goo blog サービス終了のお知らせ 

たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

特別な形象

2018-03-15 09:35:26 | 阿波・忌部氏1

<麻文様資料>

 

その昔、海を生活の場とする人々(海人族)は、

航海に出る際、麻をお守りとして携帯したと聞きます。

海人族の信仰と聞いて思い出すのは、

以前のブログでも取り上げた

「船玉」という興味深い神様ですね。

もし、それらの話が本当だとすれば、

麻こそが船玉の神だった可能性もあります。

 

日本で栽培されてきた植物の中でも、

麻はかなり古い起源を持つとされ、

麻の起源をたどって行くと、

なんと縄文時代にまで遡れるのだとか。

江戸時代に入るころまでは、

麻は木綿以上に重要な繊維だったそうですし、

現在でも東北や中部地方を中心に、

麻文化の伝統が脈々と伝えられています。

 

昔は、赤ちゃんの産着などにも、

魔よけの意味で麻の葉文様を施したように、

あの単純な六角形の幾何学模様の中には、

不思議な力が込められているのでしょう。

「カゴメ紋」「六芒星」とも重なる

「麻の葉文様」という謎の紋章は、

古代イスラエル人と海人族、

そして忌部氏とを結ぶ

特別な形象なのかもしれません。


麻と日本人

2018-03-14 09:33:32 | 阿波・忌部氏1

<狭井神社 さいじんじゃ>

 

「大麻(たいま)」という響きには、

とかく負のイメージが付きまとうものです。

しかしながら、「麻」は本来日本人の生活から、

どうしても切り離せない重要な植物であり、

麻なくして日本の国は保てないとも感じます。

古代、阿波忌部氏が全国に麻を広めたように、

麻に対する間違った先入観をなくし、

正しく麻を栽培し利用することは、

私たちの暮らしを変えるだけでなく、

日本人の心の復興をも後押しするのでしょう。

 

近年、伊勢神宮のお膝元である三重県でも、

麻の生産を模索しているとの話があるように、

近隣の氏神を通して各家庭に配布される

「神宮大麻」と呼ばれるお札に関しても、

日本産の麻を使うからこそ、

その霊力を発揮できるのだと思います。

一説によりますと、阿波忌部氏の一族が、

自国に留まらず全国各地に入植したのは、

「より上質の麻」を求めたからなのだとか。

私たちは今一度、「麻」との関わりを

見直す時期に来ているのかもしれません。


麻の秘密

2018-03-13 09:31:32 | 阿波・忌部氏1

<つるぎ町・貞光>

 

1年ほど前の徳島県の地方新聞に、

「吉野川市が栽培麻の復活を断念した」

という内容の記事が載っていました。

何でも吉野川市に先駆けて、

産業用大麻の栽培を進めていた

山陰地方の業者に問題が起こり、

栽培免許の取得や種子の確保が

困難になったとのこと。

上手く許可が下りれば、

来年行われる大嘗祭用の麁服に、

阿波産の麻を使うこともできたのでしょうが、

麻の扱いは非常にデリケートなようです。

 

古来から日本の伝統産業であり、

神事を行うための必需品である

麻(大麻)の栽培を禁止したのは、

戦後日本を統治下においた、

GHQだと言われています。

麻の種類や大麻の毒性に関する詳細、

また「たいま」と「おおあさ」の違い

などについてはここでは割愛しますが、

つまりは、かのGHQが禁止するほど、

「日本人の根幹につながる何か」が、

麻という植物に隠されていたわけですね。


麻の国

2018-03-12 09:28:50 | 阿波・忌部氏1

<大麻比古神社 おおあさひこじんじゃ>

 

徳島県内をグルグルと巡っていますと、

至る所に「麻」がついた地名を見かけます。

特に、阿波忌部族の本拠地のひとつである、

「麻植郡」と呼ばれていた吉野川市一帯は、

名前の通り「麻」の栽培が盛んだった地域です。

また、阿波国一の宮の大麻比古神社も、

そのままズバリ「麻」の名を冠した古社で、

神紋にも麻の葉が使われています。

 

