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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

不思議な空間

2017-02-11 10:00:08 | 無社殿神社1

 

<矢野熊・矢倉神社 やのくまやぐらじんじゃ>

 

JR串本駅近くの住宅街の

細く入り組んだ道路を進んで行くと、

家と家の間の狭い敷地の向こうに、

石の鳥居と緑の社叢が見えてまいります。

鳥居がなければ、

そこが神社であることすらわからないほど、

奥まった場所にある空き地の一角が、

その神様をお祀りする境内でした。

 

矢野熊・矢倉神社という名の神社は、

目の前には家々の外壁が迫り、

境内のすぐ脇を電車が走るような、

「人の匂い」にあふれた街中にあります。

社殿はおろか神域へと続く参道もなく、

車のフロントガラス越しに、

全体を俯瞰できてしまえるほど、

「聖地」とはかけ離れた雰囲気の場所です。

 

ただし、ひとたび境内に足を踏み入れますと、

これまで見てきた神社とは一線を画す、

何とも不思議な異空間が広がっていました。


大いなる秘密

2017-02-10 10:50:30 | 無社殿神社1

<木葉神社 このはじんじゃ>

 

紀伊田原・木葉神社を参拝していた感じたのは、

熊野市の産田神社にも通じる「産土」の雰囲気です。

白い浜石が敷き詰めれた境内は「お産場」であり、

産田神社と同様、本来神域に立ち入る際には、

靴を脱がなければならなかったと聞きます。

 

人間は「国土から生まれた」といわれるように、

産土神とは私たちが産み落とされた土地の神様です。

神社には「産むための土(砂)」が敷かれており、

その土を象ったものが、白い浜石なのでしょう。

 

白い石が敷き詰められた神社の多くが、

「子守の神」「子安の神」と呼ばれるのも、

「産土」の原型が残っているからだと思われます。

長い間海水に浸かっていた浜の石には、

生命を生み出すための大いなる秘密がありました。


集合意識の幻想

2017-02-09 10:40:13 | 無社殿神社1

<木葉神社 このはじんじゃ>

 

紀伊田原・木葉神社の主祭神である木花咲耶姫命は、

夫であるニニギと契りを交わした際、

一夜にして身ごもったことを疑われ、

その疑惑をを晴らすために、

産屋に火を放って身の潔白を証明した神様です。

 

「社殿を作れば火事になる」という伝承は、

この神話に基づいた話だと思われますが、

人間の集合意識というのは不思議なもので、

「ここには木花咲耶姫命が祀られている」

と思いながら多くの人々が参拝すると、

なぜかそれに関連する現象があらわれるようになります。

 

恐らくこの神社は、ご神体である「樹木」との関わりから、

「木葉(このは)」と呼ばれるようになり、

その後に「このは」と同じ読み方をする

木花咲耶姫命の名が当てられたのでしょう。

 

もともと「樹木」をお祀りしていただけの場所に、

いつの間にか木花咲耶姫命が祀られ、

「子守り」の神様に変化したのです。

もしかするとそれも、多くの人間が生み出した

集合意識の幻想にすぎないのかもしれません。


焼け落ちた社殿

2017-02-08 10:36:37 | 無社殿神社1

 

<木葉神社 このはじんじゃ>

 

瓦葺の割拝殿(わりはいでん)をくぐり、

紀伊田原・木葉神社の境内に入りますと、

短い石段の先に社殿が見えてまいります。

ご本殿にお祀りされているのは、

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)です。

一見どこにでもある地域の氏神のような

佇まいを見せる紀伊田原・木葉神社ですが、

実はこちらも正真正銘の「無社殿神社」でした。

 

何でもこの神社には、

「社殿を作れば火事になる」

との言い伝えが残っており、

その昔、禁を破って社殿を作ったところ、

本当に火事になって焼けてしまったのだとか。

地元の歴史を記した資料の中にも、

「当社は古来神殿の設け無し。

一段高き神地に樹木おい茂れるのみ」 と、

記載されていると聞きます。

 

たくさんのよだれかけが奉納された

ご本殿の裏側には、古代の神籬を思わせる

木組みの枠の中に、白い浜石が積まれていました。


ねんねこの宮

2017-02-07 10:33:42 | 無社殿神社1

 

<木葉神社 このはじんじゃ>

 

那智勝浦から串本方面へと向かう途中

JR紀伊田原駅のすぐそばに、

「ねんねこ祭り」で知られる、

「木葉神社」という産土神があります。

「ねんねこ」という言葉が示すように、

子授け・安産・育児など

「子ども」に関する祈りを叶える神様として、

地元の人々から厚い崇敬を集めている場所です。

 

ちなみに「ねんねこ祭り」という行事は、

神様に子守りを祈念するお祭りだそうで、

その中では、太陽信仰の名残を思わせる

「朝日遥拝」の儀式も行われるのだとか。

開催日が12月であることを考えると、

一陽来復を願う冬至祭なのかもしれません。

訪れた日はちょうど開催日が近づいており、

地域の至る所に幟旗がたなびいていました。


櫓と矢倉

2017-02-06 10:28:13 | 無社殿神社1

<板谷・矢倉神社 いたややぐらじんじゃ>

 

