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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

白山という極点

2015-05-10 13:13:44 | 白山信仰・楠と白石

<平泉寺白山神社 へいせんじはくさんじんじゃ>

 

「あの世」を示す場所は、

日本全国にたくさん存在しますが、

白山という場所は、

あの世とこの世との境目だと感じます。

白山の象徴でもあるククリヒメがあらわれたのも、

この世とあの世とをつなぐ黄泉への坂道でした。

 

伊勢内宮を陽の聖地とするならば、

熊野や出雲、東北などは陰の聖地。

そして陰が極まり陽に転換する場所が、

白山という極点なのでしょう。

 

漫然と日常生活を送っていると、

人は自我(陰)に従うようになり、

心身が緩んでしまうもの。

白山の「ククリの気」は、

訪れる人の心身を再生させる、

強力な力を秘めているのかもしれません。


白山妙理大権現

2015-05-09 15:59:59 | 白山信仰・楠と白石

<平泉寺白山神社 へいせんじはくさんじんじゃ>

 

白山信仰の中心となっていたのは、

菊理媛命(くくりひめのみこと)、

イザナギ、イザナミの三柱の神様です。

 

後世になって、白山を開山した泰澄大師が、

イザナミの化身である

白山妙理大権現(はくさんみょうりだいごんげん)

を感得したことから、

山岳信仰と修験道とが結びつき、

白山修験の道場は隆盛を極めました。

 

その中心的な場所のひとつが、

平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)です。

ちなみに、平泉寺というのは地名でして、

明治時代の神仏分離令で廃寺となってからは、

寺号をなくし神社のみが残っております。

 

杉木立に囲まれたゆるやかな石畳の参道を歩き、

鳥居の先に見えてきたのは、

それは見事な苔に覆われた庭園。

境内の全域に苔が敷かれている神社は、

あまり見たことがないため新鮮な感動を覚えました。


神を生みだす力

2015-05-08 11:00:32 | 白山信仰・楠と白石

<白山比神社 しらやまひめじんじゃ>

 

白山比神社の本殿を参拝したあとは、

表参道の石段を下りて下界に戻ります。

参道の途中、椿の花と南天の実が、

蘇りの道に彩りを添えていました。

 

日本神話の黄泉比良坂(よもつひらさか)の場面で、

ククリヒメがイザナギにささやいた言葉が、

どんな内容だったかはわかりませんが、

それはきっと、過去や死に関するものではなく、

未来や再生につながる言葉だったのでしょう。

 

この場を行き交う参拝者はみな、

自分の心と静かに向き合いながら石段を登り、

そして晴々とした表情で坂を下っていきます。

イザナギも蘇りの道を往復しながら、

死と再生の疑似体験をし、

貴い神々を生みだす力を得たのかもしれません。


黄泉へのトンネル

2015-05-07 15:50:35 | 白山信仰・楠と白石

<白山比神社 しらやまひめじんじゃ>

 

白山比神社を訪れたときは、

表参道の石段を上って本殿をお参りします。

石鳥居をくぐって小さな橋を渡ると、

その先はゆるい登り坂。

目の前に木漏れ陽がキラキラと舞い踊る、

美しい緑色のトンネルがあらわれました。

 

一説によりますとこの場所は、

イザナギとイザナミの争いを諌めるため、

ククリヒメが登場した

「黄泉比良坂(よもつひらさか)」

を暗示している場所だそうです。

あの世へと続く坂道を静かに登ると、

ククリヒメを祀るお社が見えてきます。


生きた信仰の場

2015-05-06 14:06:00 | 白山信仰・楠と白石

<平泉寺白山神社 へいせんじはくさんじんじゃ>

 

白山周辺の神社というのは、

他の名の知れた神社のように、

賑やかな門前町があるわけでも、

有名なパワースポットがあるわけでもなく、

観光気分で訪れた人にとっては、

少々物足りなさを感じる場所かもしれません。

 

それはきっと、白山という山が、

今なお「生きた信仰の場」であり、

祈願目的で訪れるところではないからだと。

白山の神様が下りるための目印が麓の神社で、

人々の我欲の願いを叶えるために、

社殿が建っているわけではないのですね。

 

もちろんこれは、他の神社でも同じですが、

大切なのは神社の建物ではなく、

その背後に控える山、岩、森などの自然です。

個人の願いを越えたその先にある、

「生への感謝」が心に湧きあがったとき、

自然(神様)との距離が縮まるのでしょう。


原始的な形

2015-05-05 15:05:05 | 白山信仰・楠と白石

<白山比神社 しらやまひめじんじゃ>

 