実は、麻を全国に伝えたのは、

阿波忌部の一族だとされており、

阿波と同じ読み方を持つ「安房の国(千葉県)」は、

阿波忌部氏の痕跡が残る場所のひとつです。

安房に上陸した阿波忌部の一派は、

上総・下総・武蔵・常陸・下野……等々、

関東一円へと勢力範囲を伸ばしながら、

麻や穀(木綿)などの栽培技術を伝播しました。

 

特に、利根川流域には、阿波忌部氏の軌跡を

たどるかのように、麻や穀などを主原料とする

「織物」「和紙」などの産地が集中し、

阿波忌部氏に関わる神社もたくさん残っています。

数十年前まで「麻農家」を営んでいた

北関東に住む知人の話によりますと、

昔は近隣一帯に麻畑が広がっていたものの、

現在では、麻の需要や大麻規制の問題などのため、

一部の限られた地域でしか生産されていないそうです。


阿波忌部氏

2018-03-11 09:27:03 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

全国各地に散らばる「地方忌部氏」の中でも、

特に大きなグループであったとされるのが、

剣山一帯を本拠地とした阿波忌部氏です。

天皇の即位の礼(践祚大嘗祭)において、

麁服を調進する役目を担う「三木家」は、

阿波忌部氏の直系の末裔であり、

旧麻植郡、 旧美馬郡、旧名方郡などが

彼らの主な拠点だったと言われています。

 

ちなみに「忌部氏」というのは、

血縁関係により結ばれた部族ではなく、

「ある特殊な職能」を持つ人々に対する

呼び名(集団名)だったとのこと。

「麻・穀・粟」の栽培など、

祭祀に用いる植物の育成や

調達を担当した阿波忌部氏は、

各地に人材を派遣し技術を伝える

「忌部族の中心的存在」でもありました。


植物の神

2018-03-10 09:11:56 | 阿波・忌部氏1

<吉良・忌部神社(御所神社) きらいんべじんじゃ>

 

「忌部」と名のつく神社は、

先日ご紹介した3つの神社を含め、

剣山周辺に全部で4社ほどあります。

一つ目は、三木家の麁服との縁が深い

忌部山(山崎)の忌部神社。

二つ目はつるぎ町吉良にある忌部神社(御所神社)。

三つめは徳島市の眉山のふもとの新しい忌部神社。

そして四つ目が山川町・種穂山の忌部神社です。

 

種穂山(たなぼやま)の忌部神社に関しては、

残念ながら未調査なのですが、 こちらの神社は、

その名の通り様々な穀物の「種」を貯蔵していた

場所ではないかと言われています。

全国の地方忌部氏の中でもとりわけ、

植物や食物の生産技術に長けていた阿波忌部氏は、

この神社に穀物の種を蓄え各地に運んだそうです。

 

ちなみに、忌部山の忌部神社の神紋は、

麁服との深い縁を感じさせる麻の文様ですが、

吉良の忌部神社の「穀(梶)紋」の梶の木は、

麻と同様に古くからこの地に伝わる

「太布(タフ)」という粗布の原料になります。

もしかすると、忌部と名のつく神社は、

各々の地で生産される植物の象徴でもあり、

各々の植物の神をお祀りした

場所だったのかもしれません。


複数の候補地

2018-03-09 09:10:06 | 阿波・忌部氏1

<吉良・忌部神社(御所神社) きらいんべじんじゃ>

 

927年完成の「延喜式神名帳」

という書物に名前が記載された神社を、

式内社と呼んでいます。全国の神社の中でも、

当時朝廷の庇護下にあったとされる式内社には、

いくつかの階級のようなものが存在し、

特に「大社」に指定された神社は、

政治的な面でも重要視されており、

阿波国には三社しかないそうです。

 

忌部氏の氏神である「忌部神社」は、

そんな阿波の「大社」のひとつなのですが、

実ははっきりした所在地がわかっておらず、

三木家の麁服を織る忌部山の忌部神社と、

お隣のつるぎ町の忌部神社との間で、

激しい論争が続いていたと聞きます。

 