熊野地方の無社殿神社の多くが、

いつそのような形になったのかは不明ですが、

「矢倉」という呼び名からもわかるように、

その特徴的な形態は、お祭りなどで使われる

「櫓(やぐら)」との関連が深いと思われます。

周囲を監視する目的で造られた物見櫓や、

相撲の土俵を取り囲む屋根つきの櫓、

お祭りの際に設置される太鼓櫓など、

木材や鉄骨を組み立てた塔のような建物は、

矢倉神社の外観と非常によく似ています。

 

ちなみに、もともと相撲という文化は、

古代イスラエルから持ち込まれたいう話があり、

土俵の上部にある千木の乗せられた吊り屋根は、

伊勢神宮のお社とまったく同じ造りです。

矢倉神社の形式が先にあったのか、

もしくはもっと簡素だった古神道の形式に、

南方の風習が加えられたのかはわかりませんが、

もしかすると、この地でよく見られる櫓型の神社が、

のちにお祭りの櫓や、相撲の土俵を囲む櫓などの

原型となった可能性もあるのでしょう。


隠された痕跡

2017-02-05 10:23:55 | 無社殿神社1

 

<高富・矢倉神社 たかとみやぐらじんじゃ>

 

串本町の中心部から北西に向かって

4kmほどの場所にある高富・矢倉神社は、

自然崇拝から社殿建築までの移行過程が、

目に見えてわかるような場所でした。

社殿の裏側へと回り込みますと、

山の斜面に埋もれた祭壇らしき石組みが残り、

ここが古代の神籬であったことを伝えています。

 

家に帰って改めて地図で確認したところ、

高富・矢倉神社のご神体でもある裏山の森は、

後にご紹介する矢野熊・矢倉神社などと同様、

線路を通すために分断されてしまったようです。

山と建物の間にひっそりと封じられた石たちが、

この神社の長く複雑な歴史を証明していました。


密やかな主張

2017-02-04 10:10:21 | 無社殿神社1

 

<高富・矢倉神社 たかとみやぐらじんじゃ>

 

高富・矢倉神社(高倉神社)が鎮座しているのは、

串本町の中心部から北西に向けて、

4kmほど行ったあたりの田園地帯です。

田んぼの中を一直線に貫く狭い農道を、

車の速度を落としながらゆっくり進んでいくと、

森の中へと続くなだらかな階段に突き当たりました。

 

人の歩幅に沿うように作られたコンクリート製の階段と、

その向こうに見える紅白のコントラストが印象的な社殿が、

この神社に対する地域の人々の深い愛着を感じさせます。

 

串本町にある高富・矢倉神社は、

これまで見てきた無社殿神社の中でも、

とりわけ「今どきの体裁」を保った神社です。

ただ、じっくりとその様子を眺めてみますと、

周囲に張り巡らされた何重もの石垣が、

ここが「ただの神社ではない」ことを主張していました。


名無しの場所

2017-02-03 10:12:10 | 無社殿神社1

 

<高富・矢倉神社 たかとみやぐらじんじゃ>

 

熊野市紀和町にある板倉・矢倉神社が、

東の矢倉神社のひとつであるとするならば、

串本町高富地区にある高富・矢倉神社は、

地図上では「高倉神社」と示される西の高倉神社です。

なぜ二つの名前が混在しているのかはわかりませんが、

神社の由緒によりますと、明治時代に何度か改称があり、

最終的に「矢倉」に落ち着いたと聞きます。

 

この歴代の名称が示しているのは、

「矢倉」も「高倉」も元は同じだということで、

地域の人々にとっては、後世に付けられた名や、

便宜的に付けられた名は、さほど重要ではないのでしょう。

昔の人たちは、「●●のモリ」「ジノシ神」「ヤクラ神社」など、

見た様子そのままを「聖域の名」としました。

もともと神社というのは名無しの場所なのです。


古代の神籬

2017-02-02 10:55:17 | 無社殿神社1

 

<板谷・矢倉神社 いたややぐらじんじゃ>

 

熊野市紀和町にある板倉・矢倉神社に着くと、

赤く色づいた紅葉と、黄金色に輝く銀杏の木が、

社殿を取り囲む社叢を絵画のように染め上げ、

遠方からの来訪者を出迎えてくれました。

風が吹くたびに色とりどりの木の葉が、

境内の中を自由自在に舞い踊り、

木々の間からは、神域への入り口を

指し示す朱の鳥居がのぞいています。

 

そののどかで牧歌的な雰囲気は、

地域を守る鎮守様そのものですが、

何層にも重なった城壁のような石垣、

石段を登った先にある平坦な土地、

左右に灯篭を配した石の祭壇などは、

「無社殿神社」によく見られる特徴です。

石という鉱物には「貯める」性質があり、

古代は神籬の役目も果たしていたのでしょう。


東の矢倉神社

2017-02-01 15:55:00 | 無社殿神社1

 

