの星空がきれいで、
「ひょっとしたらひょっとするかも」ということでのものだったが、狙いはドンピシャ。
おかげで、絵や絵葉書ではよく見るものだが「アンコールワットの日の出」を何枚か、写真に収めることができた。

一旦ホテルに戻り、朝食の後、再びアンコールワットへ。
今度は裏側に当たる東側からアプローチし、第三回廊、第二回廊、第一回廊と見て回る。
もちろん遺跡の大きさに比べると、たかだか2、3時間で見ることの出来る範囲など、知れたもの。
それでも、前日のスバエク・トムのおかげで、第一回廊のレリーフについては、
今までとは多少は違った見方も出来るようになった、と思う。

昼食の後はアンコールトムとタ・プロム寺院を訪問。
さすがに夕方になるとエネルギー切れであったが、まぁ、見るべきものは見ることが出来た次第。

ツアーとしての最終日の今日8日は終日フリータイム。
トンレサップ湖の水上集落訪問というオプショナルツアーもあり、
参加されたYさんご夫妻によれば、小舟で淡水ガジュマル林の中を抜ける体験が出来た、とのことであったが、
当方は、2012年の第1回スタディーツアーの時から大変お世話になっている、
スナダイ・クマエ孤児院施設長のメアス博子さんを訪問、いろいろとお話しを伺うことが出来た。

メアス博子さんの話を聞きたくて、多くの日本人がスナダイ・クマエを訪れるという。
スナダイ・クマエ孤児院訪問のスタディーツアーがあり、孤児院再訪のツアーもある。
かくいう「旅の坊主」もその一人。
聞けば、この春には、静岡の別の大学関係者も、メアス博子さんを訪ねてきたのだそうな。
その人と会ってみたい、とも思う。

2時間ほど、話をうかがうことが出来た。いつの間にか、話は、日本の若者論になっていた。
「単純に、気になる」、と。

普通のことを変な目で見る社会。
日本はもう、取り返しのつかないところまで変わってしまったのかもしれない。
特効薬はない。
それでも、海外にいる日本人の役割として、40代、40代の者の仕事(役割)として語らなくては。
そのようなことを言って下さった。

若い世代は、地球の中で、日本は優れている、と、どこかで思っているのではないか。
焦り始めてよいのに、とも言う。「旅の坊主」もまったく同感。

あの時、年長の人に声をかけられて嬉しかった。
そういう経験を持つ者は、自分がその時になったら、そういうことをしてくれるかもしれない。
だから、若い世代に声をかける。それが「大人」の責任だろう。

出来ない、ではなく、知らないだけのこと。知らないなら教えればよい。

15年、何となく一巡した。
目の前の事を処理するのに精一杯の時代から、判断力ある大人として、多少は見えるようになった。
沢山の人にいろいろなことを言うことは出来ないが、関わってくれた人には接したい。

表現し切れないが、本当に多くのことを学ばせてもらった2時間であった。
メアス博子さんがシェムリアップ生活を始めたのが2000年から、とのことであるが
「旅の坊主」の大学教員生活も、同じ2000年から始まっている。
彼女の質と量ほど大きく深いものではないにせよ、その15年という思いには、
何か、他人ごとではない何かを感じてるところ。

ほぼ一回り若い世代のメアス博子さんであるが、本当にいろいろなことを学ばせてもらっている。
彼女に会いに行くだけでも、シェムリアップに行く意味がある、とも思っている。

旅の終わりに、そのような時間を持てたことが幸いであった。

メアス博子さま。
年一度くらいしかお会い出来ませんが、いつも良い話を聞かせていただき、ありがとうございます。
スナダイ・クマエ孤児院とメアス博子さんの応援団の一人のつもりです。
何か大きなことが出来る訳ではありませんが、身の丈の範囲で、お手伝い出来ることはしていきたい、
そのように思っています。
次にお会いする時まで、ご健勝にてお過ごし下さい。
その時まで、もう少し深く大きく将来のある話を出来るよう、精進を続けていきたいと思っています。
お時間をいただき、ありがとうございました。