最終的に、両者の間を取り持つ形で、

全く無関係の徳島市の二軒屋町に、

新たな忌部神社が建立されたのものの、

現在でも正確な所在地に関しては、

議論が分かれたままなのだとか。

ちなみに、つるぎ町の忌部神社は、

地元では「御所神社」とも呼ばれ、

山上の開けた平地に鎮座していました。


忌部の神社

2018-03-08 09:24:30 | 阿波・忌部氏1

<山崎・忌部神社 やまさきいんべじんじゃ>

 

麁服という麻織物は、三木家の敷地内で、

すべての制作行程を完了するわけでなく、

種蒔き、刈り取り、精麻をしたのち、

忌部山のふもとにある忌部神社の機殿にて、

製糸や織の作業が進められると聞きます。

そして、麁服の反物が完成すると、

再びそれらは三木家に戻され、

地域の氏子にお披露目されたあと、

再度忌部神社へと移動してから、

皇居に向けて出発の儀式が

執り行われるのだそうです。

 

ちなみに、こちらの忌部神社は、

もともと神社後方の「黒岩」と呼ばれる

山腹付近に社殿が建てられていたのだとか。

当時は、かの出雲大社よりも

高い社格(式内社)だったようですが、

現社殿は新しくこじんまりとしており、

残念ながら古来の面影は薄れています。

また、「忌部」と名のつく神社は、

ここ忌部山以外にもいくつか存在し、

それぞれが独自の趣を醸し出していました。


尾根道

2018-03-07 09:19:02 | 阿波・忌部氏1

<山崎・忌部神社 やまさきいんべじんじゃ>

 

三木家からさらに国道を剣山方面へ進むと、

木屋平という名前の大きな集落に出ます。

残念ながら今回は足を運べなかったのですが、

広大な面積を要するこの山中の村は、

周囲を1000m級の連山に囲まれた、

隠れ里の名にふさわしい山間地でありながら、

意外なほどの人口規模を保っており、

商店や学校・郵便局なども立ち並ぶ、

ちょっとした「町」だそうです。

 

かつて、様々な場所から

人・物・情報などが一堂に集まる

物流の拠点だったこの地には、

他の集落とつながる幾多の尾根道が、

縦横無尽に張り巡らされていたのだとか。

三木家で育てられた麁服の麻も、

これらの細い尾根道を通って、

吉野川市の忌部山まで運ばれ、

機織りの作業へと引き継がれたと聞きます。


みつぎ

2018-03-06 09:16:57 | 阿波・忌部氏1

<美馬市・木屋平>

 

三木家の「三木」という名称は、

この地の古い地名である「三ツ木」、

あるいは「貢」が語源と言われております。

三木家の人々もその昔は「みつぎ氏」と称し、

また、何度かの統廃合を経るまでこの一帯は、

麻植郡(おえぐん)と呼ばれていました。

「貢」や「麻」の文字を見てもわかるように、

三木家とその周辺の地域は、古くから

天皇への貢ぎ物である麻を扱っていたのです。

 

現在、徳島で麻は栽培されていませんが、

数年前に名称が消滅した麻植郡を筆頭に、

県内の至る所で「麻」の地名を見かけます。

特に、三ツ木地区のあたりは、

麻の栽培に適した地質・地形であり、

平地以上に良質の繊維が取れたのだとか。

平成の大嘗祭のために用意された麁服も、

こちらの三木家の前庭で栽培・収穫された

特別な麻を使用したそうです。


空の地

2018-03-05 09:14:27 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

「空の地(そらのじ)」と呼ばれるその場所へは、

国道とは名ばかりの狭い山道を右へ左へと折れ曲がり、

途中で脇道へ逸れたのち、急こう配の九十九折の坂を

4kmほど上り続けてようやく到着することができます。

以前記事にした、磐境神明神社から約40分。

剣山に向かう他のルートと比べても、

一段と険しさを伴うこの行程は、

今回の旅で私が訪れた中でも、

とりわけ果てしない道のりに感じました。

 