白山信仰というのは、

白頭山や朝鮮半島との関係を

示唆されるケースが多々あります。

泰澄と秦氏とのつながりや、

白山と白頭山、あるいは菊理媛と高句麗媛

という名前の類似性など、

多くの学者や知識人の方々が、

白頭山信仰を持った高句麗の人々が渡来し、

白山を祀ったという説を唱えているようです。

 

伊勢神宮の祭祀を見てもわかるように、

数千年にも及ぶ日本の歴史の中で、

日本古来の神道の形態は、

様々な異文化のエッセンスを取り入れながら、

現在の様式に落ち着きました。

大切なのは、表向きの名前や形にとらわれるのではなく、

その中の「核」となるモノを知ることです。

白山の周辺を巡っていますと、

宗教や民族や文化のちがいを越えた、

大きく原初的な信仰の形を、

目の当たりにする思いがします。


古い日本の信仰

2015-05-04 15:00:44 | 白山信仰・楠と白石

<菅沼神明社 すがぬましんみょうしゃ>

 

古神道の信仰形態に近いとされる白山信仰は、

特に社会から虐げられた人たちの間で広まりました。

「死も穢れもすべて受け入れる」という概念は、

身分や立場を越えて多くの人の心に響き、

今なおたくさんの白山神社が、

東日本を中心に残っています。

 

白山信仰を後世にまでつないだ人々は、

古い日本人の遺伝子を持つといわれており、

それゆえ外来の宗教になじめず、

社会的に差別されることも多かったのでしょう。

自らの存在を隠して全国に散った白山の神様は、

天照太御神、稲荷神、比売神などに名を変え、

日本を陰から守護しているのですね。


再生の場所

2015-05-03 13:06:13 | 白山信仰・楠と白石

<白山比神社 しらやまひめじんじゃ>

 

白山信仰というのは「再生」を願う信仰だと思います。

霊山に登拝し山での厳しい修行を経て下界に下ることで、

「生まれ変わり」を疑似体験するのが、

山岳信仰のひとつの形ですが、

白山が熊野や出羽三山などと少々異なるのは、

死者という存在があまり表立っていないこと。

 

以前、熊野や出羽三山を訪れた際に感じた、

「死」に対する生々しい概念が、

白山麓ではそれほど感じられません。

それはきっと、死者が集うとされるお隣の立山と、

菊理媛命(くくりひめのみこと)という

蘇りの神様の影響が大きいからなのでしょう。


くくる神

2015-05-02 13:59:59 | 白山信仰・楠と白石

<越中白山宮 えっちゅうはくさんぐう>

 

菊理媛命(くくりひめのみこと)の「くく」は、

物事を「くくる」という意味だといわれています。

また、「くく」は「九九」 という数字に置きかえられるように、

物事が最大限にまで広がった状態のこと。

世の中が飽和状態となり、

人々の心がまとまりを失くしかけたとき、

菊理媛命の神様があらわれて、

すべてを「くくり直す」のだそうです。

 

菊理媛命をお祀りした白山(および白山神社)は、

気軽に縁結びや夫婦和合を願う場所ではなく、

山という偉大な神様への畏敬の念を持ち、

真摯にお参りすべき聖域なのだと思います。

山がなければ土地は潤いませんし、

山がなければ海も浄化されません。

日本が水や食料に恵まれた豊かな国であるのも、

白山を始めとする山への信仰心が、

日本人の心の中に脈々と息づいているからなのでしょう。


ククリヒメの言葉

2015-05-01 12:22:55 | 白山信仰・楠と白石

<白山比神社 しらやまひめじんじゃ>

 

白山神社に祀られている御祭神は、

菊理媛命(くくりひめのみこと)です。

八百万の神が登場する日本神話の中でも、

一度しか姿をあらわさないククリヒメは、

「謎の神様」と呼ぶにふさわしい存在。

古くからたくさんの研究者により、

その意味や役目が分析されてきました。

 

ちなみに、ククリヒメが登場するのは、

イザナギが黄泉比良坂(よもつひらさか)から逃げ帰る際、

追ってきたイザナミと口論になった場面です。

どこからともなくあらわれたククリヒメは、

イザナギの耳元で「ある言葉」をささやき、

二人のケンカをいさめたのだとか。

 

その後、この世に戻ったイザナギは、

黄泉のケガレを清めるために禊ぎをし、

天照太御神(アマテラス)、月読命(ツキヨミ)、

須佐之男(スサノウ)という、

日本神話の核を成す三貴神を生み出しました。

つまり、ククリヒメの仲裁がなければ、

日本という国家が誕生することも、

私たちがこの世に生まれることも、

不可能だったのですね。


禅定道

2015-04-30 23:36:02 | 白山信仰・楠と白石

<平泉寺白山神社 へいせんじはくさんじんじゃ>

 

