***** 神社と災害 No.83 *****
神武一行との争いにより
名草戸畔が戦死したとされるのが、
「クモ池」と呼ばれる場所でした。
ここは名草一族の本拠地でもあり、
名草戸畔はその池の名前から
「土蜘蛛」の首長だったという説もあります。
土蜘蛛と言いますと、山中深くの横穴式住居
で暮らす鉱山労働者のイメージが強く、
海辺を拠点とした名草戸畔とは
かけ離れた存在のように感じられますが、
「戸畔=先住土着の女酋長」という見方をすれば、
ある意味彼ら(彼女ら)も
土蜘蛛だったと言えるのかもしれません。
ちなみに土蜘蛛という名称は、
大和朝廷側が名付けた「蔑みの意味」
を含む名称でして、神武東征の件においても、
天皇側に反発した八十梟帥や兄磯城、
あるいは天皇側に恭順した井氷鹿や石押分之子
などのいわば「土蜘蛛」と呼ばれる土着民が、
物語の準主役的なポジションを担っております。
仮に、名草戸畔が「土蜘蛛」の一派だったと
想像するなら、名草戸畔の中からますます
「南方の香り」が薄まって行くような気がするのでした。