標高520mという紛れもない「空の地」にあるのは、

現在、重要文化財にも指定されている三木家のみです。

そして、唯一の住民である三木家の当主も、

冬の寒い時期は大阪で生活を送っていると聞きます。

ちなみに、三木家の所在地は「三ツ木(貢)」という字名で、

昭和の初期には小・中学校もあったそうですが、

私が訪れたとき、あたり一帯を覆っていたのは、

まさに「静寂」のひと言しか出てこないような

怖ろしいほどの静けさでした。


麁服

2018-03-04 09:09:51 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

践祚大嘗祭で使用される「麁服(あらたえ)」は、

同じ織物の献上品である「繪服(にぎたえ)」をはじめとする、

他の調進の品々とは別格の扱いを受けており、

麁服の受け渡しや、大嘗祭当日の搬入法……

などに関しては、特別な手順を踏むのだそうです。

また、不確実な情報ではありますが、

天皇がまずお召しになられるのが麁服で、

次に繪服を纏うという話も耳にしました。

いずれにせよ、大嘗祭における最重要品目であり、

最も天皇の御身に近いとされるのが麁服なのですね。

 

長い歴史の中で、繪服のほうの担当家は途絶え、

現在は別の場所で調製しているのに対し、

麁服の担当である三木家に関しては、

今なお脈々とその血統をつないでいます。

南北朝の戦乱の世に途絶えていたこの習わしを、

大正天皇即位の折に復活させた背景には、

いったい何があったのでしょうか……。

恐らくそのとき、天皇家と三木家との

「見えない因果」が再起動したのかもしれません。


真床追衾

2018-03-03 14:04:48 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

「真床追衾(まどこおふすま)をもちて、

ニニギの命を覆いて、降りまさしむ」という一文は、

天孫であるニニギの命が地上に降臨する際の様子を、

表したものだと言われております。

昭和の民俗学者・折口信夫は、この文章を元に、

天孫降臨と践祚大嘗祭との関連を指摘しましたが、

いかんせん、長い天皇家の歴史の中でも、

この儀式に関する詳細が明らかになることはなく、

真偽のほどは定かではありません。

 

もし仮に、践祚大嘗祭の儀式が、

真床追衾にくるまれた天孫降臨の際の

ニニギの姿を模したとするなら、

麁服こそがその真床追衾なのでしょうか……。

実際に麁服という織物を天皇陛下が

身に付けられるのかどうかは不明ですが、

麁服がなければ「天皇として即位できない」

ということだけは動かしがたい事実なのです。


践祚大嘗祭

2018-03-02 09:25:25 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

新たな天皇の即位が決まり、

皇位の継承が終了するまでの間、

皇室では様々な儀式が執り行われます。

三木家が調進する麁服という織物は、

それらの数ある儀式の中でも、

とりわけ秘密性が高いとされる

践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)

において使用されるものです。

 

深夜の儀式である践祚大嘗祭では、

沐浴・潔斎した天皇となる貴人が、

大嘗祭のためだけに建てられた大嘗宮に赴き、

「天皇霊と一体になる」神事を行います。

その際、天皇は八重畳(はやだたみ)

と呼ばれる八枚の畳を重ねた寝具に横になられ、

麁服はその足元に置かれるのだとか……(*諸説あり)

 

また、麁服と対になる形で、繪服(にぎたえ)

という絹織物も用意されると聞きます。


御殿人

2018-03-01 09:22:13 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

忌部氏を語る上で「三木家」という家系は、

避けて通れないキーワードです。

現在、阿波忌部氏直系の末裔として、

公に表に出ているのは、

こちらの三木家くらいのものでして、

他県の人たちからはもちろんのこと、

地元の徳島の人たちの記憶の中からも、

「忌部」という存在は消えかかっています。

 

三木家の人々は、古来より大嘗祭において

天皇陛下がお召しになる、麁服(あらたえ)

という麻の織物を制作し調進する、

御殿人(みあらかんど)の役を任されてきました。

御殿人は阿波忌部直系の氏人に限られており、

大嘗祭の日程が決まると、皇室から直々に

「慣例に従い調製をお願いしたい」という

文書が届けられるのだそうです。

 

つまり、三木家側から皇室に

「ぜひ」と献上するのではなく、

天皇陛下のほうから「どうかよろしく」

という依頼が来るわけですね。

この皇室との不思議な逆転関係にこそ、

天皇家に対する三木家のポジション、

そして歴史に埋もれた忌部氏の実像を

つかむヒントが隠されているのかもしれません。