<板谷・矢倉神社 いたややぐらじんじゃ>

 

熊野地方の「矢倉」と呼ばれる無社殿神社の多くは

西側の日置川、太間川、古座川流域に集中しています。

一方、同じように無社殿神社(元無社殿神社)が分布する

三重県寄りの熊野川・赤木川流域では、

その大部分が「高倉」へと名称を変えました。

 

この地を治めた古代豪族・高倉下をお祀りするまでは、

「高倉」とは異なる名称だった可能性も考えられますが、

熊野エリアの無社殿神社群を俯瞰してみますと、

「西=矢倉」「東=高倉」というおよその図式が見て取れます。

 

そんな中、熊野東部に属する熊野市紀和町の周辺には、

「矢倉」の名を残す神社が、実は数か所残っているのです。

そのうちのひとつ、紀和町の板倉にある板倉・矢倉神社は、

紀和町の中心部の住宅に囲まれた一角に鎮座していました。


無の境地

2017-01-26 10:04:07 | 無社殿神社1

<高田・高倉神社 たかたたかくらじんじゃ>

 

高田・高倉神社前の車道に車を寄せ、

神社の鳥居に向って歩きはじめると、

風に煽られて際限なく舞い落ちる

落ち葉を掃除していた男性が目に留まりました。

その方は「ここを管理する氏子だ」と告げ、

もうすぐ年に一度のお祭りがあること、

そのお祭りのときにはお餅をまくこと、

昔はもっとお祭りが賑わっていたことなどを、

見ず知らずの私に矢継ぎ早に話してくれます。

 

男性は私が神社を参拝している間も、

脇目も振らずに竹ぼうきを動かし続け、

私が車に戻る段になってもまだ、

掃除を止める気配はありません。

その姿を眺めていて思ったのは、

「これこそ神人合一」ということで、

自然と一体となって「無心で」働く様子に、

どんなに高名な宗教家にも負けない、

人間としての高い境地を感じたのです。


屋敷神

2017-01-25 10:03:23 | 無社殿神社1

<高田・高倉神社 たかたたかくらじんじゃ>

 

あちこちの神社を歩いておりますと、

その地域の有力者などの家に祀られていた

「屋敷神」をご祭神にした神社を見かけます。

屋敷神というのは、個人の住居や土地を

守っている「私的な神様」のことで、

今でも庭の一角に、お稲荷さんの祠を

お祀りしている旧家が少なくありません。

 

高田・高倉神社に残る伝承によれば、

こちらの神社のご祭神も、もともとは

個人宅の「屋敷神」だったのだそうです。

ただし、のちの神社合祀政策により、

高田・高倉神社に合祀された

近辺三か所の「高倉明神」に関しては、

やはり「無社殿」だった聞きます。

 

神社の裏手に回り込みますと、

自然信仰の場にふさわしい、

清らかな川が見えてきました。

長い歴史の中で、人々の祈りの対象が、

「自然」から「人を象った神」へと

移ろった場所は多々ありますが、

もしかするとこの神社は、

「人を象った神」から「自然」へと

祈りの対象を変えた、稀な場所なのも知れません。


異なる経緯

2017-01-24 10:00:38 | 無社殿神社1

<高田・高倉神社 たかたたかくらじんじゃ>

 

新宮市高田にある高田・高倉神社は、

熊野川の支流・高田川沿いに

鎮座しているこの地域の産土神です。

高倉神社が集中する赤木川の川筋から、

それほど離れていないため、

赤木川流域のそれと同じような経緯を

たどったお社かと思っていたのですが、

調べてみますと異なる事実がわかりました。

 

もともとこの神社がある里高田の一帯は、

深い森に包まれた峡谷だったようです。

そんな人里離れた場所に、中世の時代、

那智山詣をしていた栗須孫総という人物が

伊勢の尼出身の妻とともに住み着き、

自分の家の「屋敷神」として、

神様を勧請したのが起源なのだとか。

つまり、同じ「高倉神社」でもこの場所は、

最初から「神様」を祀っていたわけですね。


ご神体の在処

2017-01-23 10:55:40 | 無社殿神社1

<小口・高倉神社 こぐちたかくらじんじゃ>

 

周囲を川に囲まれた小口・高倉神社は、

きちんとしたお社を持つ「有社殿神社」です。

しかし、本来は建物のない「無社殿神社」で、

この地に鎮座する前は、近くの川べりにある、

通称「岩の鼻」という場所にあったと聞きます。

 

本殿と二つの摂末社への参拝を済ませ、

神社の裏手のほうへぐるっと回りこむと、

木々の向こうに川の流れが見えてきました。

社殿に隠れるようにして流れるその姿は、

この神社の「ご神体の在処」を示しています。

 

ちなみに、旧社殿地に鎮座していた頃は、

「御火の神事」というお祭りがあったのだとか。

明治時代に廃れてしまったそうですが、

熊野の伝統でもある「火」と「水」の儀式が、

このような小さな氏神でも行われていました。