***** 神社と災害 No.84 *****
昨日、名草戸畔が「土蜘蛛」の一派
であるという説をご紹介しましたが、
「土蜘蛛」の本拠地としても知られる、
奈良県の葛城一言主神社には、
土蜘蛛塚という小さな塚があります。
何でもこの塚は、神武天皇が
土蜘蛛を捕え殺害したのち、
彼らの怨念が復活しないように
頭、胴、足と別々に埋めた跡なのだそう。
つまり、一言主神社の土蜘蛛と名草戸畔は、
同じような葬られ方をしていたわけで、
ある意味「土蜘蛛」に対する封印の型として、
このような処置を施した可能性も
否めないわけですね。
これまで、名草戸畔の遺体を
3つに分けて埋めた理由として、
主に南方由来の「ハイヌヴァレ型」
の伝承と結び付けて考察してまいりました。
ただし、葛城山の土蜘蛛に「ハイヌヴァレ型」
の伝承は残っていないことなどを考えると、
単に名草の人々が「五穀豊穣」を願うためだけに、
名草戸畔の遺体をバラバラにした
とは考えにくくなるもの。
もしかすると、名草戸畔という存在は、
南方由来の海人族の首長ではなく、
別の目的のために名草に移住した
「土蜘蛛」だったのでしょうか……。