あれから今日で3年になります。
家族と連絡が取れなくなって、それでも道路も寸断されていて現地には入れない知人の苦しみ、嘆きをそばで見ていて言葉もなかった日々が続いていました。
妹さんと連絡が取れ、でもご両親の最後を知り、とにかくご両親の遺体を救い出さなければとじりじりしてやっと現地に向けて出発できたのはそれから9日も経っておりました。
習性でカメラを持参しましたが、とても平常心でカメラを向ける気持ちにもならなくって、とにかく何かの記録になればという義務感だけでほんの数枚だけシャッターを押しました。
報道カメラマンなら心を鬼にして撮影できるのでしょうけど、普通の人間にはとても無理な状態でした。
原爆のとき、私はまだ2歳になる直前でまったく記憶にありませんが、父の遺体を捜しに被爆地に入った私の母、祖母の気持ちが想像できるような状態でした。あの時もとにかく身に着けていた腕時計だけが身元を確定するものだったのだそうです。
一月経ったときにヴィスワヴァ・シンボルスカの詩を捧げました。私に当ててもたくさんの友人たちからのお見舞いのメールを頂きました。
もう三年も経つのだから、自分の足で立ち直らなければって言う意見もあります。でも被災した人たちが、生活を取り戻そうとしても、自分の家があったところに戻れるのかどうかが分かったのでさえやっと去年のこと。
自治体が復興プランを立てようにも、国の指針、そしてそれからどれだけのお金を出してくれるのか、歳入の道がなくなり、人手もなくなったった地方の自治体には目の前の惨状を見ているわけですから、心苦しい毎日であったことなのだと思います。
家を建て直せるという素晴らしく幸運な人でさえ、その気があっても、上下水、電気、ガスなどの生活に必要なインフラがまだ追いついていない。復興の波に乗って、工事をやる人も集まらない。
まして高齢者、収入の道を閉ざされた人々にとってはそれがどんなに高いハードルなのか。
妹さんの会社、高台にあり、津波の被害からは逃れられましたが、クライアンも下請けもなくなってしまって、従業員の生活の道を閉ざさないと会社を閉鎖しなかった経営陣の努力ももう限界。妹さんは結局、東京に出てきることになりました。彼女は年齢的にも、経験もない仕事に応募したのですが、会社が、彼女の状況を勘案してくれて、幸運にも仕事につくことができました。、
今の経済状態の中では、被災地の会社の倒産は増えていくと思いますし、失職した人々の再就職などのケアがどれだけできるのか先は明るくありませんね。
まだまだ長い道のりなのですね。
地震のニュースは
福岡から別府に向かう車のラジオで
聞きました
あっちこっちで起こった地震を
情報が混乱してるんだろうと思い
家に着きTVを見て愕然としました
こんなに恐ろしい津波の光景は
初めて見たような気がしました
そんな中 お知り合いの方の
家族を探しに
現地まで行かれた風車さまのお気持ちは
お父さまのことも思い出されて
よりいっそうにお辛かったと思います
春が来ると喜んでいますが
春が来ると
その時の辛い気持ちを思い出される
沢山の方々がいることを
忘れてはいけないですね
まだまだ長い道のりだと思いますが
一日も早い復興と
昨日より今日
今日より明日と
少しづつでもお気持ちが晴れることを
心からお祈りいたします
あのあと、この小さな町からも何人も救援物資を募って届けている人や(今もやっています)、ボランティアで現地入りした人たちもおりました。
妹さんのケースのように、被災地から来た人だからと、募集枠を広げて採用してくれた会社やその担当者もいました。
そんな気持ちがもっと広くなってくると、日本全体が素晴らしくなっていくのでしょうけど。
はないでしょうか。朝、NHKTVでいすみ太東漁
港のま蛸を見せてもらいました。今朝の光景ではな
いでしょうが、三陸から渡ってくる真蛸は最高の味
だと漁師が自慢していました。
三年前も同じような光景が見られたに違いありま
せん。午後のあの時刻までは。
三陸ー房総半島、陸地もつながって海底も海水も
蛸もつながっている。その上で暮らしている人間社
会がつながっている、ということを示したのが「3・11」でもありました。それを自然のつながりと同じ
確実さでつなげていきたいものです。
インターネットとかブログとかがその一助になれ
ばと思います。
あの地震のショック、そして避難から戻って、津波のニュースを知った時のショック、、、、
忘れられません。
福岡で西方沖地震を体験しましたが、この地震でメンタルも弱り、本当に3年間辛かったです。
職場で黙祷をみんなで捧げましたが、祈り続けたいと思います。
太東漁港、いすみには、太東と大原の二つの漁港がありますが、知られていないことですが、いすみはイセエビの漁獲日本一なのだそうです。そしておっしゃっているたこ。これまたブランド品なのですね。この辺、どこへ行ってもたこ飯なるものが出されます。私は刺身のほうが好きなんですけど。
3年前にはこの漁港も、津波の被害を受けました。九十九里ももう少し北側ですと、町の中でも津波被害が出てました。
被害も、広さがそれほどでもなければ、その地自体、コミュニティでの補修が効きますけど、その自治体そのものが崩壊するような被害が出ると、その上がしっかりしなければどうにもなりませんね。ところが往々にしてその上は自分の目の前の惨劇ではないので、平時ののんびりとした対応しかできないのですけどね、、、
現場にもっと力が欲しいというのはなにも311に限ったことじゃないのですけど。
情報がないというのは現場の被災者も、それにまつわる人々も本当にどうしたらいいのか判断ができなくって辛いですね。
日本のメディアってその面とても弱い。困ったもんです。