<大神神社 おおみわじんじゃ>
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本来の朝廷祭祀は、忌部氏が掌握していたが、
天武朝以降、勢力を増す中臣氏(藤原氏)との格差がつけられた。
天武朝の「八色の姓」の制定により、中臣氏は朝臣姓、
忌部氏は一段下の格付けとなる宿禰姓とされた。
奈良期からは次第に本来の職務に就けない事態が起こり、
平安初期の大同2年(807年)に忌部宿禰広成は、
『古語拾遺』を平城天皇に撰上し、氏族の窮状を訴えたが、
状況が劇的に変わることはなく、
忌部氏は歴史の表舞台から姿を消した。
* 若干文章を手直ししました
【参考サイト】
忌部文化研究所
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各地に定住した忌部氏の中でも、
天皇の祭祀を司る役目を担ったのは、
奈良に拠点を置いた「中央忌部」と呼ばれる人々です。
しかし、かつては隆盛を誇った中央忌部も、
同じ祭祀系氏族である中臣氏の勢力に押され、
次第に朝廷内での地位と居場所を失います。
中央忌部の重鎮であった忌部広成は、
平安時代前期に名を「斎部」と改めたのち、
役職を独占する中臣氏への不服を訴えるために、
「古語拾遺」を記し名誉回復に努めました。
その結果、広成の要望は認められたものの、
以降も状況は改善・回復することなく、
忌部氏は歴史の表舞台から姿を消したのです。