白山を取り囲むように点在する、

白山比神社、平泉寺白山神社、長滝白山神社、

の三つの神社からは、禅定道(ぜんじょうどう)

と呼ばれる登山道が山頂まで続き、

修行僧だけでなく、麓の農民や

遠くから訪れた都の人たちまで、

多くの人が白山を目指しました。

 

実は、白山信仰というのは、

白山周辺に限られた地域型の信仰ではなく、

時代時代の天皇、文化、戦乱、他の宗教など、

神道の枠を越えて多方面に影響を及ぼしたそう。

今なお全国各地に白山神社が残ってるのも、

白山信仰がいかに広範囲に及んでいたかを、

如実にあらわしているのでしょう。


大きな御社殿

2015-04-29 12:39:00 | 白山信仰・楠と白石

<長滝白山神社 ながたきはくさんじんじゃ>

 

もともと、日本人の原初の信仰形態は、

自然そのものを拝む形式でした。

山、岩、森、樹木、水、海、星、太陽…など、

自然界に存在する対象の中に神を見出し、

直接その対象に祈りを捧げてきたのが出発点。

その後目印のために、結界を示す注連縄や、

遥拝するための社殿が使われるようになり、

私たちが知る現在の神社が出来上がりました。

 

白山の周辺にも多くの白山系神社がありますが、

そのほとんどがとても簡素な雰囲気の場所です。

白山比神社、平泉寺白山神社、長滝白山神社 といった、

ある程度の規模を持つお宮でさえ、

神域の中に余計な「色」や飾りはなく、

非常にあっさりした感じを受けます。

それはきっと、白山という山自体が御社殿であり、

神社の枠に収まらないほど大きな神であることを、

私たちに示しているからなのでしょう。


信仰の山

2015-04-28 22:21:21 | 白山信仰・楠と白石

<白山市 はくさんし>

 

信仰という言葉を聞きますと、

「限られた人がするもの」

という風に考えがちですが、

すべての日本人の心の中には、

生まれながらに信仰心が備わっています。

自然の音(声)に季節を感じたり、

自然の中に神を見い出せたりするのは、

紛れもなく「信仰心」を持っている証なのですね。

 

白山という山を見るといつも、

「山が生きている」と強く感じます。

それは、白山自体のエネルギーだけでなく、

山の力を最大限に引き出す原動力となる、

人々の厚い信仰心があるからでしょう。

古くから崇敬の念により守られてきた白山は、

今なお信仰の山としての威厳を保ち続けています。


荘厳な輝き

2015-04-27 14:28:28 | 白山信仰・楠と白石

<白山長滝駅 はくさんながたきえき>

 

遠くの地域から訪れた人間が、

旅先の山の位置を把握するのは難しいもので、

不慣れな土地を訪れるときはいつも、

「あの山の名前は何だろう」と、

頭を悩ませてしまいます。

 

以前、白山の麓のお土産物屋で、

「白山と他の山はどうやって見分けるのですか?」と伺ったところ、

「実際に見れば、これが白山だとすぐにわかりますよ」

という返事が返ってきたことがありました。

 

確かに、白山という山は、

なかなか全貌を見渡せない山であると同時に、

ひとたびその姿を目にすれば、

「これだ」と直感で気づくもの。

今回はルートの関係もあり、

白山山系の一部しか見られませんでしたが、

時折目の前にあらわれる白い山々は、

やはり荘厳な輝きを放っておりました。


泰澄大師

2015-04-26 23:31:20 | 白山信仰・楠と白石

<平泉寺白山神社 へいせんじはくさんじんじゃ>

 

この時期の白山周辺には、

まだ雪が融けていない場所も多いため、

ひとたび山道に入ると、麓の春うららかな景色が一変し、

人を寄せつけないような厳しい冬山の名残が見られます。

 

その名が示す通り、ほぼ一年中頂に雪をたたえる白山は、

1300年前までは「神の山」として畏れられ、

人が近づける場所ではなかったそう。

そんな白山にはじめて登拝(とはい)したのが、

泰澄大師(たいちょうだいし)です。

 

「白山に来たれ」とのお告げを受けた泰澄大師は、

弟子とともに白山山頂を目指し、

そこで十一面観世音を感得しました。

その後、山頂での千日修行などを経て、

白山信仰の布教に力を注ぐことになります。